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原始仏教コミュの人間は神々を越えることができるか

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人は世界観・見解が最重要です。


今後の全方向性を決定づけるからです。価値観の不一致は友人や異性との別れを早めます。社会の価値観との不一致は疎外感を強めます。正見分においてだけは一致を得る必要があります。邪見分においては拒絶が重要です。そのようにして人や社会に対してお互いが利益を得られる範囲でのみの付き合いが可能になると思います。

原始仏教もまた世界観・宇宙観・見解が最も重要であり、全原始仏典および全ゴータマの説法もまた見解を更新することだけを目的として語られています。口より出た不死の遺伝子として。また全ての宗教の教えも人々の見解への訴えかけに過ぎません。力をダイレクトに他者に与えることはできないからです。

この書き込みもまた読むことを原因として読んだ人の見解に善き変化を与えることを目的として書き込まれるべきです。それは僕に要求されるべきことであり、僕にはまだ難しいことですが。学校の勉強やメディアや宣伝・広告もつまるところは人々の見解に作用して国家や企業が人々から利益を引き出すことを目的としています。双方の利益になる見解の共有が望まれます。


原始仏教と他の教えの重要な違いはこの二つです。

 「全ての神々もまた必ず死ぬ」
 「人間は神々を越えることができる」

というところです(もちろん苦滅もあるのですがそれはここでは置きます)。この見解をどう受け取るかで原始仏教に流れるか他の教えに流れるかが決定します。

僕は基本的な世界観の枠組みとしては自然科学的な価値観を受け入れています。全宇宙の在り様には一貫性があり、それは様々な法則として人には知られ、その宇宙の様々な法則の全てを据えることはできないけれども、人に知られないその奥の法則であってもやはり、諸法則と矛盾しないような一貫性があるものだろうとそう推測する考え方です。

そのように見る宇宙の中に存在する全ての宇宙内存在、それは無生物であれ生物であれ、それら全宇宙内存在は単なる原因と結果の集積と変遷に過ぎず、必ず変化する。そしてその変化は生物においては生死として据えられるがゆえに、見える生物も見えない生物である神々その他の人ならざるものたちも必ず死ぬ、あるいはその形態の変化に至ると見ます。

僕自身このように長い間考えていました。「神々はどうもいると考えたほうがよさそうだ。そして神々が存在するとすれば人間よりも優れている存在がいると思われる。場合によっては人間は神々に創造されたのかも知れない。創造されていないとしても、かなりの影響を受けているだろうと思われる。では人間は人間を創造した神々を越えることができるのだろうか。あるいは人間の頭上に存在する神々を越えることはできるだろうか」。

この「人間は神々を越えることができるか」という問題、これは神々、あるいは神の性質についての見解の相違により着地点は百八十度変わります。神というものを全知全能とし、人格的にして全宇宙の変化に関する一切の知識が常時、神の精神に流れ続け、同時に欲するがままに全宇宙を変化させる、そのような神。そのような神は理性が反発するのですがしかし、そのような神がいるという発想はあります。その神はさらに全宇宙法則と同体であると考える発想もあれば、神には人格があり且つ同時に無人格的な法則もまた内包するという、これまた理性に反発する発想もあり得ます。

このような考えは「人は神を決して越えることはできない」という結論に行き着きます。複雑なことはなく神の性質に「永遠性」を付与するならば、永遠性や非変化性を具えていない人間は永遠なる神に敗北するという結論に至るしかないからです。戦う前に結末が見えている勝負です。

一方で「人間は神々を越えることができる」という発想は、その前提として神の性質に永遠性という属性を与えません。神々もまた宇宙内存在に過ぎず、変化し、進歩したり退歩したりするものであると見ます。この場合、仮に人間が神々に創造されたとしても、しかも人間は神々を越えることができるという見解は維持できます。

