mixiユーザー(id:6007866)

2008年12月02日21:26

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『少林少女』。

 る時期、香港映画にはまって広東語会話教室にまで通っていた長女の影響で、チャウ・シンチーの映画を新旧何本も観た。『少林サッカー』で完全にはまって、『食神』『喜劇王』に遡り、最新作『カンフー・ハッスル』に至って、私は確信した。チャウ・シンチーは観客に笑いと感動を提供する「本物の天才」であると。彼の作品はただ可笑しく笑えるだけではなく、涙と感動に包まれ、最後には幸福感に満ちて劇場から出ることができる。そのチャウ・シンチーがエグゼクティブ・プロデューサーを務めた『少林少女』は、サッカーをラクロスに替えた少女版の『少林サッカー』であり、つまらないわけがない。残念ながら劇場で見逃してしまったため、先日、レンタルDVDを借りて来た。

 少林寺武術学校での三千日の厳しい修行を終えた桜沢凛(紫咲コウ)は、日本で少林拳を広めるという大きな夢を抱いて、祖父の少林拳道場のある故郷の修善寺に凱旋する。しかし、彼女の修行中に祖父は死に、閉鎖された少林拳道場はすでに廃墟と化していた。多くの門弟は散逸し、かつての師範代・岩井(江口洋介)は少林拳を捨て、中華料理屋の店主となっていた。祖父の遺志を継ぎ、少林拳を広めようとする凛は、戦力強化を目指している国際星館大学ラクロス部の助っ人になる代わりに、部員に少林拳を教えようと試みるが、彼女の意図を知ってか知らずか、ラクロス部のコーチになった岩井は凛の邪魔ばかりするのだった・・・。

フォト


 この映画を「駄作」と呼ぶ映画ファンは少なくないが、それは当たらない。この映画は傑作になる可能性を秘めながら、その途上で無残にも挫折した大失敗作なのだ。紫崎コウのアクションがダメだとか、主人公・凛がラクロスをする必然性や物語の中でラクロスシーンそのものが埋没していることなど、もはやどうでも良い。伏線が機能しておらず、師範代・岩井や大学長・大場(仲村トオル)の屈折した哀しい過去がまるで描かれていない、凛の少林拳普及の夢がいつの間にか大学長の仕組んだ陰謀との対決になってしまうという脚本のお粗末さも、あえて許そう。それでも、なお、この映画が許し難いのは「少林拳への深い愛」が決定的に欠けている点にある。この映画の脚本家はチャウ・シンチーの『少林サッカー』『カンフー・ハッスル』という二大傑作を何度も観て、巧みにそのエピソードを取り込み、融合し、換骨奪胎して、『少林少女』の脚本を書いたに違いない。しかし、二つの作品の根底に流れるチャウ・シンチーの「少林拳への深い愛」を完全に見落としている。少林拳への憧憬と畏敬こそ、シンチーのアクション映画の「心」である。これ無くしては、単に質の悪いコピーでしかない。紫咲コウのアクションは重量感が感じられないものの、普通の女優のレベルをはるかに超えた立派なものだと思う。伏線が生きていないため、勿体無い使われ方をした岡村隆史の好演も光っていた。それだけに、『少林少女』の失敗は惜しい。オープニング映像の見事な出来栄えに観客の期待が高まった結果、本編の陳腐さがよけい際立ってしまったのは皮肉である。
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