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原始仏教コミュの「先祖供養と氏神崇敬」を勧める原始仏典

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先祖供養と氏神崇敬を勧める原始仏典の記述を紹介します。





  1.八正道の正見
    「布施と供養と死後の世界と神々と業の報いは実在する」
  2.先祖供養・氏神崇敬を賞讃する原始仏典の記述  
     四つの財産使用の三番目である「五献供」
  3.賞讃される祭祀と賞讃されない祭祀
    「悩害ある祭祀と悩害なき祭祀」
  4.その地域の伝統の霊的なしきたりを続けるべきこと
    七不退法の第六番目「神域・霊域の伝統」 
  5.神々はそれぞれの土地を占有すること → 氏神の存在根拠
    神々を供養すると自分たちも供養されること → 祭祀の奨励
  6.布施を邪魔する人
    ご飯を捨てるように見えてそれが虫への布施になること
    戒律を守る人への布施は大果がある
    破戒者への布施はそれには劣る
    無学者への布施はさらなる大果
  7.先祖供養の最大根拠 (一番重要な記述)
    トピックに入りきらなかったのでリンクしておきます。
   ・十集 餓鬼を供養する意義[先祖供養]
    http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47833300&comm_id=951429
    






1.八正道の正見

 「布施と供養と死後の世界と神々と業の報いは実在する」と断言

・中部経典>第117経「聖道経」
「布施は存在する。
 供養は存在する。
 供物は存在する。
 善作悪作の業の果実は熟する。
 この世界は存在する。
 他の世界は存在する。
 母は存在する。
 父は存在する。
 化生の生ける者は存在する。
 この世に正しく行き、正しく行道し、この世界と他の世界を自ら超知し実証し知らせる沙門婆羅門は存在する」(パーリ語原文の註はトピック最下部)

 ・第117経 「聖道経」  八正道   (原仏7 P149–160)
   http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29096929&comm_id=951429 完



以上が八正道の正見の基本定義です。「布施と供養と死後の世界と神々と業の報いは実在する」と原始仏典に断言されています。化生の生ける者は神々のことです。従って、「先祖供養・神道の祀り・お寺の法要」は意味があり、有効であって、無意味なものではないことが原始仏典によって保証されています。「供養」の語の意味は、修行者たちに托鉢食を与えるだけでなく、霊や神々に捧げ物をすることをも含んでいます。

この正見は「真の沙門」の絶対条件です。ですから死後の世界を信じず、神々を信じず、業の報いを信じない人は「原始仏典における真の沙門ではありえない」と評価できます。逆に死後の世界・神々・業の報いを信じる人は「原始仏典における真の沙門の条件を備えている」と評価できます。業の報いは「善人の命」です。繰り返し「人は自分の業を相続する。絶対相続する。残らず相続する」と念じてと良いです。これをマスターすると三悪行が断たれると原始仏典に書いてあります。復讐する必要がなくなるというのが肝(きも)だと思います。非暴力・不服従(特に悪事に加担しない)です。






2.先祖供養・水子供養・氏神崇敬を賞讃する教えである「五つの提供」


 アナータピンディカ居士へのゴータマの説法(増支部四集)

 一.愛されるものだが得難い四法  
   1.財産  正しく財産を取得することが得難い
   2.名誉  親族恩人とともに名誉を上げることが得難い
   3.長寿  長寿が得難い
   4.天界  天界への転生が得難い
    → この四法は愛され幸福に寄与するものであるが得難い

 二.愛されるものだが得難い四法を獲得させる四法  
   1.信 如来の悟りを信じる
   2.戒 五戒を守る
   3.施 ケチらずに気前良く寄付する
   4.慧 五蓋を断つ(欲望・怒り・眠気とぼんやり・躁鬱・迷い悩み)
    → この四具足で「金と名誉と長寿と天界」が手に入る。
     五蓋ない人は仕事できる人 → 昇進・繁盛 → 財産と地位が増大。

 三.財産の四つの利益ある用途
   1.自分と両親と妻子・使用人と友人を養い、援助し、楽しませる。
   2.火災・水難・王(時の権力者)・犯罪者・敵・相続者からの災いを防御。
   3.五提供を為す(親族・来客・先祖・王・神々に財産使用)←ココ
   4.沙門バラモンへの最上物を布施する ← 上の霊的布施とは別項目です

