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原始仏教コミュの原始仏教の実践マップ 「三福業事 施・戒・修」

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原始仏教の修行を三福業事(さんぷくごうじ)の施(せ)・戒(かい)・修(しゅう)の分類でまとめました。



原始仏典において施・戒・修の詳細な定義の記述がありませんので、僕の解釈で対応させています。別の対応関係ももちろん普通にたくさんあると思います。これはほんの一例ですので色々と自分なりに別の応用をしてみてください。







 普通の人はときには善いこともし、ときには悪いこともします。
 悪いことをやめるよりも、善いことを始めるほうが簡単です。
 ですから戒律よりも先に布施からやるのがおすすめです。




1.施   利他行・四摂事・四無量 (先祖供養と氏神崇敬)

  布施  お金や物を寄付したり、贈ったりおごったりする。
  愛語  人が喜ぶことを喋り、相手に準備があれば法を説く。
  利行  手伝ったり慈心を修したりして利益を与える。
  同事  一緒に行動する。

   → 現世では人の好意を得て、友人が増え、評価が上がる。
     来世では福の報いがある。


 
2.戒   無害・三善行・五戒・十善

  身悪行を断つ。殺しと盗みと不倫をやめる。他。
  語悪行を断つ。嘘と仲間割れさせることと不快語と駄弁をやめる。他。
  意悪行を断つ。人のものを欲しがらず、人の不幸を願わず、正見。他。
  邪命を断つ。 犯罪をしない。お酒を飲まない。五邪命をしない。他。

   → 現世では信用を獲得し、敵が減り、警察に脅えずに暮らせる。
     来世では悪業の報いがない。



3.修   三十七道

  四預流支  信根を修習し、信力を鍛える。(六随念...)
  四正勤   勤根を修習し、勤力を鍛える。(慚力・愧力・念死...)
  四念処   念根を修習し、念力を鍛える。(念息・心身の自覚...)
  四禅那   定根を修習し、定力を鍛える。(止・四無量・四神足...)
  四諦知   慧根を修習し、慧力を鍛える。(観・読書・法論...)

   → 現世では能力が底上げされ、人よりも有能になる。
     来世でも聖なる力・俗なる力を問わず力は失われにくい。
         特に智慧で裏付けされた力。







 施で善行を始める。(三善行を修する。まだときには三悪行を行なう状態)
 戒で悪行をやめる。(三善行をし三悪行を断つも、貪瞋癡はまだある状態)
 修で力を得る。  (できれば貪瞋癡を断つ漏尽の力を得る)

 後輩におごるのも施、子供を進学させてやるのも施です。
 唾を吐かないのも戒、言葉遣いを改めるのも戒です。
 楽器を練習するのも修、筋トレや勉強や仕事の向上も修です。

 慈心や特に法施は聖なる施、
 サマーディに転じる戒は聖なる戒、
 貪瞋癡の根絶に向かう修は聖なる修行、梵行(ブラフマチャリヤ)です。




  こうして俗なる施・戒・修と聖なる施・戒・修で
  福と力と楽を得て、ますます幸せになります。
  ますます幸せになって悪いことは何もありません。
  できれば貪瞋癡から解脱して後は好きに暮らします。




 わけがわからないままでいいですから
 「いつかきっと今よりももっと幸せになるぞ」と
 幸せになることを諦めないことが大切な信だと思います。

コメント(20)

>幸せになることを諦めないことが大切な信だと思います。

いつもありがとうございます。

 おかげさまで到らぬながらも朝夕の氏神崇敬と先祖供養を欠かさず続けさせていただきつつ、日常の中に布施と戒を無理なく織り込みつつ、慈心を修し内観する日々ですが、まわりの環境が確実に円満に正しき幸福の流れに入らせていただいていることを有り難く実感する日々です。油断したり有頂天になって慢心しないように自戒しつつこつこつと諦めずこの道をこれからも歩ませていただく所存です。

ぺこちゃんさんの素晴らしき法施に感謝いたしますぴかぴか(新しい)
そう言っていただけて嬉しく思います。あうんさんは仏壇と神棚のお世話と慈心を継続していて、状況も好転しているようで素晴らしいです。僕も最近、修行がおろそかになっていたところがあるので、自戒しつつmixiの法施はマイペースにしていきたいと改めて思っているところです。

