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原始仏教コミュの原始仏教の根本哲学

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原始仏教の根本的な考え方。







     1.根本事実   現実主義  
     2.根本方針   実利主義  
     3.根本定義   利害善悪楽苦  
     4.暫定方針   堅実主義    
     5.思想統制   賢人七思
     6.努力原因   利観
     7.まとめ











1.根本事実   「現実主義」


    「この現実を徹底的に尊重する」

        ← 自帰依・法帰依の四念処





2.根本方針   「実利主義」

 
    「自分の利益を追求し続ける」

        ← 自己より愛しいものなし


 


3.根本定義   「利害善悪楽苦」


   利益  = 何かしら善いもの・結果的に楽となるもの [利]
   不利益 = 何かしら悪いもの・結果的に苦となるもの [害]
  
   善   = 何かしら利益となるもの ・結果的に楽となるもの
   悪   = 何かしら不利益となるもの・結果的に苦となるもの

   楽   = 心にしろ身体にしろ何であれ楽に感じること
   苦   = 心にしろ身体にしろ何であれ苦に感じること

     結果的に楽となるもの → 利益とみなす ・善とみなす
     結果的に苦となるもの → 不利益とみなす・悪とみなす


      最高利益 = 苦滅・輪廻超越・不死・貪尽瞋尽癡尽・涅槃 
      最高善  = 苦滅・輪廻超越・不死・貪尽瞋尽癡尽・涅槃
      最高楽  = 苦滅・輪廻超越・不死・貪尽瞋尽癡尽・涅槃





4.暫定方針   「堅実主義」

   1 死後の世界

   死後の世界がない → 自堕落であるのが利益となる
   死後の世界がある → 建設的であるのが利益となる
  
     暫定方針:死後の世界がないときはいいが
          あったときに困るので建設的態度を採用
          可及的に死後の世界の有無を自ら確認すべき




   2 業の報い

   業の報いがない  → 極悪非道であるのが利益となる
   業の報いがある  → 善人であるのが利益となる
   
     暫定方針:業の報いがないときはいいが
          あったときに困るので善人案を採用
          可及的に業の報いの有無を自ら確認すべき




   3 輪廻超越

   輪廻超越がない  → 執着して楽しむのが利益となる
   輪廻超越がある  → 執着せず喜ばないのが利益となる
   
     暫定方針:輪廻超越がないときはいいが
          あったときに困るので無執着案を採用
          可及的に輪廻超越の有無を自ら確認すべき






5.思想統制   「賢人七思」


    1 自己を害することを思わず   
    2 他者を害することを思わず  
    3 両者を害することを思わず  
    4 自己の利益を思い      
    5 他者の利益を思い    
    6 両者の利益を思い   
    7 全世界の利益を思う 
      → 賢者・大慧者
             
      三無害   自無害・他無害・倶無害
      四利観   自利・他利・倶利・全世界利





6.努力原因   「利観」

  1 善
   善を修せ  → 善増大 → 楽増大 → 自利

  2 善悪
   悪を断て  → 悪減少 → 苦減少 → 自利
   善を修せ  → 善増大 → 楽増大 → 自利

  3 四正勤
   悪を生じさせるな → 悪不生 → 苦不生 → 自利
   悪を断て     → 悪減少 → 苦減少 → 自利
   善を修せ     → 善増大 → 楽増大 → 自利
   善を完成させよ  → 善完成 → 楽完成 → 自利


  4 利を信じる

    〔悪循環〕
     「自利が大事」と人から聞かない また 「自利が大事」と自分でも考えない
    →「自利が大事」と知らない
    →「何が自利か」と人に聞かない また 「何が自利か」と自分で考えない

    →「これは自利だ」と人から聞かない また 「これは自利だと」自分で考えない
    →「これは自利だ」と信じない
    → 意欲が生じない
    → 努力しない
    → 達成しない
    → 結果が確認できない
     →「これは自利だ」と知らないままになる
     →信じれないままになる
     →意欲が生じないままになる
     →努力しないままになる
     →達成しないままになる
     →結果が確認できないままになる・・・繰り返し → 自分の利益は増大しない