     
・五提供の部分の引用(増支部経典>四集)
「居士よ、また聖なる弟子が発起し精進して、腕の力で集め汗を流し、法にかなって法によって得た財産によって五つの提供を為す。
 (1)親族への提供、
 (2)来客への提供、
 (3)先祖への提供、   (先祖供養)
 (4)王への提供、
 (5)神々への提供である。(氏神崇敬)
 これが第三の処となり、器となり、入処として受用される。
 ・・・・・・
 註 提供 バリ bali 犠牲、供祭、供養、租税、供物
 親族への提供 ñāti bali ニャーティは親族
 来客への提供 atithi bali アティチは来客、客人
 先祖への提供 pubba peta bari プッバは以前に、ペータは餓鬼。水子も含む。
         辞書では「先亡、祖先、亡者」とある
 王への提供 rāja bali 今日では税金。年金・保険各種は義務ではありません
 神々への提供である devatā bali 町内の神社への寄付金など」
   (『南伝大蔵経18 増支部経典2』大蔵出版 P117 に相当)

この経典の全訳↓

 ・増支部経典四集  得難い四法・得させる四法・適切業四法
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=57022645&comm_id=951429


この記述は僕が先祖供養と氏神崇敬を勧める最大根拠です。「先祖への提供」と「神々への提供」に財産を使えと明確に記述されています。この原始仏典の記述から「先祖や先に死んだ家族・水子への供養」と「神々への供養」がゴータマ自身により賞讃され、推奨され、保証されていることがわかると思います。








3.賞讃される祭祀と賞讃されない祭祀

・増支部経典>四集
「   第九 ウッジャヤ
39.ときにウッジャヤ・バラモンは先生を訪ねた。訪ねて先生とともに挨拶した。挨拶して記憶すべき会話を交して一方に座った。一方に座ったウッジャヤ・バラモンは先生にこう言った。
 ゴータマ先生もまた供儀を賞讃しないのですか。
 バラモン、私は一切の供儀を賞讃するのではない。
 しかしバラモン、私は一切の供儀を賞讃しないのでもない。
 バラモン、供儀において牛を殺し、山羊や羊を殺し、鶏や豚を殺し、様々な生ける者に罪を犯すことを伴うもの。
 バラモン、このような悩害ある供儀を私は賞讃しない。それはなぜか。
 バラモン、このような悩害ある供儀には阿羅漢や阿羅漢道に入った者たちは近づかないからである。

 しかしバラモン、供儀において牛を殺さず、山羊や羊を殺さず、鶏や豚を殺さず、様々な生ける者に罪を犯すことを伴わないもの。
 バラモン、このような悩害のない供儀を私は賞讃する。それはなぜか。
 バラモン、このような悩害のない供儀には阿羅漢や阿羅漢道に入った者たちは近づくからである。

  馬を捧げるもの 人間を捧げるもの 投擲祭 ソーマ祭 無閂祭
  大なる悩害ある大なる供儀 それらに大果はない
  山羊や羊や牛たち 様々な者たちが殺される
  それらを伴う供儀には 大仙は近づかない
  しかし悩害のない供儀 常に先祖を供養するもの
  山羊や羊や牛たち 様々な者たちが殺されない
  そのような供儀には 大仙は近づく
  このように賢明な者は祀りなさい その供儀には大果がある
  このように祀る者には より善いことがありより悪くなることはない
  供儀は広大なものとなり、そして神々は歓喜する

 註 供儀 くぎ ヤンニャ yañña 宗教家が行なう霊的存在への供養、
      辞書には「供儀、犠牲祭、献供、供養、祭祀、祭式、祭壇」
   悩害ある サーランバ sārambha 辞書には「憤激、苦労ある」とあるが
      文脈上は「悩害」と取るのが適切。
   常に先祖を供養する yajanti anukulaṃ sadā
     yajantiは祀る anukulaは家kulaに従うものanu
     つまり、先祖や水子霊など家系にまつわる霊たち
     sadāは「常に」を意味する


   第十 ウダーイ
40.ときにウダーイ・バラモンは先生を訪ねた。・・・
 ゴータマ先生もまた供儀を賞讃しないのですか。
 バラモン、私は一切の供儀を賞讃するのではない。
 しかしバラモン、私は一切の供儀を賞讃しないのでもない。・・・(同内容)・・・
 バラモン、このような悩害のない供儀を私は賞讃する。それはなぜか。
 バラモン、このような悩害のない供儀には阿羅漢や阿羅漢道に入った者たちは近づくからである。