昨日、久しぶりにあった若干鬱の友人に「自分に対しては『絶対に自分を傷付けてはいけない』というのを繰り返して自分を傷付ける思考回路を減らすことと、人に対しては『幸せになれ』っていう慈心さえやってれば人生いけるよ」と言ったら、今日彼から連絡があって「慈心は最初は気恥ずかしさがあったけどだんだん慣れたし、『絶対に自分を傷付けてはいけない』を寝るまえにやったら背骨とか肩にちょっと力が入った感じで今までにない感覚があったからしばらく続けてみようと思う」ということでした。準備がある人に話せば変わるものだなと思いました。しばらく彼を見守りつつ、その間は自分は自分で精進して行こうと思いました。


年末が近づいているので、慈心を通じて優しさが社会に広がっていくといいですね。
 長男がバイトですが実家の母の目の前の道を工事しておられた建築会社の社長さんに母が頼み込んでくれて雇ってもらえるようになったこと。
不思議な話ですが、この道は隣のおばあちゃんから産土様の祀られているお山の神様が白馬に乗って降りてこられてここに井戸を掘れと言われたと伝え聞いている水の道でもあり、またその社長さんはお地蔵様にお祈りさせていただくお山の不動明王様を熱心に御信仰なされておられる社長さんでもあり、会社が私の住んでいる氏神様のすぐ麓にあり、まさに神様の御守護とお導きとしか受け取れないほどの有り難いお仕組みです。

そのような御縁から母との関係もますます良好な方へと向かわせていただき、それにより弟家族との問題も解決に向けて励みが出てきている次第です。

氏神様産土様ご先祖様の限りなき御守護と恩恵にも本当に感謝感謝ですぴかぴか(新しい)

これもひとえにぺこちゃんさんの篤いご指導の賜物であり、またこの感謝の気持ちを少しでも多くの方や存在に広げることができるようにこの喜びとともに幸福への祈りを続けさせていただこうと強く思うことですわーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)
不思議なこともあるものですね。慈心の八功徳に「神々に守護される」というが六番目にありますから、その成果もあると言えそうです。

職の提供としての縁結びも一つの布施ですし、これを縁として家族が仲良くなっていくことはとてもよいことですね。身の回りに利益を与えれば、相手もこちらのことをしてくれるということを地でいっていて素晴らしいと思います。
上のお二人のコメントを読んでとても暖かい気持ちになりました。
ありがとうございます。

先日テレビで、困っている人たちのために行動をおこしている世界中のいろいろな人を紹介し称えている番組を見ていて、今までの自分がどれだけ吝嗇であったかと、改めて省みて思いました。
以前は布施することの意味が分かっていませんでしたが、原始仏教を学ぶことによって今では布施や慈心を修することの大切さを認識することができます。

業の報いを知っていると、迷うことが少なくなるように思います。
また、善と悪を分けて考えることも、とても利益があると思いました。
過去に戒を破ってしまっていても、心を入れ替えて修行をすれば流れに入ることができるというのも、勇気づけられます。

まだまだ『見習い』ですが、自分で実践して身につけていけたらと思います。
たくさんの善い教えを読んで知ることは利益がありますが、やはり自分自身で「そういうことなんだ」と発見し納得することが大切だなあと思います。
原始仏教やぺこちゃんさんに出会えた不思議なご縁に感謝したいです。
僕も原始仏典を読むまでは普通に生きていたのですが、原始仏典を知ってからは「何事も利益と不利益の二つに分ける思考法」や「自分の内から外に悪が出ないなら問題ない」という無害の教えなどでずいぶんと気持ちが楽になりました。僕は人を不愉快にさせるのを恐れるあまり、かえって気を遣って自分を傷付けることが多いタイプでしたから。業の報いは広範囲に応用できて、とても奥深い教えだと思います。

あいさんは原始仏教を手堅く理解しておられるようで素晴らしいです。僕も労が報われる思いです。不特定多数に発信する側になって、色々と気付かされたことも多々あります。こういう書き込みは本当にありがたいです。