    〔善循環〕
     「自利が大事」と人から聞く あるいは 「自利が大事」と自分で考える
    →「自利が大事」と知る
    →「何が自利か」と人に聞く あるいは 「何が自利か」と自分で考える

    →「これは自利だ」と人から聞く あるいは 「これは自利だと」自分で考える
    →「これは自利だ」と信じる
    → 意欲が生じる
    → 努力する
    → 達成する
    → 結果を確認する
     →「これは自利だ」と知る
     →さらに信じる
     →さらに意欲が生じる
     →さらに努力する
     →さらに達成する
     →さらに結果確認する・・・繰り返し → 自分の利益は増大する


  5 二法

   善法不満足   善に満足しなければ無限に意欲が湧く
          →「利益に満足しない」という大利益をマスター
   精勤不退転   努力をやめなければ無限に進歩できる
          →「利益を得るまで努力をやめない」という大利益をマスター











1.根本精神    現実主義

誰にとってもこの現実は否定しても否定しても否定できないものです。ゴータマはこれを「自帰依・法帰依」として繰り返し説いています。自帰依・法帰依はいたずらに自らに頼るのでもなく、誰かの教えをありがたがることでもありません。原始仏典に書いてある通り、それは四念処のことです。四念処とは現実を認識するための自覚修行法に他なりません。内と外の現実を現実の通りに知るために四念処の修行があります。

身体を念じて現実の身体を知り、感受を念じて現実の感受を知り、心を念じて現実の心を知り、法を念じて現実の法を知ります。法とは、現実に内にあるものも法であり、現実に外にあるものも法です。従って、法とは現実そのもののことです。誰もが現実を認識するときは必ず四念処のいずれかを意識的にしろ無意識的にしろ念じています。現在の現実のみならず、念が一切ないならば現実を1ミリとして認識することはできません。必ず念があり、意志があるからこそ現実を認識でき、自覚できます。この現実を尊重しこの現実に帰依するということは、全ての人にとって人生の基本前提であり、苦滅を目指す者にとっても最も重要な修行です。現実に対応していないもの一切は必ず空しくなります。この現実を最高のものとして徹底的に尊重することによって、他者に頼らずに自分で確認して生きていくことが可能になります。




2.根本方針    実利主義

大多数の人は楽を求め苦を嫌います。楽受を受けている意識はそれを喜ぶものであり、苦受を受けている意識はそれを嫌うものだからです。しかし、苦行を愛好する人は苦を求め楽を嫌います。それは楽を悪と信じているゆえに楽受への嫌悪感が確立しそれから遠ざかろうとするからです。また苦を善と信じるゆえに苦受への嫌悪感を克服するからです。しかし、楽を求める人も苦を求める人もいずれも「こうすればいいだろう」と信じて行動します。信じなければそのように行動することはありません。またたとえ、意図的に理不尽に行動する人がいたとしてもいつまでも不利益と苦受を受け続けることに対して意識が抵抗し続けることは限りなく困難です。不利益と苦受は善いものだと信じ続ける原因が枯渇するからです。

結局人は、また全ての意識は、自分の利益を求めざるをえない状況に引き戻されます。自分の不利益になることを繰り返し行えば、苦が増大し、苦が耐えきれなくなったときには「これに何の意味があるのか」と自問自答せざるを得なくなるからです。ゆえに、目標を定めずに困惑して人生を送ることはいたずらに時を浪費すると見て、意図的に自覚的に「自分の利益を追求する」という方針を持つことによってその方針を持たない人よりも早く、また莫大な利益を獲得することが可能になります。より一層自分の方法を信じ、検証するために実行に移すことが多くなるからです。

