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2016年05月18日10:19

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『 セッション 』


人からBDを拝借して、仕事の合間に映画『 セッション 』(原題:"Whiplash")を観た。公開当時、マイミクさん達にも熱烈に勧められていながら、結局、劇場で見逃した映画である。音楽をテーマにした映画らしいということは知っていたが、観て驚いた。こりゃ、戦争映画だよ。 

 主人公アンドリュー・ニーマンは「 偉大な音楽家になる 」ことを夢見て、アメリカ最高峰の音楽学校であるシェフィールド音楽院に入学し、ひょんなことから、カリスマ指導者テレンス・フレッチャー教授(J・K・シモンズ)に見いだされ、エリート学生ばかりを集めたスタジオバンドのメンバーとなる。しかし、フレッチャーの指導は音楽教育の常識をはるかに超えたスパルタ式で、アンドリューは徹底的にしごかれるのだった。フレッチャーの高い要求に応えようと、アンドリューは何もかも投げ打ってドラムの練習に没頭し、やがて彼は内側から大きな変化を見せ始めるのだが・・・・。

 この先、ネタバレ全開なので未見の方はご遠慮願いたい。













 なぜ、この映画を「 戦争映画 」と呼んだのか、多くの映画ファン・戦争映画マニアには説明の必要もないだろう。フレッチャーの常軌を逸した激しい教育指導は、戦争映画でよく描かれる「 新兵教育 」にそっくりだからだ。最も顕著なのは、スタンリー・キューブリック監督作品『 フルメタル・ジャケット 』で、映画の前半は丸ごと新兵教育描写に費やされている。教育係の下士官によって新兵は終始罵倒され、永遠に続くかと思われる激しく理不尽な「 言葉の暴力 」と「 肉体の限界を超えるトレーニング 」によって徹底的にしごかれる。その目的は何か。兵士として、指揮官の命令に絶対服従することと、チーム(分隊)の一員として団体行動を「 考えずにできる 」ようにするためだ。学ぶのではなく、身体に叩き込まれて、一人前の兵士に生まれ変わる。新兵教育期間が終わって、それぞれが部隊に配属される時、鬼のような教官が新兵一人一人を抱きしめ、「 今日から我々は家族になった 」という言葉をかけるシーンは何より重要だ。教官が彼らを罵倒し、苛酷な訓練でいじめ抜いたのは、「 戦場で無駄に死なない兵士 」「 仲間を犠牲にしない兵士 」を育てるためであって、自分の楽しみのために罵倒し、しごいていたのではない。

 それでは、フレッチャー教授は何のために学生達をあれほど厳しく扱ったのだろうか。映画『 セッション 』を理解する上で、フレッチャー教授の目的が何かを読み違えると、彼が単なる性格破綻者に映ってしまうだろう。彼の教育手法は言葉の暴力と理不尽な要求で学生を徹底的に追い詰めるもので、これは前述した軍隊の新兵教育と全く同じだ。怒鳴り、プライドを傷つけ、絶えずプレッシャーを与え続けることで、学生を「 真剣に音楽に向き合わせ、怒りのエネルギーで自分の殻を打ち破る 」限界点に追い込んでいるのだ。その過程で学生が潰れ、音楽を離れる結果になったとしても、フレッチャー自身は全く構わないと考えている。

 彼は言う。

 「 挫折する奴は、次のチャーリー・パーカーではない。本物のチャーリー・パーカーは何があろうと、絶対に挫折しない。 」

 ジョー・ジョーンズがシンバルを投げつけて、チャーリー・パーカーという不世出の天才ジャズミュージシャンを開花させるきっかけになったように、フレッチャーは学生達の中から次のチャーリー・パーカー、次のサッチモを発掘するために全身全霊を打ち込んでいたのだ。彼は教育者としては失格かも知れない。しかし、その信念は一途で揺るぎない。

 映画の終盤、JVCフェスティバルに出演するフレッチャーがアンドリューを誘ったのが、復讐かどうかは意見の分かれるところだろう。私は復讐ではない、と考える。共にシェイファー音楽院を去った身だったが、フレッチャーはまだアンドリューを諦めていなかったのだ。アンドリューの可能性を信じていたからこそ、あれだけ巧妙に「 絶対絶命の罠 」を仕掛けたのだろう。第一、ジャムセッションで大失敗したチャーリー・パーカーの前例と全く同じシチュエーションに追い込めるではないか。もちろん、彼の仕組んだ罠でアンドリューが完全に潰れてしまう可能性は低くなかった。しかし、それでアンドリューが潰れてしまうのならば、アンドリューが「 次のチャーリー・パーカー 」ではなかったというだけだ。

 「 キャラバン 」の最後、アンドリューのドラム・ソロに接した時のフレッチャーの表情の変化と行動こそ、彼の「 真の目的 」を解く鍵だ。自分の想像をはるかに超えたアンドリューの度胸(フレッチャーはアンドリューが這い上がってくるとしてもかなりの年月が必要だと思っていたはず)と演奏、何よりその魂にフレッチャーは歓喜し、心底、満足しているのがわかる。正にその時が、自らの手で「 次のチャーリー・パーカー 」を生み出した瞬間だったからだ。台詞のない、この10分弱の映像には圧倒された。

 ラスト、演奏終わりと同時にカットアウトしてエンドロールが流れ、観客の反応を一切入れなかったのは素晴らしい。アンドリューとフレッチャーの表情から、二人に明るく輝かしい未来が開けたのがわかり切っている以上、盛り上がる観客の拍手喝さいなど無用だ。実に気持ちの良いエンディングだった。

 ちなみに、原題の『 Whiplash(ウィップラッシュ=鞭打ち) 』はジャズの曲名とフレッチャーの厳しい指導をかけたものだが、ジャムセッションで二人の魂が見事に同化していくラストシーンを直接的に表現した邦題の『 セッション 』の方がこの映画にはしっくり来ると思う。

 最後に一言だけ。

 フレッチャーを演じたJ・K・シモンズは、サム・ライミ『 スパイダーマン 』三部作の新聞社編集長役の時から個性的で好きだったが、これほど鬼気迫る演技ができる俳優だったとは夢にも思わなかった。いや、本当に素晴らしい演技だった。
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