より一層、慈心と修行に精を出したいと思います。
施・戒・修を以下のように分けてもよいと思いました。

 
 施・・・外界に善を為す
 戒・・・外界にも内界にも悪を為さない
 修・・・内界に善を為す


施について言えば、戒も安心を与える施であり、修による向上も自己をさらなる福田と為す施とも言えます。戒について言えば、習慣化し自分の中で決めた施も戒であり、自分で決めた修行カリキュラムを忠実に実行し継続することも戒と言えます。また修について言えば、四摂事を修習するのも修であり、戒を修習するのも修であると言えます。

結局、三福業事は相互に包括し合っているので、色々な対応を考えられます。これを施戒修の三に分けるのは内界外界と善悪を絡めて福因を整理し想起させやすくさせるための分類であると思います。楽の別名である福を求める人が、その福の原因である施戒修という三つのヴィジョン・考えを知ることによりこれを繰り返し修習し、自他双方の利益と楽を増大させるというこの利益を見るがゆえにこの教えが説かれたのだと思います。

楽であり福であるところのもの、それらの原因には施に分類されるものと戒に分類されるものと修に分類されるものがあると見て、それぞれを原因として生じる福と楽について考察し、「これが福である」「これが福の原因である」「これが福の生起に行く道である」と見れば、あとは各自が自分で見たところの福と行の対応関係について検証していくだけです。

人の一切の経済活動も政治も教育もただ人々の利益と楽のために為されるべきと思われますが、実際はそうではありません。実際の因果連鎖を見れば、むしろ経済も政治も教育もそれを方向付ける力を最終的に持った人々や存在者たちが「こうすればいいだろう」と思うところのもの、それが実行されるのみであるのが現実です。

もともと自分の幸福や利益や楽しみの増大や、それらを増大させる原因蓄積を、こちらの利益を考慮しない人々や集団や存在者に期待するということ自体がすでに自分を傷付ける邪見となっているのが苦しみの原因です。自分の利益や幸福の増大を常に考慮し続けてくれるのは、外界の存在者ではなく(外界の存在者は一時的には考慮してくれますが長期的には)自分だけであり、内界において常に変化し続けるこの内なる因果連鎖、それによって生滅を繰り返すところの自覚するこの意識だけです。


簡単に言えば、「自分の幸せをもっとも長期間に渡って考えてくれるのは自分しかいないのだから、他人任せにせずに自分を幸せにするための努力は自分一人であっても一人で頑張ったほうがいい。施戒修の三つに努力を傾注していくのは自分を幸せにするための方法としてはなかなか良い方法であると考えられる」というだけのことです。

自分の今までの全ての苦しみと悲しみが報われるためにも、改めて「自分をさらに幸せにするために粘り強く試行錯誤を繰り返していこう」と思うだけでも利益があると思います。実際に寄付をして優しい言葉を語り、慈心などの人に利益を与える行為をし、見解を共にする善き友人たちと一緒に行動し、自他を傷付けずに安心感と集中に転じる善き戒を守り、常に念じて自覚して善相を重んじてその善相をひたすら維持し拡大させる修行を続けて行くならば、そこに自らの幸福と楽の増大があると思います。


これは在家でも出家でも、人間関係でも仕事でも趣味でも、あらゆる生活分野で応用の効く努力となると思います。そして、慚愧ある人は「求道と修行をしている限りは求道と修行をしていない人々よりも自分は卓越しているべきだ。ましてや原始仏教の修行をしている限りは自分は卓越していなければならない。そうでない自分は恥ずかしいし、そのような自分を許すべきではないし、自分にとって利益ある状態でもない。それゆえに自分の信念が正しいかどうかを自ら証明するためにもさらにより熱烈に修行に打ち込まなければならない。それは善であり悪ではない」と思えればより利益があると思います。


しかし人は自分を幸せにする義務はありませんから、そこは趣味の範囲で気楽にやればよいと思います。

ただ自分が今よりも幸せになることは善いことであって悪いことではないと考えられますし、自分以外の人々が今よりも幸せになることも善いことであって悪いことではないと思います。周りの人が幸せになればこちらもおこぼれに与れます。他人の幸せが癪に障るという人もいるかも知れませんが、人より幸せになる幸せ以外の幸せもあるということを知るのによい機会になります。