自分自身を捨て去ることはできないと見て、この現実を受け入れるならば、その意識は「自己の利益を追求せざるを得ない」ということに同意するのに十分な原因を蓄積したものとなります。彼は今後永遠に「自己の利益を追求し続けます」。しかも無我であるということを認識しているならば、より一層利益ある態度です。

利益とは単に儲けや財産を意味するのみならず、「結果的に楽になるものならば全て利益」です。容姿のよさや寿命や健康、友人、家族や地位や名誉、心の智慧と強靭な意志力と知識の豊富さと深く鋭い洞察力、いずれにしろ「結果的に楽になるものならば全て利益」です。そしてその利益は一つだけでなく非常に多くあります。これらの利益を時と場合に応じてフルに獲得していくのが利益ある生き方です。その一切利益中、最高の利益がすなわち苦滅・涅槃です。これを「善利」「善義」とも言います。

「自己より愛しいものは存在しない」とゴータマが語ったように、誰もが自分の利益を意識的にしろ無意識的にしろ、すでに求めています。これを自覚的に根本方針として据えることが生ける者にとってさらに利益あることです。自覚の知はこのように大きな利益をもたらします。この生き方を知って間もない人は「自分の利益を中心に自分の全人格と全方法論を組み立て直す作業」をすると大きな利益をもたらします。自己の総点検によって自己矛盾が解消されるからです。




3.根本定義   利害善悪楽苦

現実を尊重し、利益を追求することは、原始仏教に限らず全ての人間が意識的にしろ無意識的にしろすでに行なっていることです。凡夫と聖者の差異は、凡夫が善いと考えた一部のことを聖者は悪いと考えます。それが欲楽や渇愛です。また凡夫が悪いと考える一部のことを聖者は善いと考えます。それが無欲楽や滅楽です。これら善と悪、利益と不利益、楽と苦に関する見解の相違が凡夫と聖者の相違です。

しかし、両者双方とも「結果的に楽であるもの」を利益とし善とせざるを得ません。また「結果的に苦であるもの」を不利益とし悪とせざるを得ません。それは結果が出て検証されたときにのみ確定されます。それまでは道理によって考えられたことを信じているだけです。しかし、未来への一切は信じるからこそ実行に移せるものであり、誰であっても信じないかぎりはいかなる実行もできません。賢者はそれを事前に知恵によって考察することによって、より利益があり、善とされる方を信じて選択します。知恵があればより確実な方を信じることができます。確かに程度問題では凡夫も賢者も同じですが、最高善・最高利益・最高楽を涅槃・輪廻超越と知っていること、これが決定的な差異となります。凡夫にとっては流れに入るに十分な知恵を事前に準備できるかどうかが勝負になります。




4.暫定方針   堅実主義

超能力が生じるまでは死後の世界と業の報いは確認できません。また漏尽に達するまでは不死を確認できません。確認できない段階で対処しなければいけない場合、最悪の場合を想定して行動を取るのが基本です。堅実に生きて行くのが一か八かに出るよりも利益がある生き方です。

特に業の報いを信じることは「善人の命」です。業の報いを信じない階層は広く天界にまでわたっており、不死の領域を信じることと同様に神々にとっても非常に困難なことです。業の報いを完全に信じ切った人間は善人として大成します。しかし、業の報いはいずれ必ず自らの天眼通によって実証されなければいけません。単なる信はすべからく確認されなければ堅実・安心・安定という利益に達することができないからです。




5.思想統制   賢人七思

人はそれぞれの「基本思考」とも言うべきルーチンを持っています。頭の中で自然に「誰かに話しかけたり誰かに行動をしているような繰り返されるいつもの考え」です。これを自覚している人は少ないですが、そういう基本思考をそれぞれの人が持っています。これを統制し、制御し、より利益ある基本思考、思考ルーチンを獲得するために推奨されるのが「賢人七思」です。これはゴータマが黙想に入るとき常に念頭に置いていたものであると原始仏典に書いてあります。この賢人七思(僕の造語ですが)、これを基本思考とするならば、ほかっておいてもその繰り返し生じる自己意識は自動的に自分の利益を増大するようになります。