  悩害なき時に応じて 適切に供儀を為す
  そのようなものを梵行者は勧め、近づく
  世界の覆いを開き 一族を越えて行った(ブッダは)
  このような供儀を賞讃する ブッダは供儀に通暁している
  供儀やあるいは信施として 私のようなものに献供を為す
  歓喜する心で供養すれば 梵行者は良き田である
  善き供物 善き供儀 善き鉢食を 布施されるべき者に為す
  供儀は広大なものとなり 神々は歓喜する
  このように供儀をする賢明な者は 信により心が解脱する
  そして無悩害の楽な世界に 賢者は生じる

 註 信施 サッデー saddhe saddhādeyyaの略と見る
      信じて与えること」
   (『南伝大蔵経18 増支部経典2』大蔵出版 P76−79)


前半は偈の中で「随族施」と呼ばれる先祖供養が賞讃されています。

これらの記述の主旨は「生きている戒ある沙門たちにのみ供儀を為せ」ということではありません。ゴータマが「誰かが不利益と苦を受ける祭祀」を賞讃せず、「誰も不利益と苦を受けない祭祀」を賞讃しているのは文脈上明らかです。そして、バラモンたちが悩害ある供儀を神々に行なうときは聖者たちは近づかないとしています。つまり、小さな利益のために聖者たちへの布施という大きな利益を逸していることになります。しかし、バラモンたちが悩害なき供儀を神々に行なうときは聖者たちも近づき、小さな利益も得て大きな利益も得るということです。沙門たちはそうしたバラモンの祭りの際のおこぼれに預かろうとして乞食に来るということでしょう。







4.その地域の伝統の霊的なしきたりを続けるべきこと

・長部経典>第16経「マハーパリニッバーナ・スッタ」
「(七不退法の六番目)
 アーナンダよ。ヴィッジ人が(都市の)内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう」
   (『ブッダ最後の旅』岩波文庫 P14)


   → 神社仏閣の祭祀を今後も継続していくべき。
    そうすれば日本も地元も衰退しない。


ですから今日の日本仏教の「教義と祭祀は別物」と理解して、地元の有名なお寺の有力な神様(仏の姿を借りている悟っていない神々)に感謝しに行くことは良いことです。僕の立場は仏が神の姿を借りる本地垂迹説ではなく、反本地垂迹説である神が仏の姿を借りているという「神本仏迹説」です。そう考えないと「阿羅漢の善光寺阿弥陀が病気を治してくれたり、縁結びしてくれる」という意味不明な状態に陥ってしまいます。阿羅漢は人々のわがままを聞く神とは違いますから。もっとも阿羅漢も神もお気に入りの人間しか助けないのは共通ですが。







5.神々が土地に自らの敷地を構えること(氏神・鎮守の神の存在根拠)
 神々を供養すると自分たちも供養されること(祭祀の奨励)