善人が増えると悪人は困るように思いますがそれは短期的なもので、善人の増大は長期的に見れば善人にとっても悪人にとっても利益と楽をもたらすものであると見るのが適切だと思います。つまりは自分の幸せも他人の幸せもどんどんすすめていったほうが双方の利益になると思います。
自分の利益と幸福と楽の増大を求める人にとって第一に大切なことは、四正勤の第一正勤にもあるように、「生じていない悪を生じさせないための努力」だと思います。


四正勤の具体的な記述で言えば、生じていない悪を生じさせないための努力とは六根防御になります。六根を通じて外から内へと入り込む情報を原因として、貪りや憂いなどの悩みや不快感につながる心の動きを念じて自覚して制御するということだと思います。六根防御はこれだけで解脱できる修行ですので、これを行なうことは素晴らしいことだと思います。僕はまだ本格的にはやっていません。

聖なる第一正勤とは別に、俗として解脱には至らないけれども有益な第一正勤として僕は「今の暮らしの土台を固める」というものも第一正勤の一つとして含めてもよいのではないかと考えています。

「今の暮らしの土台を固める」ことによって、衣食住を含む財産の生活レベルがさらに下がることを押さえ、健康状態の悪化を押さえ、人間関係の悪化を押さえ、結果的に俗なるものとしてですが、生じていない悪を生じさせないための努力をしていることになると思います。この場合、生活レベルの低下や健康状態の悪化や人間関係の悪化を生じていない悪としてとらえています。

「今の暮らしの土台をより堅固なものにしよう」と考えると、「何が原因で今の自分の暮らしが成り立っているか」という方向に意識が向きます。「これが今の暮らしである」「これが今の暮らしの原因である」という二つの事実・現実を再確認する作業になります。

そうすると、自分の日々の仕事への努力や健康のための食事や運動などの努力をはじめとして、家族や親族、会社や仕事関係の人たち、友人たちや知り合い、世間や国、世界の人たち、自然や太陽をはじめとする星々、確認はできていないけれど想定される霊的神的な存在者たちなどによって今の暮らしが支えられていることが見えて来ると思います。

そのような正しい見解が生じると今の暮らしを維持しさらに増大するための思考や言葉や行為や生活や努力や注意や集中も連鎖して生じて来ます。逆に「これが今の暮らしであり、これが今の暮らしを支えている原因だ」という見解や信や知識がないと、今の暮らしを維持する八支が発動せずに今の暮らしの土台は徐々に失われていき、ついには今の暮らしが原因不足で崩壊します。

「これらが今の暮らしの原因であり、土台だ」と思うと、この土台を失えば今の暮らしは維持できなくなると思うので、「この土台をより一層堅固なものにしよう」という意欲・正精進が湧いて来ます。方針としては「自分の暮らしを支えている人や存在が、今後も自分の暮らしを支えたくなってしまうようになる原因を蓄積していこう」ということです。これを業の報いがあるという前提で考えるとやはり基本は慈心を周囲の人々に修していくということになります。

さらに余力があれば、四摂事として気前よくおごり、優しい慈しみを伴う声をかけ、慈心とは別の利行や雑用を色々とし、ともに行動するに足ると思われる善き人に対しては一緒に時間を過ごすということも、今の暮らしを支えている人々の心を獲得する方法として有効だと思います。仮に彼らが四摂事を行なってもこちらに好意を持ってくれなくても、善業の報いは一滴残らずこちらが相続することになると考えれば気持ちも収まります。

この「自分の足場を固める発想」「今の暮らしの土台をより一層堅固なものにする発想」は、現実的には俗的な生じていない悪を生じさせないようにし、知恵としては自分のできることとできないことを知ることを通じて身の程を知るという内の法念処の修習ともなり、今の暮らしよりもひどい暮らしに行かないために人には気前よくなり寛容になるという施による福業の修習ともなり、犯罪を行なうことによって警察にお世話にならないための戒の修習ともなり、仕事を失わないための、また仕事を失っても別の仕事に着きやすくなるための俗なる修の修習にもなります。

この「自分の足場を固める発想」がないと、人は身の程知らずの言動を取り、三悪行を行ない、家族にうとまれ、友人や仕事関係の人にも嫌われ、生じていない悪は生じ続け、味方が減って敵が増え、わけがわからないままに不幸になっていく可能性が高くなることが予期されます。


