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2011年05月19日10:39

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『 イングロリアス・バスターズ 』

 ランティーノが初の戦争映画を撮ると知った時、「 これは凄い戦争映画になる 」と素直に喜んだ。『 レザボアドッグス 』『 パルプフィクション 』など初期作品が従来のギャング映画とはかなり趣きの違う、リアリティとスタイリッシュを融合させた新しいスタイルを持っていたからだ。タランティーノらしい稀有な戦争映画となるに違いない、と期待が膨らんだ。しかし、ほどなくして劇場予告編を観た時、不安に変わった。彼が作ったのは正統的な戦争映画ではなく、戦争娯楽アクション映画だった。

 物語は1941年、ドイツ占領下のフランスの農村から始まる。妻子と暮らすフランス人酪農家ラパディットのもとに、親衛隊のハンス・ランダSS大佐(クリストフ・ヴァルツ)と部下がやって来て、所在不明のユダヤ人一家の消息を尋ねた。ランダはヒトラー総統から隠れているユダヤ人を全て逮捕せよという命令を受けていたからだ。彼は礼儀正しく温厚なドイツ将校だが同時に語学堪能で頭脳明晰。鋭敏な勘と嗅覚を兼ね備えた類稀な「 ハンター 」だった。ランダはラパディットがユダヤ人一家を匿っていると見抜き、隠れ場所を明かせばラパディットと家族の罪は問わないと約束する。巧妙なランダの誘導で、ラパディットは床下に隠れていることを明かしてしまう。ランダは部下を招き入れると、短機関銃で床板を掃射させ、ユダヤ人一家を殺害。しかし、一家の娘ショシャナ(メラニー・ロラン)はただ一人危機を脱し、逃走した・・・(第一章)。

 その頃、合衆国では陸軍中尉アルド・レイン(ブラッド・ピット)がユダヤ系アメリカ兵8名からなる「 特別攻撃隊(バスターズ)」を組織。彼らはドイツ占領下のフランスに一般市民を装って潜入し、ドイツ軍を奇襲するゲリラ活動を展開することを任務としていた。レイン中尉はインディアンの混血で、アパッチのように残忍に闘うことを信条としていた。彼の目的はただ一つ。ドイツ兵をできるだけ残酷な方法で殺害し、連合軍のゲリラ部隊に対する恐怖を植え付け、戦意を喪失させることだった。レイン中尉は、部下達に殺害したドイツ兵から頭皮を剥いで各自100枚を集めることを厳命した。
 レイン達の残虐なゲリラ作戦は奏功し、ドイツ軍部隊の間に「 ユダヤの熊 」と呼ばれる恐怖の殺人集団の噂が広まっていった。ヒトラーは全軍の士気が落ちるのを懸念し、バスターズを「ユダヤの熊」と呼ぶことを禁止したが・・・・(第二章)。


 『 イングロリアス・バスターズ 』は第一章から第五章まで、5つのエピソードで構成されている。逃亡したユダヤ人少女ショシャナ(第一章、第三章)、バスターズ(第二章)、「 プレミア作戦 」を遂行する英軍情報部(第四章)の活動が同時進行して、クライマックス(第五章)になだれ込む。ひとつひとつのエピソードは見事に練りこまれ、それぞれを独立した作品に膨らませることも可能だったろう。緊張感を盛りあげる「 緩急ある演出 」はさすがタランティーノだと感心した。しかし、映画全体としては好きになることができないのは、悪趣味に過ぎるからだ。これは実に「 酷い映画 」である。

 この先、ネタバレを含むので未見の方はご遠慮願いたい。














 映画の楽しみ方は、人それぞれだ。観客(視聴者)の数だけ、楽しみ方があると言って良いだろう。しかし、映画の解釈の仕方を突き詰めるなら、二つしかないと思う。映画の描き出す世界を「 リアル 」と捉えるか、「 作りモノ 」と捉えるかだ。私は、映画の物語世界を「 リアル 」と解釈する。映画で人が死ぬのは紛れもない「 死 」であり、「 死を演じている俳優 」だとは決して観ない。多くの映画ファンが容認する「 これは映画だから・・・ 」というお約束も好まない。映画のラストをぶち壊しにするような『 蒲田行進曲 』が如きフィナーレは大嫌いなのだ。あくまでもリアルにこだわった視点に立つと、『 イングロリアス・バスターズ 』はなんとも悪趣味な映画だとしか言いようがない。

 タランティーノの脚本と演出のどこが悪趣味か?