・長部経典>第16経「マハーパリニッバーナ・スッタ」
「二六 そのとき、マガダ国の二人の大臣であるスニーダとヴァッサカーラとは、ヴァッジ族(の侵入)を防ぐために、パータリ村に城郭を築いていた。
 そのときパータリ村は、千をもって数える多くの神霊たちがそれぞれ敷地を占有していた。優勢な(えらい)神霊たちが敷地を占有しようとする地方には、優勢な国王または大臣が住居を建築しようとする気になる。中位の神霊たちが敷地を占有しようとする地方には、中位の国王または大臣が住居を建築しようとする気になる。低位の神霊たちが敷地を占有しようとする地方には、劣勢な国王または大臣が住居を建築しようとする気になる。
二七 さて尊師は、清らかな、超人間的な天眼をもって、千をもって数えるそれらの神霊がパータリ村に敷地を占有しているのを見た。そこで尊師は、朝早く起きて、若き人アーナンダにたずねた。
「アーナンダよ、パータリ村に城郭を建設しつつあるのは、誰なのだ?」
「マガダ国の大臣であるスニーダとヴァッサカーラとが、ヴァッジ族(の侵入)を防ぐために城郭を建設しているのでございます。」
二八「アーナンダよ、あたかも三十三天の神々と相談しているかのごとくに、アーナンダよ、マガダ国の大臣であるスニーダとヴァッサカーラとは、ヴァッジ族の侵入を防ぐために、パータリ村に都市(の城壁)を建設しつつある。アーナンダよ、ここで私は、清らかな、超人間的な天眼をもって、千もの多くの神霊たちがパータリ村に敷地を構えているのを見た。優勢な(えらい)神霊たちが敷地を占有しようとする地方には、優勢な国王または大臣が住居を建築しようとする気になる。中位の神霊たちが敷地を占有しようとする地方には、中位の国王または大臣が住居を建築しようとする気になる。低位の神霊たちが敷地を占有しようとする地方には、劣勢な国王または大臣が住居を建築しようとする気になる。
 アーナンダよ、パータリプッタが立派な場所である限り、商業の中心地である限り、ここは首都であり、物資の集散地であるであろう。しかしパータリプッタには三種の災難があるであろう。すなわち火と水と内部からの分裂とによるものである。」
二九 そこでマガダの大臣であるスニーダとヴァッサカーラとは、尊師のいますところに赴いた。赴いてから、尊師と挨拶のことばを喜び交した。挨拶のことばを交したあとで、一方に立った。一方に立ったマガダの大臣であるスニーダとヴァッサカーラとは尊師に次のように言った。
――「ゴータマさまは今日(わたくしどもの家で)修行僧がたと食事をなさるのをご承諾ください」と。尊師は沈黙していることによって(その申出を)承認した。
 そこでマガダの大臣であるスニーダとヴァッサカーラとは、尊師が承知されたのを知って、自分の住宅に赴いた。赴いてから、自分の住宅において美味なる食物を用意させて、時を告げさせた。――「ゴータマさまよ、時刻でございます。食事の準備ができました」と。
三〇 そこで尊師は早朝に内衣を着け、衣と鉢とをたずさえ、修行僧の一団とともに、マガダの大臣スニーダとヴァッサカーラとの住処におもむいた。おもむいてから、設けられた席に坐った。そこでマガダの大臣スニーダとヴァッサカーラとは、ブッダを上首とする修行僧の一団を手ずから美味の食物をもって満足させ、飽くまでもてなした。そこで尊師が食事を終えて手と鉢を洗ったときに、マガダの大臣スニーダとヴァッサカーラとは、低い座席をとって、一方の端に坐った。
三一 マガダの大臣スニーダとヴァッサカーラとが一方の端に坐したときに、実に尊師は次の詩句を唱えてかれらを喜ばせた。

  聖賢の生れなる人が
  住居をかまえる地方において、
  そこで、有徳にして自ら制せる清浄行者たちを供養したらならば、
  そこにいる神霊たちは
  かれらに施与(の功徳)をふり向けるであろう。
  かれら(=神霊)は供養されたならば、またかれを供養し、
  崇敬されたならば、またかれを崇敬する。
  かくて、かれを愛護すること、
  あたかも母がわが子を愛護するようなものである。
  神霊の冥々の加護を受けている人は、つねに幸運を見る。

そこで尊師はマガダの大臣スニーダとヴァッサカーラを、これらの詩句を唱えて、喜ばせ、座から立ち上がって出て行った。」
   (『ブッダ最後の旅』岩波文庫 P36−40)


    → 地球上の様々な土地に神々が住んでいること
     (日本では氏神・鎮守の神、海外では教会やモスクの伝統)     
    → 神々を供養するならば守護があること
     (神社仏閣の祭祀の奨励、地域の伝統を守ることの奨励)


「都市の性質によってそこに住む神々の性質がわかる」という重要な記述です。さらに言えば、「そのお国柄からその国を支配している神の性格がわかる」とも言えます。日本は天照大神が最高神ですが、日本人の平均値のような性格があるのかも知れません。地方別や県民性などを考えても面白いと思います。







6.布施を邪魔する人
  ご飯を捨てるように見えてそれが虫への布施になること
  戒律を守る人への布施は大果がある
  破戒者への布施はそれには劣る
  無学者への布施はさらなる大果

「(「ゴータマとそのサンガへの布施以外は功徳がない」とゴータマが主張しているという噂が広がる。それに対するゴータマの解答)
 ヴァッチャよ。
  私にのみ布施しなさい。
  他に布施してはならない。
  私の弟子にのみ布施しなさい。
  他の弟子に布施してはいけない。
  私にのみ施すならば大果がある。 
  他に施したものには大果がない。
  私の弟子にのみ施すならば大果がある。 
  他の弟子に施したものには大果がない。
 このように沙門ゴータマは言ったと語る人々は私の説いたことを説くのではない。また彼らは事実でないことによって私を誹謗している。
 ヴァッチャ、他者に布施する人を妨げる人は三を妨げ、三を邪魔する。何がこれら三か。
 布施する人の福を妨げる。
 受ける人の利益を妨げる。
 また彼の以前の徳の性質は掘られて、傷付けられる。(布施の習慣が破壊される)
 ヴァッチャ、他者に布施する人を妨げる人はこの三を妨げ、この三を邪魔する。

