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原始仏教コミュの如来の死後 「誰も見ない」

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如来が死んだ後に関する唯一の記述です。






   長部経典>第1経 ブラフマジャーラ・スッタ[梵網経]

「147.比丘たちよ、如来の身体は有へと繋ぎとめるものを断ち切って住している。
 身体が住する間は、神々も人々もこれを見る。
 しかし身体が破れて命が完全に尽きた後は神々も人々もこれを見ることはない。

 比丘たちよ、たとえばアンバの枝が切られれば、いかなるアンバであってもその枝についているもののそれら一切の存在は壊れてしまう。

 比丘たちよ、このように如来の身体は有へと繋ぎとめるものを断ち切って住している。
 身体が住する間は、神々も人々もこれを見る。
 しかし身体が破れて命が完全に尽きた後は神々も人々もこれを見ることはない。


 註 如来の身体 tathāgatassa kāya
   有へと繋ぎとめるもの バヴァネッティ bhava netti 有綱 生存に導くもの
   アンバ amba マンゴーのこと 高さが40メートルぐらいの大きな果樹になる
   神々も人々もそれを見ない na naṃ dakkhanti devamanussā
    na(否定) naṃ(それを) dakkhanti(見る) devamanussā(天人)」

   『南伝大蔵経1 長部経典1』大蔵出版 P67





これは長部第一経のラストの部分です。最後にこの教えを説いたときに「千世界が振動した」と書いてありますが、後世に加えられたものだと思っています。『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)のP72にも、大地震が起きる八つの原因についての記述がありますが、その地震の原因の一つに「ものすごい説法」は含まれていません。これは原始仏典の記述同士の矛盾です。

また「この大地が」震動するのであって、それは一つの惑星の部分が震動するに過ぎません。一世界に相当するこの太陽系の全体が震動するとは書いてありません。ましてや千世界に大地震を起こしてはいい迷惑です。如来は一世界に一人が限界なのに他の999の世界には説法に来てくれないのに、震動するわけですから。菩薩が入胎したりするときに「一万の世界に光明が現れる」という記述はあります。また別の箇所に「十万世界に」光りか声が云々の記述があったと思います。いずれにしろ、中千世界が百万の世界ですから、如来一人の出現は一つの銀河を輝かすぐらいの認識でいいと思います。光は大抵は無害ですからいいですが、地震は有害なのでゴータマが寿命の素因を断ったときに誰かが傷ついていないといいですが。

結論としては僕はこの「千世界が震動した」という記述は、誰かが付け加えた捏造部分だと思っています。原始仏典はたまにうさんくさいのが入ってくるので注意が必要です。米に混じる砂ぐらいの頻度です。





本題ですが、如来の死後は無記であるにも関わらず、「死後は誰も見ないよ」ということだけは言っています。確かに如来の死後に誰かが如来を見るならば、「次の如来の身体はこれです」と美しい肉体のお披露目が可能になってしまいますから。「では化身ならば可能か」という問題になると僕は口を閉ざさざるを得ません。グレーゾーンです。「固定的な身体との結合はないなら、流動的な一時的な肉体の化作は可能か。たとえば、霊がエクトプラズムで物質化現象するみたいに」という問題です。僕はわかりません。法身とか報身の大乗の思想に近づけば近づくほど、如来の死後への言及が増え、無記に抵触し、それらの見解は再び「五蘊への執着を生む見解」として定着します。原始仏典にも書いてある通り「六触処が滅した後に何が残るのかと問うべきではない」ということです。



原始仏典の記述に沿って正しく如来を理解したい、と考えたときにやはり「枝切りのたとえ」がベストです。


 「木や枝を切れば、切ったところから先の全ては落ちて駄目になる」


ということです。マンゴーの木でなければいけないという話ではないと思いますが、「切る」のは「生存へ導くもの」で「落ちて駄目になる」のは「如来の身体」という対応になると思います。


凡夫は生死を繰り返します。このたとえだと「ちゃんと切っていない」から毎年その枝には花が咲き果実ができて、それは毎年違う肉体をまとって冬に死んで春に新しい身体で転生するということです。

しかし、如来はすでに枝を切ってしまっていて栄養の食が補給されないので、本体の木からは離れてしまって「後は枯れるだけ」という状態だと思います。確かにすべての阿羅漢は濡れ落ち葉です。死んだら転生しないので後は三界から引退するだけです。引退後も不死界から三界に活動可能かも知れませんがこれもまた無記です。阿羅漢は性欲を枯らし、渇愛を枯らし、五取蘊を枯らし、最後には自らの身体の血肉をも含め全てを枯らして涅槃します。これこそ奥義「枯山水」。




では、そのあと何が残るのかと気になりますが、質問してはいけないということです。ならば今まで修行した如来の力や弟子たちの個性様々な智慧と神通の力はどこへ、と疑問が残りますが、しかしそれは「無戯論を戯論する」と非難されてしまいます。因果連鎖は続くだろうという推測・憶測の範疇です。こうして全ての阿羅漢は無余依涅槃して誰もその後を語ってくれません。涅槃というミステリーを残して「そして誰もいなくなった」ということです。ただこちら岸の凡夫である私たちは真犯人を探して推理をするだけです。あるいは自ら涅槃界に行ってあちら岸に向かうかです。

しかし、身体がなければ嫌な接触もないからそこは完全に苦しみが滅した涅槃界であるということだけは思ってよさそうです。涅槃に関する考察は車の教習所の教官のように「そうじゃない。こっちじゃない。ここを走れ。ここで止まれ。そっちは進入禁止だ。おい、赤だぞ(ブレーキ踏まれる)」と原始仏典に指示されているような感じです。涅槃について考察すればするほど「これも無記。あれも無記。走れるところは八正道だけ」となるはずです。なるほど確かに人生の交通安全というのは八正道の標識に忠実に従うことだけです。結局のところ色々と疑問は残りますが、


  「如来の死後は神々も人々も誰も見ない」


これが堅実です。




・六触処の滅
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