自分の利得と幸せと楽の原因が何なのかを知ることも、五蘊の生滅を知るヴィパッサナーに含まれるのでこのような俗なる因果を知ることも無駄ではないと思います。そしてその知は自分の暮らしを維持し、さらに向上させる道までも見いださせます。自分の学歴を自分の知恵の限度と諦めずに、自分を幸せにする方法を知っている人間こそが学識のある者だと思って努力すれば、学校に通わなくともさらに向上していく者たちに含まれると思います。
「幸せになるために頑張ろう。今はどうすればいいかわからないけれど」。こう思うだけでも前向きになれると思います。原始仏教もまた幸せになるための一つの方法の提示に過ぎません。

普通の幸せ、それは五欲が楽しめるような状態です。七年慈心によるブラフマーの幸せもあります。初禅以上の幸せや無色の幸せ、何よりも漏尽の幸せが原始仏教では推奨されています。たとえ、欲楽の幸せであっても、それ以上の幸せが手に入っていないならば、普通の幸せでも求めるべきです。そうでもしなければ、その人の人生にはどこにも幸せがなく、幸せをより増大する努力にも結びつきません。

それはそれとして、自分の心の底からの本当の願いを知って、そのエネルギーを良い方向に使えば、きっと時間と労力はかかっても正しい道が見つかり、目的が達成されると思います。だからこそ心を新たにして「幸せになるために頑張ろう。今はどうすればいいかわからないけれど」と前向きに考えて、今の自分の生活に希望を見いだして欲しいと思います。

信を立て、どうすればよいかを知る思考力・慧力を鍛え、為すべきことを為す修習力・精進力に打ち込むならば、向上が期待されると思います。漫然と日々を過ごして後で失ったものの大きさに気付くのは、悲し過ぎます。
こんばんは、klousです。

じめじめして湿邪が多くなって身体が重くだるい季節になってます。
ぺこちゃんさんは大丈夫ですか?
去年は体調を崩されてたと思うので気になりました。

ところで、ちょうど俗的な因果関係を確認する方法をぺこちゃんさんに聞こうと思って、PCを立ち上げたら、それに関連した記事がありまして、ちょっと驚いています。

私の質問ですが、人間の想い(想念?)が人格や環境を作っていると感じていますが、このことを明らかに知るためにはどういう修行をすればいいのでしょうか?

また、その修行は四念処の一つである念法になるのでしょうか?

念法と四聖諦の観察とは同じことなのでしょうか?

よろしくお願いします。

お久しぶりです。


去年の夏は吐いたり点滴を打ったりで辛かったですが、今年は吐きもせず食欲も普通で、少し寝汗が出たりだるいぐらいで、去年と比べるとかなり調子はいいです。おかげさまです。


念や想念やヴィジョンや思考内容を原因として何が結果するかというのは、非常に重要な問題だと思います。これについては長く検証を続けるに値するテーマだと思っています。自帰依・法帰依が四念処である根本理由につながっていくと思います。

想について知るためには型通りで言えば、「これが想である。これが想の生起である。これが想の滅である」ということが実際の通りに知れるまで念じて自覚して集中するということになると思います。

想念が与える影響は、内界の名と色と、外界の名と色の四を考えるといいと思います。運動神経に対しては直截に念や想が働きかけて身体を動かせます。内の色を意念によって動かすということです。また思考内容を自分である程度選んで考察したり、イメージを構築したり滅したりするのは、内の名である心に対して念や想が影響を与えています。超常の力が生じれば、他人の身体や心にダイレクトに影響を与えることができると思います。慈悲喜捨の四心以外は原始仏教ではあまり推奨されないとは思いますが。

以上は即時的なものですが、これの積み重ねが自分の身体と心の性格を作り上げ、周りの人間関係や財産や社会的地位などが作り上げられていると見ます。短期的な想念の影響と、中長期にわたる想念の影響があって、前者の考察を広げて中長期を予測します。仮説が立てば中長期に実現したい結果を見越して、短期的に何を為せばよいかを明らかにできます。