 ヴァッチャ、私はまたこのように説く。
  糞尿の穴、汚物の溝にも虫がいる。
  この(食べ物)によってこの中の虫は生きなさい。
 と。その中に鉢や皿を洗う水を捨てれば、ヴァッチャ、私はそれを原因として福が来ることを説く。人に対してする場合にはどう言おうか。(残り物を人にあげること)

 ヴァッチャ、また私は戒を持つ人に施せば大果があると説く。破戒者の場合はそうではない。
 
 また彼は五支を断ち、五支を成就する。
 何の五支を断つか。
 彼は欲望への意欲を断ち、怒りを断ち、惛眠を断ち、疑いを断つ。
 これらの五支を断つ。
 何の五支を成就するか。
 彼は無学の戒蘊を成就し、無学の定蘊を成就し、無学の慧蘊を成就し、無学の解脱蘊を成就し、無学の解脱知見蘊を成就する。
 これらの五支を成就する。
 このような五支を断ち、五支を成就する人に施せば大果があると私は説く。
  黒くあっても白くあっても・・・(偈続く)」
  (『南伝大蔵経17 増支部経典1』大蔵出版 P261−262)

  布施を邪魔する人(施者の福を破壊・受者の利益を破壊・美徳を破壊)
  ご飯を捨てるように見えてそれが虫への布施になること
  戒律を守る人への布施は大果がある
  破戒者への布施はそれには劣る
  無学者への布施はさらなる大果

  
布施には家族への布施、五献供としての布施、宗教家への布施の主に三つがあります。

家族を養おうとしている人の邪魔をする人は「布施を邪魔する人」です。親族や来客への気前良い対応を邪魔する人も布施を邪魔する人となります。同様に先祖供養をやめさせるのも布施の邪魔をすることとなります。宗教施設への寄付の邪魔をする人も同様です。

布施を邪魔する人になるのではなく、布施を推奨する人になれば、福を積み、未来に利益が多いと思います。ですから、互いに布施を勧め合うことがよいことです。ゆえに先祖供養と水子供養と氏神崇敬を僕は勧めています。それをしないと不幸になるということではなく、布施をすれば福を積めるという意味において言っています。

また先祖供養の対象は「餓鬼に転生した先祖とガンダッバなどの低位の神に転生した先祖」のみが対象です。先祖を供養しても先祖は神々の仲間になれませんし、先祖を供養しないからといって先祖が地獄に堕ちるわけではありません。ただ先祖は布施されたことが嬉しくて、子孫に援助するなどの善行を施して霊的に向上した場合は、神々の仲間に入る一因にはなるかも知れません。あるいは子孫が供養してくれないからと言って邪行に走る先祖がいた場合は先祖供養をしないことが一因で地獄に近づくかも知れません。しかしそれは「先祖の心次第」であって布施は外的な要因に過ぎず、昇天や堕獄の根本原因ではありません。

どんどん家族や友人に「気前がよいことの素晴らしさ」を推奨することはよいことです。逆にケチを勧めるのは布施を邪魔する人に近づきます。ケチと倹約(収入と支出のバランス)の違いは、ケチな人は「1円も寄付しません」が、倹約して未来に備える人は「どんなに少ない中からでも寄付のお金を適度に捻出する」というところにあります。

「みんな自分に気前がいい人が大好き」ですから、気前よくなれば人に慕われるようになります。ただ物とお金をあげすぎたのが原因で相手が苦悩しない程度に気前よくするのがよいと思います。宝くじが当たって破滅する人は多いですから。大富豪の基本の中に「収入の十分の一は寄付する」というのがあります。大富豪並みに来世は金持ちになりたい方の場合は記憶しておくべき美徳の一つです。





[参考トピック]


・十集 餓鬼を供養する意義[先祖供養]←重要な記述
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47833300&comm_id=951429
・布施による繁栄の五法(第四法が神々への布施)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47709458&comm_id=951429
・布施の段階と究極の祭祀
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7723444&comm_id=951429
・長部経典 第5経「クータダンタ経」究極の祭祀(重要部分訳)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48429725&comm_id=951429
・中部経典 第142経 「施分別経」 布施の功徳
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48236052&comm_id=951429 完




