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原始仏教コミュの五根と五力の違い

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五根と五力の違いについて記された原始仏典で唯一の記述です。





相応部経典>大品>第四 根相応


「   第三 サーケータ

513.このように私は聞いた。
 あるとき先生はサーケータのアンジャナ林の鹿の園に住んでいた。ときに先生は比丘たちに呼びかけた。

 比丘たちよ、どのような理由があって、その理由により五根は五力であり、五力は五根なのか。

 先生、法は先生を根本とし、先生を導く者とし、先生に帰依しています。
 先生、そうです。先生がこの説の義を明らかにしてください。
 比丘たちは先生から聞いて受持するでしょう。
 比丘たちよ、それならば聞いて、よく考えなさい。説こう。
 はい、先生と比丘たちは先生に応えた。先生は言った。

 比丘たちよ、理由があり、その理由により五根は五力であり、五力は五根なのだ。
 比丘たちよ、どのような理由があり、その理由により五根は五力であり、五力は五根なのか。
 比丘たちよ、信根は信力であり、信力は信根である。
 精進根は精進力であり、精進力は精進根である。
 念根は念力であり、念力は念根である。
 定根は定力であり、定力は定根である。
 慧根は慧力であり、慧力は慧根である。

 比丘たちよ、たとえば東に行き、東に傾き、東に入る川があり、そこには中州がある。
 比丘たちよ、理由があり、その理由によってその川は一つの流れであると数えられる。
 比丘たちよ、また理由があり、その理由によってその川は二つの流れであると数えられる。

 比丘たちよ、どのような理由があり、その理由によってその川は一つの流れであると数えられるのか。
 比丘たちよ、その州の東の水と西の水である。
 比丘たちよ、この理由があり、その理由によってその川は一つの流れであると数えられるのである。

 比丘たちよ、またどのような理由があり、その理由によってその川は二つの流れであると数えられるのか。
 比丘たちよ、その州の北の水と南の水である。
 比丘たちよ、この理由があり、その理由によってその川は二つの流れであると数えられるのである。

 比丘たちよ、このように信根は信力であり、信力は信根である。
 精進根は精進力であり、精進力は精進根である。
 念根は念力であり、念力は念根である。
 定根は定力であり、定力は定根である。
 慧根は慧力であり、慧力は慧根である。

 比丘たちよ、五根を修習し、多く為せば、比丘は漏を尽くして無漏の心の離脱・智慧の離脱を現世において自ら超知し実現して具足して住する。


 註 理由 パリヤーヤ pariyāya 法門、教説、部門;理趣、理由;方便
   「信根は信力であり、信力は信根である」 
    yaṃ saddhindriyaṃ taṃ saddhābalaṃ,
    yaṃ saddhābalaṃ taṃ saddhindriyaṃ;」
   「信根であるところのもの、それは信力である。
    信力であるところのもの、それは信根である」」

   『南伝大蔵経16下 相応部経典6』大蔵出版 P42−44





五根は顕在している行。
五力は潜在している行。


たとえば、

「腕立て伏せは腕力であり、腕力は腕立て伏せである。
 腹筋することは腹筋力であり、腹筋力は腹筋することである」

という感じで僕は理解しています。


筋肉があるから筋トレができるわけですが、筋トレするから筋肉があるわけです。鶏と卵のどっちが先かみたいな話で前も似たようなことを書いた記憶があります。五根も五力も同じことを言っているのですが、あえて七科のうちに二つも入れる意義は何かと考えると「単語によって惹起されるヴィジョン・想を重要視した」のだと思います。


ある人は「これさえやっていればいいんだよ。五根」と言われてそればかりやって完成します。五根という単語とそれに伴って惹起されるイメージがその人には向いているということです。

ある人は「この力、このステータスを上げればいいんだよ。はい、五力」と言われてひたすら自分のレベル上げをして完成します。この人は「どんどん自分についていく力」というイメージがやる気を出させるのだと思います。

もちろん、やる気の違いだけではなく、実質的に五根と五力は違うものとして実在しています。五力が実在しないならば、阿羅漢は朝から晩まで五根を働かせ続けなければいけません。五つもあって大変ですし、働かせるのをやめたら五根が失われて阿羅漢でなくなってしまいます。

しかし、五力があるから一時的に五根の働きをやめても阿羅漢の境地は失われないわけです。力は潜在していて可能であるという状態を維持しており、原因がそろえば漏尽の五根を発動させることができます。逆に、五力を形成してもそのまま一生使わなければいずれ力が失われてしまいます。ですから、五根はやはり重要で、ときに応じて五根の働きを使う必要があります。

しかし、五根と五力は完成した場合は必ず再使用されるものですので、その力は失われることはありません。川は今も先もあるのだけれど、同じ水ではないということです。人間の筋肉もまったく同じで筋力が衰えなくても、細胞は数年経てば別の細胞にそっくり入れ替わっていると思います。

智慧というものは「これは善いことだと知っているからこの善いことをやるの」という善なる行ないを生み出し続けざるをえない永久機関のようなものですから。そうでなければ、涅槃界・不死界から力が失われ堕落した阿羅漢たちがぼたぼた落ちて来てもおかしくありません。しかし、涅槃して戻ってこないのは智慧にはそうした再形成の特殊な性質があるからだと僕は考えています。学校の知識は日常で使いませんから忘れて行きますが、不死の智慧は毎日使うからなくならないのだと思います。

五根も五力も原始仏教以外でも使えます。

学業の信根・信力。
学業の精進根・精進力。
学業の念根・念力。
学業の定根・定力。
学業の慧根・慧力

勉強が大事と信じず、勉強はできるようになると自分を信じず、その先生や参考書を信じないならば、勉強への精進が起きません。やる気ゼロ。注意力ゼロ。集中力ゼロ。思考停止。落第生が出来上がります。しかし、勉強の利益を信じ、自分を信じ、教師と参考書を信じれば、やる気が上がり、注意力が上がり、集中して、頭も回転します。頭が回転すれば、記憶力も上がり、問題への解決力も上がり、いい成績が出ます。すると、より一層自分を信じ、教師や参考書を信じて、さらなる努力が生まれます。

仕事の五根。人をまとめる五根。異性と付き合う五根。健康作りの五根などあらゆることに五根が応用できます。ただこれらは凡夫的で流れに入りません。流れに入る五根は「寂静に行き、正覚に行く五根」という枕詞が必要です。あるいは「遠離に依拠し、離貪に依拠し、滅に依拠し、放棄に行き着く五根」などです。この正覚の類いした性質を付与された五根は流れに入ります。

しかし、凡夫の五根も無駄ではなく、この凡夫の基礎の五根があればあるほど、四諦への理解力に転じるわけですから、何をやっても駄目な人は四諦の考察も遅々として進まない場合があります。何をやってもできる人は四諦をマスターするのも早いと思います。もっとも信じてやる気を出せばの場合です。



結論として、僕は以下のように理解しています。


 五根は顕在している行。
 五力は潜在している行。



打ち込みたいトレーニングに着目するか、それとも獲得したい力に着目するか、それともダブルでやるか。お好きなやり方でやりたい科目からでよいと思います。ただ慧根が最上というのはゴータマは何度も連呼しています。

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