たとえば人間の子供は親を越えることができます。殺すことさえできます。あらゆる生物は世代間において抗争を行ない、新しい世代が力をつける前は古い世代が圧迫しますが、新しい世代が力を得たり、古い世代が力を失ったときは逆転します。子供が親を越えることができるように人間は神々を努力によって越えることができると考えるのが道理です。また生み育てた虫やハ虫類や猛獣はその飼い主である人間を殺すことがあります。飼い犬に手を噛まれるということはあらゆる領域に見いだされます。人間を創造したのは神々なのにその人間に神々は圧倒される、それはあり得ることです。そして、実際に神話で神を越える人間は出て来ます。また原始仏典にも。

宇宙法則を最上不変第一と見て、一切の宇宙内存在が無常であると見、さらに生物というものがその身体と心とに相互作用を営み、古い身体を捨てたときはその時の心の状態に対応した新しい身体を獲得するという輪廻の発想、これを受け入れるならば「人間の身体と神々の身体を行き来する道が見えて来ます」。

そうであれば、人間は神の身体を獲得することはできるという考え、人間は神に転生できるという考えに至ります。「心と身体の相応」、その考察を押し広げれば「死んだときの心の状態に相応した身体を獲得する」と見るのは妥当です。生きている段階からあらゆる生物において身体とその心、その習性に密接な連関を見いだすことができるからです。自然界の虫や動物はまさにその身体そのものがその習性を表します。人間の容姿もまたその人間の心の有り様を正確に反映していると見えます。身体の外部的損傷は損傷として過去の外部から受けた損傷の履歴を正確に反映しており、顔や全身の筋肉の組成や微細な動きは本人の微細な感情や意志と連動しています。その蓄積が長期的な人体の変化につながります。

その心と身体の相応が、古い身体を捨てたときの新しい身体の獲得に際しても適用されるとすれば、それが転生の一端を示していると思います。従って、神々に転生するには生きている時分からすでに神の心を所有していなければならないということです。あるいは魔神に転生するためには生きているときからすでに心は魔神である必要があります。死後はその心に対応して身体を獲得するということはあり得ます。

「人間というものは未来永劫にその人間的な性質を捨て去ることはできない。たとえ無限に輪廻したとしても」という見解、これを採用することはできません。なぜならその捨て去れない人間性、それは変化しないものであり、永遠なるものが人間の一部にあるということになり、無限の時間の経過後に最後はそれだけになってしまうでしょうから。そしてその永遠なるものが宇宙内に永遠に変化せずに存在し続けるということ自体が背理であり、理性に反発します。なぜなら理性はそのようなイメージに対してこのように言うからです。「そのような諸法則に反して永遠に変化せずに宇宙内の部分に永遠にとどまり続ける何か、それはこれらの法則によって推測される宇宙内にはあり得ず、また宇宙の法則がそのような部分的な永遠なる存在を必要とする理由がまったく存在しない」と感じるからです。

従って、永遠なる人間性というものは人間には存在しないし、永遠なる神性というものも神々には存在しないと見ます。人間的なものには原因があり、それは生成されたものであり、その原因の滅により再形成も失われると見ます。神的なものにも原因があり、それもまた生成されたものであり、その原因が滅して再形成されることがなければその神性もまた失われると見るのが道理にかなっています。そしてその無常性、変化性、非永遠性がかえって人間から神への道を開き、神から人間への堕落の道をも開きます。

「この全宇宙は唯一の神が創造した」という発想、これは古くからあるものですが原始仏典においてこの考えは明確に否定されています。一部常住一部無常論と言われるものです。一部常住なのは神であり、一部無常というのは被造物です。僕はこれを「マハーブラフマー信仰」と呼んでいます。このマハーブラフマー信仰は地獄界から地上界、地上界から天界、さらには梵界に至るまで存在するに違いないと考えています。人類の宗教において当たり前のようにこのマハーブラフマー信仰は見いだすことができるからです。それら諸宗教の啓示の内容においては啓示をもたらす存在者たちは素朴に、そして完全に自分たちの考える神がこの全宇宙を創造したと信じて啓示しているとしか思えない内容になっています。