・八正道の正見の記述の註

 布施は存在する ‘Atthi dinnaṃ,
 供養は存在する atthi yiṭṭhaṃ供儀とも訳されバラモンの祭祀にしようされる語、
         辞書には「供儀した、供養した、犠牲」とある。
         『パーリ語辞典』春秋者 P266
 供物は存在する  atthi hutaṃ,辞書には「供養した、献供の、供物」。
 善作悪作の業の果実は熟する atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko,
 この世界は存在する atthi ayaṃ loko,
 他の世界は存在する。 atthi paro loko, 死後の世界
 母は存在する atthi mātā,  自分を生んだ女性は記憶になくてもいること
 父は存在する atthi pitā,
 化生の生ける者は存在する atthi sattā opapātikā,神々が実在すること。
     物質的には何もないところに見えないものを原因として出生する霊的存在
 この世に正しく行き、正しく行道し、この世界と他の世界を自ら超知し実証し知らせる沙門婆羅門は存在する
 atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti –

コメント(7)

[参考トピック]に以下のトピックを追加しました。


 ・布施による繁栄の五法(第四法が神々への布施)
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47709458&comm_id=951429



このトピックの内容を補強する原始仏典の内容を紹介しています。
以下の内容を追記しました。



  7.先祖供養の最大根拠
    トピックに入りきらなかったのでリンクしておきます。
   ・十集 餓鬼を供養する意義[先祖供養]
    http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47833300&comm_id=951429
    



以上を追記しました。
このトピックの「五献供」と増支部十集の餓鬼[ペータ peta]に関する記述。この二つは現代における先祖供養を支持する原始仏典の記述として最重要です。


 ・十集 餓鬼を供養する意義
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47833300&comm_id=951429
    


時に応じて布施をし利他をし利行を行なうことは功徳が多いと思いますので、今この時期に先祖供養を身体と言葉と心によって行なうことは称賛されると思います。今ある自分のこの肉体の原因となり土台となっている両親を遡る先祖たちを固体・液体・気体・思いによって供養することは互いの相互扶助として適切な行為だと思います。食べ物や飲み物や線香や感謝や慈悲の念を供えて、久しぶりに顔を合わせる人たちと仲良く過ごせれば善いと思います。

両親は神様であり、先祖も神に準じるものであるのはひとえに現在の自分を構成する主要原因であるからだと思います。魂は新しい身体と結合し成長しますが、一方で新しい身体の原因である両親はいまだ外界に生存し、こちらに影響を与えこちらも両親に影響を与えることがあるというのはあらためて考えると不可思議です。繁殖の不思議は言い換えれば生命の性質の秘密であり、生命の秘密というものは念と知の秘密に行き着くのではないかと憶測しています。


僕が原始仏教を知らないとき求道と実際生活の狭間で悩んでいました。高度に形而上的な問題を追求し過ぎると勢い実生活が疎かになり人間関係や社会的な状態が悪化するということに気付き始めた頃でした。高校を中退して哲学ばかりをしていた十代後半は今思うと僕の人生中もっとも下降していた時でした。当時は自分の本当の気持ちに気付きませんでした。そして悩んだ果ての結論は「今の自分の暮らしの土台を固める」ということでした。

自分の今の生活、命の原因を知るのは正知、自分の暮らしの原因を正しく知って見るのは正見、自分の暮らしの原因を正しく知って見てその原因をさらにより一層強化し堅固にするための活動であるところの正思・正語・正業・正精進・正念・正定は、現在の正命に資して全体をさらに強化し再構築します。

簡単に言えばお世話になっている家族・親族・学校や職場の人たち・友人・地域や社会を大事にするということです。気前よくおごってお店では1円でも募金箱に入れて、愛想よくこちらから挨拶して話しかけて、余力があればすすんで手伝いをして、付き合う価値のある人とは一緒に行動することです。これは現実の人間関係です。

もう一つの霊的な人間関係として、先祖霊と一切の関係霊と地域の精霊・ヤッカ・デーヴァ・ペータなどを尊重することです。そのとき僕は先祖供養と氏神への参拝を始めました。まだ原始仏教を知らなかったときです。僕は土台重視のために宗教は神道寄りでした。それから僕の人生はうまく回り始め、高校中退に過ぎなかったのが、大検と大学受験に速やかに合格して無事に卒業して就職もできました。結局辞めましたが。

「自分の暮らしの土台を固める」という発想は善き八支を展開させます。これは僕の実体験からもおすすめできます。今の暮らしより下に行かないように維持に努めつつ、さらなる向上を目指して努力する、その果てに漏尽の倶分解脱、聖なる正命の成就があるのだと思います。