一般に言われるのは「もうすでに自分がその欲しいものを手に入れた状態を想像するんだ」というようなことですが、これは特定のヴィジョンを画鋲で心の壁に留めることによって、それを想起しやすくし「この目標を達成するまで心身の活動と努力をやめることはない」という建設的な生活を自動モードとして構築するのに役立つと思います。ただし、全宇宙を消滅させるとか、宇宙法則を再構築するとかの不可能事を望む場合は、自分が壊れた機械のようになってしまうと思います。カーナビと目的地への自動運転は、その目的地が行けるところであることと車への燃料供給、つまり時に応じて自分のモチベーションを補充することが大切だと思います。存在しない目的地を設定すれば、事故を起こすか、崖から落ちるか、つまりそれは肉体か精神の死と努力が水泡に帰すことを意味します。

またモチベーションの供給を確実にするためにも、自分の本当の気持ちについては常に注意を怠ってはいけないと思います。今自分がやっていることにやる気がない人は、自分の本心と現状のやるべきことがずれている可能性があるので、本心と現状の擦り合わせをいつかは行なう必要があると思います。本心を滅するか、本当の欲求を実現するための原因を見極めて原因構築に勤しむか。それらいずれかをしないと不快感である心の利子は溜まり、無駄な労力である出費が増えるばかりだと思います。

何年以内とか何ヶ月以内という期限設定も有効だとは思いますが、事故をするぐらいギチギチのスケジュールも問題だと思います。事故というのは、夢を追いかけることに夢中になりすぎて、健康や精神状態や対人関係や財産が知らない間に強く損傷されることです。自分も他人も傷付けずに目的を追求するという項目を、自動運転モードに入れておくべきだと思います。業の報いは人生の交通ルールとして採用しておけば手堅いです。
想念が人格や環境を作っていることを確認するには、自分で今から人格や環境を想念によって変えるというのがもっとも決定的な証拠集めになりますが、少し時間がかかるので他人を参考にするのもよいと思います。

とりあえず自分が普段考えている内容を全て自覚して、それに関連付けて自分の人格と環境との対応関係を記憶します。そして家族や友人と対話をすることによって人生や社会に対してどういう考え方をしているかを聞き出し、他者から利益や不利益を蒙らされたときの対応や反応を全て彼らの想念に還元するという形でデータを収集します。それの後で、彼らの人格や環境に与える彼らの想念の影響について考察して、自分のそれとの比較を繰り返すなどすれば、想念と人格と環境の関連性について得られるところが多いと思います。業の報いに関するデータ収集の一環にもなると思います。

「人生で自分はこんなにも苦労した。あなたがたにはわからない」というふうに環境と境遇のひどさを強調する人に限って、自らも邪念に満ちており性格も悪いことが多いです。これだけでもその人の邪念を原因としてその人の性格と環境が強く損傷していることは明らかです。その延長に夢や目標の達成未達成もあります。他者を傷付ける邪念の行き着く先と他者を傷付けずに利する正念の行き着く先、そして無漏に転じる正念の行き着く先、それぞれの想念の果てに何があるかについてイメージすることは有意義なことだと思います。

目標を達成するための想念の使い方としては、目標自体を明確にくっきりと思い描くことが大事だと思います。しかしモチベーションが枯渇すればそれで目的地への接近は終わりです。従って、自分の本当の気持ちや本当の欲求を事前に自覚してから目標を明確にしたほうが努力は長続きします。本当の気持ちや本当の欲求の生滅が自在であればあるほど、より一層人生への自由度や解脱度は跳ね上がりますが、これはレベルが高い境地です。究極は阿羅漢になります。

目標を明確化したら、ビジネスでも恋愛でも修行であっても、その目標を達成するために必要な原因を見抜いて、後はその原因構築のために八支を日常生活の中で回転させれば、心は引かれた知の水路に沿って自動的に目標を追撃していきます。仮説と方法が間違っていたときのために、自動モードの適時の確認と変更のためのあそびも確保しておくとよいと思います。


この件の、想念がもたらす人格と環境への影響を明らかに知るためにはklousさんのおっしゃる通り、自分の身・受・心・法と他人の身・受・心・法をよく念じれば明らかになってきます。これは四念処マスターであるアヌルッダが如来の十力に接近し、有情の根の種々を知るにいたっていることにもリンクしてきます。