この件はすでに僕は繰り返し述べていますが再度言えば、原始仏典において「世界創造主であるマハーブラフマーが自ら勘違いして自己を全知全能の至上存在であると錯覚する内容」が繰り返し説かれています。そしてそれはあり得ることです。一部の人たちは「神々など存在しない。なぜなら見えないから」と考えます。同様に、神々の一部はさらに上の神々を認めないでしょう。そのときも同様に「自分たちより上の神々など見えないから。また影響も認められないから」と言うでしょう。同様に、マハーブラフマーもまた自分よりもさらに上の神、さらに上の別の世界を認めないでしょう。そして理由は「この私でさえもそのようなものは見ないし、そのようなものからの影響も認められないから」と言うでしょう。

見えることには原因があり、見えないことにも原因があります。この知見の因果に関する知が決定的な智慧の差異に導きます。意識の拡大の本質に関わることです。僕自身いまだ超常の知覚を獲得していませんが、いずれ必ず検証・体現しなければいけないことだと考えています。それがなければ机上の空論にして仮説が真実の裏付けを得ないからです。今は光想に賭けています。

学校全体の年間行事の流れとは別に生徒一人ひとりの日々の暮らしの予定があります。また市の中期計画とは別に市民の暮らしがあります。また国家戦略とは別に国民の暮らしがあります。同様に、神々が太陽系を管理する計画とは別に原始仏教を信じる人々が神々を越えるための修行をする暮らしはあり得るということです。

宇宙内存在者たちの次元、階層レベルでの飛び級を行なうためには、「現状の六触処に影響を与える環境に従っているだけでは不可能」であると考えます。学生が毎年進級するのは「毎日新しいことを学んでいるから」です。しかし学校を卒業して社会に出ると停滞する人々が出て来ます。新しいことをまったく学ばないからです。新しいことを学ばない人間は力を獲得しません。力がない分は自分で外界の環境を変えることはできません。外界から働きかけられて暮らしが変わることはあります。しかし自分の力は増大しません。外界との接触内容の変化があるだけです。新しい環境に放り込まれて新しいことを学ぶとしても結局それは新しいことを学ぶということによって力を獲得しているのです。結局、学ぶことになります。学ぶというと自ら率先してという意味合いがありますが、大抵は現実の厳しさを否応無く経験させられるということです。

卓越した存在になるためには毎日の暮らしの中にその卓越した存在が持つ性質を組み込む必要があります。それが日々の諸々の修行です。一日に一度もピアノを弾かずに、しかも自分は将来ピアニストになるという発想は不可能です。因果連鎖上。

人間が人間界の習慣に従い続け、人間の価値観を越えることができない限り、人間的要素を再形成することになり、来世も人間に転生するであろうことは予想がつきます。神々を越えるために神の心を学ぶ必要があります。それが原始仏教で言うところの念天、神々の五財、信戒聞施慧を念じるということです。その教えの意は、多分、超常の知覚を持たない人間であっても神々を念じ続けるとその神々についての知識が超知され始め神々の美徳についての知が生じ始め、それをきっかけに自分の美徳とその求める神々の美徳との比較、修習の繰り返し、差が埋まること、やがてはその美徳に達して身体は人間ながら心は神に等しくなるということだと思います。たとえば、慈心をマスターすれば人間として生きながらにしてすでにブラフマーに等しい存在です。それは身体よりも心をより根本的な因果連鎖であると見るからです。身体の変化は早く長続きしませんが、一方の心の変化は遅く長続きするからです。問題はいつも十年百年千年単位です。継続的な「正しい努力」としての忍耐は常に称賛されるべきです。



先の話の重要な論点だけをまとめると、人間が神々を越えることができるかどうか、それは「神の属性」や「人間の性質」に永遠性や非永遠性をどのように組み込むかによって決まるということです。そして神にも人間にも一切の永遠性はないと見るならば、それぞれの属性の獲得と消失によって相互の道が開けるということです。たとえそれが一年、十年、百年、千年、万年、億年、兆年、それ以上かかる道だとしてもです。あとは忍耐が問題を解決します。