基本思考は過去の行・過去の業に過ぎませんので、時間はかかりますが現在の基本思考を別の基本思考に替えることは十分可能なことです。しかしこの作業の前に自分がいつも考えてしまっているパターンを自覚することが先になります。基本思考はある程度確立すると、慣性の法則のように惰性で動き始めますので、賢者の思いについては自分の利益について無理に努力しなくとも勝手に自分で自利を考え始めてしまうので楽に進歩と利益追求をすることが可能になります。




6.努力原因   利観

人が努力する原因は「これは自分の利益になる」と考えるからです。これ以外の原因はありません。言葉で考えるにしろ言葉で考えないにしろ「何かを信じる」から人は実行に移します。信じれないことに対して実行に移すことはありません。信じて実行してきたことが不利益であることが明らかになり始めると人はそれを信じなくなります。逆に信じて実行してきたことが利益であることが確認されるとさらにその方法論を信じるようになります。利益があることを信じていない人は、何らかの情報を五感から仕入れるか人から教えられるかして価値観が転換されるとそれを信じるようになります。

「自利を観じることによってのみ不放逸となるに足りる。他利を観じることによってのみ不放逸となるに足りる。倶利を観じることによってのみ不放逸となるに足りる」と原始仏典に書いてある通りです。信じるゆえに努力します。知っているならばより一層信じて努力します。五根でも先に善を信じる信根が来て、次に精進根が来ます。正見があるからこそ正精進が生じます。邪見の分は邪精進が生じます。ゆえに自己のうちにある正見部分をさらに増大させていくことが楽に進歩する道です。法察覚支の次に精進覚支が来るのも同様です。「これは自分の利益になる」という思考が努力を生じさせます。努力があれば利益があります。利益があれば楽が増大します。「やはりこれは楽になる」という知、経験がさらなる確信を結果し、さらなる確信を原因としてさらなる努力が結果されます。この繰り返しが聖八支道のルーチンの一部です。




7.まとめ

以上のことは原始仏典に書いてあることを僕なりに咀嚼して、根本的と考えられることをまとめて書いたものです。ある程度書いてから置いておいたのですが、加筆も煩わしくなったので不完全ですが再編集の予定もないので書き込むことにしました。

もとより原始仏教を含め一切の宗教、一切の人生哲学は単なる一宗一派の教えと取られるべきではありません。全ての思想、全ての生き方、全ての学問というものはすべからくこの現実に対応していなければ、たちまち空しいものとなります。全宗教思想から現実に有効であり有用であるものを換骨奪胎して自らのものとして、それらはフル活用してこの現実に対して注意深く千変万化の対応をしていくところに知恵と力を求める存在者としての意義があります。

それゆえに原始仏教のみならず一切の宗教は一宗一派を選んで信じるからどうだという問題ではありません。求道において宗派は関係ありません。心と知恵を無制限に使って、この現実をさらに深く認識し、この現実をさらに大きく動かす力を獲得する。そして、この知とこの力を全知全能を理想として高め続けて行く無限の道程です。原始仏教はその過程においてまず苦滅を最優先事項とするものです。

ゴータマは何かしら善を求めて出家しました。同様に、今はまだどこに向かうかわからないとしても、全て求道と修行は何かしら善を求めて行なうものです。「善への信」、これは人生を善へと転じる根本であり最初のものです。善への信を原因として諸々の求道と修行の一切は転じ始めます。全て一切善法は善意より生じると書いてある通りです。

「現実を尊重すること」、これこそ真の誠実です。そして、この現実という聖書を読み解くものこそが、最高賢者とされるに相応しい。それならば、この現実という聖典を読み解くための努力を続けている者、彼こそ賢者の卵です。そして現実を知る者は現実を変える方途を獲得するのであり、現実を変える方途を獲得したものこそが三十七道という最高修行道を設定し提示できます。