念法については僕は念じる対象である自己や他者に「ある法が有るか無いか」を確認する、いわばステータスの確認に近い修行だと思っています。また念法の中に念身も念受も念心も含まれると僕は考えています。念法が一番広いのではないかと思います。この自他の状況確認のうち、「彼に苦はあるか。苦因はあるか。苦滅はあるか。苦滅道はあるか」、あるいは「自分には苦はあるか。苦因はあるか。苦滅はあるか。苦滅道はあるか」と確認すること、これが念法における四聖諦の有無の確認だと思っています。

ですから四聖諦を考察するだけでは念法とは少し距離があり、人により場合によっては随尋随伺でしかなかったりすると思います。四聖諦は真理や法則というよりもむしろ、自己にある苦、自己にある苦因、それらを実際に自覚すること、それが真の念法に含まれる四聖諦「知」であると考えています。僕もまだ検証中なのであまり大きなことは言えませんが。


最近の僕は、自分の本心と今までの全人生の擦り合わせを行っている作業の途中です。今後は本心が持つエネルギーをそのままうまく原始仏教を含めた利益のほうに流し込む水路を引くことですが、まだかかりそうです。ただ単に心の整理がついていないだけです。
ありがとうございます!

いつもながら一冊の自己啓発本を読むよりはるかに益になる回答を頂き、感激しています。

自己・他者を傷付けないで、目標をハッキリ明瞭に、本心と建前の峻別、俗的縁起のデータ収集・・・盛りだくさんですが、結局、慈心と念力がこれらを実現する二本柱ですね。

念はサティ、気付き、mindfullnessと一般的に言われていますが、最近はハッキリ明瞭な認識と自分流に言い換えて捉えた方が、とても念(サティ)が強力になるように感じています。

ありがとうございました。
原始仏教の語を自分流に言い換える作業はとても大切で利益が多いと僕も思います。

身体と言葉という現実的手段と、心による行ないという福業を含めた超常の力の双方を使えば、生計も仕事も恋愛他の目的達成もより最短で達成できると思います。そしてこの三行全てを強化するのが念力だと思います。要するに、どんな目標であっても強靭な意志力さえあれば最速で達成できると思います。無害を行動範囲にしつつ。その強靭な意志力を鍛えるためのものが四念処であり正念であると思います。

原始仏教を欲楽、というか普通の幸せを求める人にとって有用な形にすることも大事だなと最近は思ってます。
正式な分類法ではないのですが、僕は三つに快楽を分類してその分類想によって自分の気持ちや態度を整理したり、モチベーションを回復させたりしています。欲楽、無欲楽、聖楽です。


 欲楽 五欲楽  外界の有為法との接触を原因として生じる楽
 天楽 無欲楽  内界の有為法を一時的に滅することを原因として生じる楽
 聖楽 渇尽楽  内界の渇愛を減少・絶無にすることを原因として生じる楽



天楽はデーヴァの楽で四禅を意味しますが、四無色と想受滅まで含めて想起しても可だと思います。聖楽は正式には三悪根の根絶にして未来に生じないことを智慧によって見ることによって生じる快楽で、修行の完成である倶分解脱を意味しますが、ここでは全滅させなくとも部分的に渇愛や執着を減少させるならば、それに伴って生じる楽をもここに含めています。「渇尽」と書いているのは「渇愛滅尽」の省略である「愛尽」はどうも愛という言葉が使い古されていて馴染みにくいので、全面的に悪いイメージである「渇き」に着目して最近僕は「渇尽」と表現しています。

欲楽よりもさらに劣った状態として欲楽を満たせない状態、これもまた正式ではないのですが、この欲楽を満たせない状態をも僕は自分の中で設定する場合があります。欲界は全て劣界、劣った界ですが中でも六欲天と人間はマシなほうで、餓鬼・畜生・地獄は最悪です。前者は欲楽多く、後者は欲楽が少ないです。この差異は何から生じるかというと善趣の欲界は「五欲を得るための正しい三行と八支」が内法としてあるならばそれが善趣の欲界へと導き実際に五欲を得さしめるのだと思います。

一方で「五欲を得るための間違った三行と八支」が内の法としてあるときは悪趣に堕ちつつあり、実際に五欲の楽しみからかけ離れていくと見ます。欲界全体は外界への欲望のゆえに外界への束縛に縛られて自由を失いそれだけ劣った身体と外部環境を獲得することになり、結果的に縛られると思います。この外界への執着、これは原始仏典における「外結」とサーリプッタが説くところのものだと思います。一時的に外への欲を断っている状態が初禅以上だと思っています。