 その答えは明白だ。人の死の無残な描写で観客から「 笑い 」を引き出し、善意を信じようとする観客(視聴者)に、あえて、反対の結果を見せて衝撃を与える。人の心を弄ぶ「 悪魔の所業 」と言えるだろう。その大前提となっているのが、多くの諸国民〈特にユダヤ人)に災禍をもたらしたドイツ軍将兵は「 殺されて当然 」という、不気味な論調である。

 第二章で、ドイツ軍の偵察隊を殲滅したバスターズ達は3名のドイツ兵を捕らえた。レイン中尉は他のドイツ軍部隊の位置と戦力を尋問するが、捕虜となったラハトマン軍曹は「 仲間を売ることはできない 」と拒否。情報を提供すれば、そこに配置された味方は襲撃され殺されるのだから、言うわけにはいかない。レイン中尉は情報提供しないと、バットで頭を打ち砕き、脳みそをぶちまけると脅すが、ラハトマン軍曹は勇敢にも脅しに屈しない。なんとも立派ではないか。果たして、彼はレインの宣言通り、無残に撲殺されるのだ。撲殺描写は地面に転がった死体が跳ね上がるほど大胆で、明らかに「 笑い 」を誘っている。このシーンで笑うことができるなら、それは映画は作りモノで、実際には誰も死んでいないと割り切っているか、ドイツ兵は殺されて当然だからこれは虐殺ではなく処刑なのだと解釈したに違いない。ドイツ軍人精神の発露たるラハトマン軍曹の殺害シーンで観客から「 笑い 」を引き出すなど、タランティーノ以外発想不可能だ( 悪趣味その1 )

 冒頭のエピソードで、家族を殺されたショシャナは4年後、親族から遺産相続した映画館で「 復讐のために 」プレミア映画祭に出席する多くのドイツ軍人とその家族を焼き殺そうと企てる。しかし、彼女に命を狙われた犠牲者達は本来、彼女の家族の死とは全く無関係の人々だ。復讐するなら、標的はランダ大佐とその部下達でなければならない。仮に、最高指揮官たるヒトラー達政府首脳にその責任があったとしても、無関係な人々を巻き添えに殺すのは、単なるテロに過ぎない。戦争といえど、ルールはある。「 ユダヤ人を大量虐殺したドイツ人は殺されて当然だ 」という視点に観客を巧みに誘導したおかげで、観客の多くはドイツ軍人とその家族が「 殺される必然 」に何の疑問も抱かない( 悪趣味その2 )
 
 観客の心を弄ぶのは、2箇所ある。ひとつは、第四章『 プレミア作戦 』では地下酒場のエピソードだ。このエピソードが本作中、最も完成度が高い。連合軍側の女スパイで、有名な女優ハマーシュマルクと接触するため、武装親衛隊将校に扮して酒場を訪れた英軍中尉ヒコックスとドイツ系バスターズ2名。ドイツ軍将兵達はいないはずだったが、国防軍下士官ヴィルヘルムに息子マックスが誕生した祝いで上官が彼と仲間達を非番にしたため、酔ったドイツ兵達と遭遇してしまう。一見、無意味なカードゲームや酔っ払いの会話がキャラの性格や能力まで示す重要な役割を果たすのは面白い。ヒックス中尉のドイツ語アクセントが奇妙だとヴィルヘルム曹長が指摘したことで、ゲシュタポのヘルシュトローム少佐(彼が黒服着用なのは、ハリウッド製戦争映画のお約束)が登場し、一気にスリリングな展開に発展する。潜入スパイものとしては、間違いなく傑作だ。