ゴータマのその偉大さと賢者としての徹底した在り方において敬意を表さざるを得ません。いや、原始仏教の教えの一部でも理解する人はゴータマに敬礼せざるを得ないでしょう。いわんや一部を実践して実際に福楽の恩恵に浴した者にあっては最敬礼をしないわけにはいかないはずです。誠実な人・心ある人にとって流れに入ることは困難なことではないと思います。真実への誠実という原因あるがゆえに。




・・・・・・とにかく現実が大事ということです。

コメント(2)

有罪と無罪に関してはその判断が非常に難しいです。自殺はその一つです。僕は一切の自殺が有罪であるとは考えていません。自殺している阿羅漢が一人ならずいるからです。

僕は他者を悲しませ、不愉快にさせることが全て有罪だとは考えません。ゴータマはデーヴァダッタを不快にし、他宗派の人々の信者を取ることにより他宗派の師たちに嫌われています。しかし、ゴータマが彼らを不愉快にし不利益を与えているにも関わらず、ゴータマは無罪です。なぜなら、ゴータマの身体・言葉・心の行ないは他者を傷つけてはいず、逆に彼らが生じた現実に対して、嫉妬と不快を露わにして苦しんでいるからです。

同様に自殺において親族が悲しんだとしてもそれは、彼らの執着によって彼らが勝手に苦しんでいることです。家族を養わずに自殺するのは有罪だと考える人がいる場合、その人は「私は家族を養わなければいけない。私は家族を養わなければいけない」と考えることになります。僕はあらゆる人間には一切の義務が存在しないことを認めます。ただ欲する人が悪業の報いを怖れて悪業を断てばよいと考えます。

多くの自殺が罪とされるのは、ほとんどの自殺が動機は何であれ結果的に自己に不利益を与える場合が多いからだと思います。つまり、死後本人が餓鬼境に転生するなどして結果的に後悔して自殺した自己を責める結果が多いということです。加えて親族にも不利益を与えるがゆえにより一層罪悪感を増大します。

有罪・無罪の判断でもっとも難しいことは、その判断が自分自身を裁くことになるという業の報いを生むというところです。「国に尽くすのは義務であり、国に尽くさないのは有罪である」という価値観を持つ人の場合、その人自身が「私は国に尽くさなければ有罪となる。今、私は国に尽くしていない。だから私は有罪だ。だから私は国に尽くさなければいけない。有罪になるから」という義務感に駆られます。

人を裁くように自分も裁かれます。有罪と無罪の判定は非常に難しいにも関わらず、安易に裁きを行なうのは、自己にとって不利益なことです。熟慮が必要ですし、判断の際には律蔵がよき参照になります。

破門の罪であるパーラージカについてはまとまってきたので、そのうちアップすると思います。


「生きることは素晴らしい」と確かによく言われます。しかし正しくは「善く生きることは素晴らしいが、悪く生きることは素晴らしくない」というのが正しいと思います。そして、善く生きるとは三善行を行なうことであり、悪く生きること三悪行を行なうことであり、前者を増大し、後者を減少し最終的に無とするのが、素晴らしい生き方だと思います。


最近は原始仏教と原始仏教外の現実の擦り合わせを行なっています。こうすることで、原始仏教を知る前の自分と知った後の自分、教えの中の自分と教えの外の自分をより一層統合することができるからです。そうすると「解脱しなきゃいけないのに、さぼってる」という圧迫感やプレッシャーをさらに微細に分解して無駄な後悔を削除することができます。

ある修行は欲楽の獲得と聖楽の獲得の両方に資するものです。五感の快楽が悪であるということがどうしても納得できない方の場合、五感の快楽が悪であるかどうかは保留しておいて、慈心を徹底的に修することをおすすめします。僕もまたそうしています。これは一石二鳥であり、疑蓋を断って集中に達する思考法です。手堅いから疑いが断たれるわけです。

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