天楽は外界を認識するも外界への欲が無い状態の初禅であると思います。このとき「無欲想を原因として快楽が生じるはずだ」という信が必要だと思います。僕は無欲想と快楽を関連付けることによって初禅へのモチベーションを高めています。この知の水路が引かれると、外界への欲求不満のエネルギーが徐々に無欲想への努力分に流れ込むようになり始めます。

天楽は一時的に内の有為法を滅します。一方で聖楽は「有為法と無為法への渇愛・執着としてのその有為法を恒久的に滅するもの」だと今は思っています。漏尽力とは「悪法を滅し続け生じさせないようにし続ける力」だと思います。悪法、特に渇愛と貪りを無限に圧迫し続ける聖なる力です。

渇愛・貪り・制御不能な欲求、それらが確かに苦しみをもたらすということを自分で確認し、それら渇愛の類いが絶無になれば安楽をもたらすということも自分で確認できれば預流に近いと思います。字面とそれが意味する観念、それとは別に「実際に自分の内面で生じては滅する心の苦受をもたらす想であるところのもの」、それを自分で確認する必要があります。原始仏教を信じる人は信じるだけでなく。ここに苦因と苦滅の渇愛、原始仏教が目指すところの本義があるからです。百聞は一見に如かず、苦受とともにある想を自分で見ることが肝要です。

モチベーションの供給法として、欲楽・天楽・聖楽のうち全ての楽に資するものとして四念処を思い、特に欲楽は四摂事や四無量や世間一般の努力や技術や仕事がもたらし、天楽は初禅以上の修行、聖楽は四諦知や五蘊生滅観や無常苦無我想や離貪想などが資すると見ます。

欲楽に意識が傾くときは欲楽を満たせてなおかつ聖楽にも資するような修行を選択します。天楽や聖楽は欲楽が満たせないときにそちらに意識が傾きます。そのときは無欲想や離貪想を修習します。感受と感情、心の欲求不満や喜びなどをそれぞれの心の要素に対応した努力方向に向ける道筋を確立するために僕はこの快楽の三分類を使っています。

これに梵楽や不動楽や滅楽や神通楽や向上楽など色々と入れてもいいと思います。この三分類を採用しているのは内界と外界、そして内外界の一切の束縛から解き放たれた境地を含む最低限で包括的な分類だと思うからです。

原始仏典には「ラーダよ、渇愛の滅尽は涅槃である」と書いてあります。「涅槃は楽である」と見るのが正見であり、「涅槃は苦である」と見るのは邪見ですので、このまま言い換えれば「渇愛の滅尽は楽である」と言えます。しかしその前に人は自分の渇愛を自分で確認することが先決です。


結局全ては四念処からだと思います。欲楽も含めて。
無害については謝罪と訂正をした件がありますので別のアプローチを取りたいと思います。

僕は今では人に気を遣って疲れるということはだいぶ減りました。もっと修行を続ければもっと減ると思います。ゆっくりと一つひとつのこと、時間がかかることです。その修行内容は僕特有のものですので、やはり人には人に合ったものを自分で発見するのが最善と思います。

例によって「本当の気持ち」を念じて知ることを勧めます。この問題はすぐには解決しないと思っておいたほうが気楽です。多分、人に気を遣う人は一生人に気を遣うものだと思うので。「本当のところこれが嫌だ」ということがわかるだけでも改善への道は少し見えて来ると思います。「またこの感覚だ」ということに気付きやすくなるからです。ですから心念処の部分修習としての「本当の気持ちを知る」と念じることは少量でも無駄ではないし、四諦知に達するまで行なえばより利益があります。

実際、無害よりも心念処からのアプローチのほうが僕は随分と気が楽になりました。これは実体験でそう言えます。「本当の気持ち、本当の気持ち」と念じていると自分で驚くことになります。良ければ実験してみてください。どうして自分が人に気を遣ってしまうのか見えて来ると思います。
無害についてのトピックはほとぼりが冷めた頃を見計らって削除しました。訂正でも少し危険な内容を含んでいたので。

心念処、気軽にやってみてください。

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