これを読んでいるそれぞれの方が原始仏教の修行によって最速で進歩して、自分の全親族中において最上の人間になれれば素晴らしいと思います。本物にさえなれば人や親族に認められなくても関係ありません。しかし徳は孤ならず、必ず隣ありということもまた真実ですが。しかし己を隠しても可です。

本物であることと人から認められることはまた別々のことです。優れた言動と成果を他者に認識させることを原因として知らしめた相手の中において名誉は生じます。しかし真に価値あることは他者の中にある自分像ではなく、自らが所有する力への執着を捨て去る漏尽の力を獲得することだと思います。その力によってまさにその力への縛を破るところの力、脱して妙、それが漏尽力であると思います。


原始仏教は親孝行と先祖供養とその土地その土地を支配する神々を崇敬することを在家の美徳と布施の対象として認めています。しかし義務ではないので欲する人だけが為すべきであり、欲しない人に強要するべきではないと思います。聖者は五戒を勧めますが五戒を強要しはしません。五戒を強要すれば自分が破戒者となるでしょうから。欲する人が正道を行くべきであり、欲しない人はそうではありません。強要することは有罪だと考えるからです。

善く餓鬼界・天界の存在者たちを供養すれば、慈心の功徳同様に「神々の守護を得る」ことができると思います。布施を通じてこちらから相手の手を取る、そして人間界も餓鬼界も天界も、互いに手を取り合って。やっていけます。
トピック本文の2にある「五献供」を「五提供」に変え、全体的に2の部分を編集しました。


アナータピンディカへの教えであるこの在家の五提供は僕が「原始仏教は先祖供養と氏神崇敬を推奨している」と主張している重要経典ですので、今回全訳しました。トピック本文にも貼っておきました。この教えは原始仏典に書いてある「在家の正しいお金の使い方」の一つです。ですから原始仏典の記述に従えば、先祖供養や氏神や氏寺というか菩提寺への寄付は在家の正しいお金の使い方の一つです。


 ・増支部経典四集  得難い四法・得させる四法・適切業四法
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=57022645&comm_id=951429



秋の収穫に感謝する祭りの時期なので、良い機会だと思って久しぶりに翻訳しました。

地元や現在住んでいるところの神仏諸霊やそれらを祀る各地の伝統や風習を大切にしていけば、良い霊的な人間関係が構築され、布施としての福を積むことにもなり、色々と良いことがあるのではないかと思います。
今年は身内が二人死に、一人は曹洞宗で、一人は浄土宗で葬儀を行ないました。

曹洞宗では修証義を読み、浄土宗では浄土三部経の一部らしき経を読みました。原始仏教を学んで実践している僕が日本仏教のお経を僧侶の方に従って殊勝げに読みつつ焼香するも、僧侶の方々は僕のことを知らないということがなんだか少しおかしく思えました。でも僧侶の方はいずれも真剣に読経してくれましたので、その霊的現実的効果は別として気持ちと誠意はしっかりと受け取りました。それも一つの現実的効果かも知れません。それにいつもお世話になっているので感謝しています。

生活感の溢れた少し散らかった待ち合い室で『大法輪』と書かれた古い雑誌や読まれていないと思われる埃をかぶった経典などが雑多に本棚に詰め込まれているのを見ると、先代からの歴史を感じて色々と考えさせられました。これもまた人の思いの一つなのかなと。

神前や仏前、神事や法要などの際には、僕は伝統的なものに従いながらも慈心をしっかり修するようにしています。慈心だけで良いかも知れませんし、良くないかも知れません。とりあえず世間体と体裁のために自他を傷付けるような作法でない限りは従うようにしています。天眼通さえあれば修行方法の検証精度は飛躍的に上がるのにといつも思います。光想修習の四神足で天眼が手に入るようですが。

原始仏典において先祖供養を明確に勧める記述があります。確認のために再度紹介します。この記述と色々な俗信や霊界通信を合わせて推測すると、未成仏の霊が餓鬼であり主に個体液体の食物を摂取し、成仏した霊がガンダッバであり気体としての香を主に摂取するのだと思います。いずれにしても先祖には餓鬼もガンダッバもいるから供えても無駄ではないというところに原始仏典の記述は落ち着いています。後は自ら天眼通で確認することが大事だと思います。僕自身は先祖に個体液体気体を毎日捧げながらも(線香は僕自身毎日供えますが、ご飯とお茶やたまのお菓子などは家族が供えています)、特にエネルギーとしての慈心をその都度数秒修して手堅く供養しています。