 問題は、正体を見破ったヘルシュトローム少佐とバスターズ達が撃ち合いを始め、訳もわからず巻き込まれたヴィルヘルム達のグループと銃撃戦を展開した後だ。ドイツ軍側で唯一生き残ったヴィルヘルムと、ハマーシュマルクを救出したいレイン中尉が取引をする。ヴィルヘルムが取引に躊躇すると、生まれたばかりの息子に会いたがっている彼の心中を見抜いたハマーシュマルクは「 馬鹿な真似はやめて、坊やのためにも・・・ 」と交渉に応じるよう懇願する。子どもに会いたい一心のヴィルヘルムが彼女の言葉を容れ短機関銃を置いて、前に出るとハマーシュマルクはいきなり彼を射殺してしまう。観客の誰もが、「 あぁ、これでヴィルヘルムは息子マックスに会えるのだ 」とほっとした途端の思いがけない結末に胸が痛んだろう。ほっとさせて、急転直下。実に酷い。それが、タランティーノの狙いである( 悪趣味その3 )

 もうひとつは第五章で、映写室のショシャナ(偽名=エマニュエル)を訪ねたドイツ国防軍兵士フレデリック・ツォラーのエピソードだ。観客は、第三章からツォラーがショシャナに好意を寄せていたことを知っている。教会の尖塔に立て籠もって多くのアメリカ兵を狙撃した英雄だが、その輝かしい戦功に反して謙虚で真摯な態度で彼女に接した好青年である。彼がいては計画遂行に支障が出ると判断したショシャナは、ツォラーを映写室に入れ、ドアを閉めさせると背中から撃ち殺す。スクリーンでは床に倒れている彼の生前の活躍シーンが映し出されている。まぶしいほど躍動するツォラーの姿に、初めてショシャナは心を動かされ、振り返って彼の亡骸を見つめる。その時、死んだと思ったツォラーがうめき声をあげ、ショシャナはそっと彼に近づいた。「 まだ、助かるかも知れない 」彼女の心中を察した観客は当然そう思ったはずだ。その瞬間、身を起こしたツォラーは最期の力を振り絞り、ショシャナに向かってルガーP08のトリガーを引く。衝撃のシーンだ。二人がもし戦時中に邂逅していなければ、全く別の運命で結ばれていたかも知れない。撃った後に悔恨とほのかな好意を抱いたショシャナの姿を描き、即座に最悪の結末に突き落として、観客の感情は大きく振幅する( 悪趣味その4 )

 『 イングロリアス・バスターズ 』は、タランティーノの戦争映画愛の結晶である。と同時に、観客の気持ちを弄び、その反応に満悦する悪戯心の発露だと言える。この映画が、保守的な映画ファン、正統的な戦争映画マニアから酷評されることは百も承知。むしろ、「 酷い映画だ 」と嫌悪されることは彼にとっては輝かしい賛辞なのだ。人々の死をネタにタランティーノが仕掛けたシーンは悪趣味だが、会話によって緊張感を操作する演出はもはや芸術の域に達している。第四章の酒場のエピソードを別にすれば、第五章でハマーシュマルクがランダSS大佐と出会って、会話をするシーンが一番好きだ。ドイツ兵はイタリア語が苦手、と事前説明があったのに、ランダはフランス語、英語ばかりか、イタリア語まで流暢に話してハマーシュマルク達を驚かせた。一連のシーンは何回観ても笑える。ランダがレイン中尉達に何度もイタリア語で名前を発音させる時、明らかにハマーシュマルクは当惑している。この映画で素直に笑えた唯一のシーンである。

 余談。

 第四章で英軍中尉ヒコックスが扮するのは武装SS大尉ではなく、山岳猟兵大尉とすべきだったと思う。彼がドイツ映画『 死の銀嶺 』で家族と共に見事なスキー演技を見せたとする話に一層の真実味が出てくる。二人の中尉が武装SSで、ヒコックスのみ山岳猟兵であればヘルシュトローム少佐も大いに納得したに違いない。そこだけはタランティーノらしからぬ惜しい設定だと思う。

#針の眼
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