見逃しやすいところとして「常時、再形成されるから永遠だ」と勘違いする場合や「非常に途方も無く長い時間だから永遠とみなしてよい」と考える厳密性を期さない発想があるところです。これは粗野です。永遠というのは純粋にまったく変化のない永遠なる何かを指します。再形成を繰り返すもの、たとえば限りなく上ったり下がったりの無限の輪廻、これを永遠とか不死と呼ぶのは不適切です。その内実は全てある二つの地点を取り上げればまったく変化してしまっているからです。川が凍っているならば永遠です。しかし川が流れているならばそれは永遠ではありません。無常なるものとして流れてしまっています。

僕は現時点の見解として宇宙法則を最上としています。そしてこの宇宙がこのような有り様をしている理由、因果律が設定されるに至った原因、因果律を外から規定する段階ですでに原因ではないのですが、それらに関しては「知らず求めず」としてしばしの間、放置します。無記のみならず先に感受を伴う存在者としては苦痛の減少と快楽の増大を求めるという優先順位に同意するからです。

そしてこの宇宙内存在の全ては生滅を個体レベルでも繰り返し、個体の身体の細胞と心の各要素レベルでもその生滅と持続を繰り返し、永遠なるものは何もなく変化変遷を無限に続けて行くと見ます。そう見れば、僕の理性は納得します。それゆえにあらゆる存在者になる道があらゆる存在者に開かれており、それをもって公平公正にして最高度の可能性が全存在者に付与されていると見ます。それはたまたまそうなのであって、別に宇宙の善意ではないとは思うのですが、自己存在の一切が完全無常であるからこそ自分は自分以外のものに変わることができるという救いと希望になっていると思います。

その完全なる公平性と一貫性においてこの宇宙は確かに完璧であると言えます。しかし知の性質自体がその法則によって支配されている以上、その感想もまた後付けのようなものでしかないのですが。そしてこの完璧な法則性を持つ宇宙を何か無常なる感情や思考や意志を動かすある存在者が作ったなどという発想は、この理性が即座に反発します。ただ宇宙はそのように在る、そのようにまず知られます。因果律が設定された原因という因果律から外れた領域に因果律を適用して宇宙を理解しようとする矛盾した思考、それは到底納得できるものではありません。




以上が現状の僕の見解ですが、これを読んでいる方々は自身が納得されない限りは僕の考えを拒絶することをおすすめします。自分が納得できるまで考え抜き、調べ尽くし、検証し尽くさないのに安易に判断すれば、後で後悔することになりかねませんから。原始仏教だけでなく、他の教えについても、また世間の考え方や時代の風潮、知り合う人や商品や契約が信用できるかどうかの全ても含めて「信じるのは慎重に」ということです。いつでもどこでも「真実への誠実」を貫くならば、過ちに気付いたときはそこに反省と軌道修正があると思っています。それが堅実です。ロスは全知全能でない一存在者の在り方としては必然的に生じるものとして受け入れたほうが求不得苦も減少します。


求道は言い換えれば正見への道、焦らずじっくり粘り強く、しかも慎重に慎重を期し、自ら検証し再現性と常時の確認が可能となるまでその見解を心の最奥には受け入れないこと。そのように自分に言い聞かせれば利益が多いと思います。そのとき信じているのは教えではなく真実だけですから。真に求道者に相応しい人々が信じるべきは教えではなく「否定しても否定してもやはりそうでしかないもの」、即ち真実、それだけだと思っています。

それゆえにも「真実への誠実」ほど素晴らしい美徳はないと思っています。それこそが善への信力であり、現実の深い認識と自覚にいたる自帰依法帰依の四念処へのモチベーションを生み出す信根そのものであると考えるからです。それあればこそ、いまだ正覚しないゴータマも「信じて」求道を始めたと思います。ただ僕はゴータマと違って全般的な美徳レベルにあまりにも差があり過ぎました。だから「焦るな。時間をかけよう」といつも自分を慰めています。



色々と小難しく書いてしまいましたが最後に簡単にすると「自分が本当に納得するまでは何事も受け入れては駄目」という感じでよいかと思います。

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