 ・十集 餓鬼を供養する意義[先祖供養]
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47833300&comm_id=951429
 ・第10 ガンダッバ相応 「香神」   (南伝14 P405−410)
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42537068&comm_id=951429 完


四十九日の真ん中あたりの法要のとき家族が隣で「あっここは唱えるとこじゃなかった」という感じで尻すぼみに「なんまんだぶ。なんまん・・だぶ」とぼそぼそ中途半端に唱えたとき、不謹慎ながらも息で笑ってしまいました。もう僕も家族も悲しみは薄らいでいたので。あとで軽く揶揄されました。

遺体が火葬されて収骨するとき、入れ歯の金具だけが焼き残っていました。収骨室の天井は高く、上方から故人は自分の肉体の最後の姿を見ているのかも知れないなどと想像していました。喪服でなくとも普通のスーツに黒ネクタイをすれば、十分喪服に見えていたようでお金が浮いてよかったです。「今生きている人はみんな死ぬ」、そう思うと何だか哀れな気もしてきます。
今日は地鎮祭をしました。


長部経典第16経「マハーパリニッバーナ経」にヴァッジ人に関連して在家集団の七不衰法の六番目として伝統祭祀を継続する美徳が述べられています。自分の家族や仲間内で以下のことが行なわれているかどうかを点検してみるのもよいと思います。あるいは恋人や夫婦の二人だけの場合でも該当部分はあると思います。二人の間にホウレンソウがないことは普通に多いですから。

[七不衰法]
1.しばしば会議を開く間は繁栄し衰亡しない。
2.協同して事を為す間は繁栄し衰亡しない。
3.定めを変更せず遵守する間は繁栄し衰亡しない。
4.長老を敬い彼らの言葉を聞くべきと思う間は繁栄し衰亡しない。
5.女性に暴行しない間は繁栄し衰亡しない。
6.伝統祭祀と供物を廃さない間は繁栄し衰亡しない。
7.阿羅漢たちを援助する間は繁栄し衰亡しない。


第六の伝統祭祀の継続としての美徳の部分だけ引用します。

「アーナンダよ。ヴァッジ人が(都市の)内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう」
  『ブッダ最後の旅』岩波文庫 P14


七つの美徳として、報告連絡相談などの会議、一緒に行動すること(四摂事の第四である同事に相当すると考えています)、規律の遵守、目上の尊重、女性に優しく、伝統祭祀の継続、宗教家特に阿羅漢への援助が説かれています。これら一つの美徳でもあればその集団や仲間は強いと思います。これら七つを備えれば最高のチームだと思います。自分の身の回りの友人や異性がちゃんと話し合える人か、一緒に行動してくれる人か、ルールを守る人か、目上を尊重しているか、暴行しないか、伝統祭祀を重んじているか、宗教家に寄付をしているかなどチェックしてみると面白いと思います。

現代日本における伝統的な冠婚葬祭を折り目正しくきっちり執り行うことはこの第六の伝統祭祀の継続の美徳に相当すると考えています。特に霊的神的な存在への働きかけに関わるような所作を伴うもの、たとえば神社における例祭や仏閣における法要、日々の家庭における先祖供養などは特に尊重して継続したほうがいいように思います。

今回の地鎮祭では事前にいつものスーパーに新鮮な鯛(タイ)、1500円相当を取り寄せてもらって、洗米、塩、水、お神酒(一升瓶)、鯛、日高昆布、季節の野菜(大根、ほうれんそう、トマト)、季節の果物(柿、りんご)を用意して氏神さまの宮司と施工業者を迎えて執り行いました。天眼がないので確認できませんが、犬が来客時とは別の吠え方で祝詞中に吠えていましたので何らか霊的な存在が来ていたのかも知れません。玉串奉奠の後、儀式は無事に終了しました。鯛と日高昆布は空気が入るようにラップと袋の端が切られているのを後で確認しました。


儀式の最中は慈心と感謝とお詫びの念を注いでいました。自他を傷付けないと思われる範囲における伝統の遵守、それに加えた慈心他の善想・善思を行なうことによって損害が少なく利益を手堅く確保できると考えて僕はそのようにしています。これらの行ないが有効かどうかの検証として、伝統祭祀を尊重しない人間の人生全体における損得と、伝統祭祀を尊重する人間の人生全体における損得を色々な人に聞いてみたり、自ら追跡調査をしてみるとよいと思います。死後に生存中に出なかった結果が出る可能性がありますので、やはり天眼による検証がもっとも決定的なものになると思います。

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