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原始仏教コミュの貧しい人への福音

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貧しい人への天界転生法の教えです。





相応部経典>1 有偈篇>第12 サッカ相応>第二品

「   第四 貧しい人

260.あるとき先生はラージャガハのヴェール林、カランダカニヴァーパ(リスの飼養所)に住んでいた。
 ときに先生は比丘たちに「比丘たちよ」と呼びかけた。その比丘たちは「先生」と先生に応えた。先生はこう言った。

 比丘たちよ、以前に一人の男がこのラージャガハにいたが、貧しい人であり、貧乏人であり、惨めな境遇の者だった。
 彼は如来が説いた法と律における信を持ち、戒を持ち、聞(教えの知識)を持ち、布施を持ち、智慧を持っていた。
 彼は如来が説いた法と律における信を持ち、戒を持ち、聞を持ち、布施を持ち、智慧を持っていたので、身が破れて死んだ後に善趣・天界である三十三天の神々の仲間に転生した。
 彼は容姿の美しさと名誉において他の神々を超えて輝いていた。

 比丘たちよ、そのとき三十三天の神々は不満を持ち、不機嫌になり、悪く言った。
「友よ、不思議だ。友よ、ありえないことだ。
 この神の子は以前に人間だった頃、貧しい人であり、貧乏人であり、惨めな境遇の者だった。
 しかし彼は身が破れて死んだ後に善趣・天界である三十三天の神々の仲間に転生した。
 そして彼は容姿の美しさと名誉において他の神々を超えて輝いている」

 比丘たちよ、神々の王サッカは三十三天の神々に呼びかけた。
「友らよ、あなたたちはこの神の子に不満を持ってはならない。
 友らよ、この神の子は以前に人間だった頃、如来が説いた法と律における信を持ち、戒を持ち、聞を持ち、布施を持ち、智慧を持っていた。
 彼は如来が説いた法と律における信を持ち、戒を持ち、聞を持ち、布施を持ち、智慧を持っていたので、身が破れて死んだ後に善趣・天界である三十三天の神々の仲間に転生した。
 そして彼は容姿の美しさと名誉において他の神々を超えて輝いている」
 比丘たちよ、そうして神々の王サッカは三十三天の神々をなだめたその時にこのガーターを説いた。

  如来への信が 不動で善く確立していて
  戒も善いならば その者を聖者は愛し賞賛する
  サンガへの喜びと 真っ直ぐな見解があるならば
  彼は「貧しくはない」と言われ 彼の生活は空しくはない
  それゆえ信と戒と ダンマを見ることを喜んで
  ブッダの教えを念じつつ 賢い者は実践しなさい」

   『ブッダ悪魔との対話』岩波文庫 P279−281  に相当










色界 ブラフマー
欲界 パラニンミタ・ヴァサヴァッティ天
   ニンマーナラティ天
   トゥシタ天
   ヤーマ天
   三十三天 ←ココに転生   
   四大王天  ↑
   人間   →
   

「貧しい人でも三十三天の神々の仲間に転生できる」という福音です。これを主題にした経典は原始仏典の中ではこの経典が最高の経典です。他にも「闇から光に行く人」などの転生の教えはありますが、具体例として一人の人間をあげるのはこの経だけです。この原始仏典の記述がもし真実であれば、社会的に立場が悪い人でも希望が持てると思います。




天界への転生条件である「如来が説いた法・律における信・戒・聞・施・慧」は以下の五財です。


  五財:信財・戒財・聞財・施財・慧財

1.信財
「ここに信がある聖なる弟子がいて、如来の悟りを信じる。このようにあの先生は、阿羅漢・正覚者・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・ブッダ・先生である、と」
 →ゴータマを信じていればそれでいい

2.戒財
「ここに聖なる弟子がいて、殺生を離れ、不与取を離れ、邪淫を離れ、虚言を離れ、穀酒・木酒・酒精の放逸処から離れる」
 →五戒を守っていればそれでいい

3.聞財
「ここに多聞の聖なる弟子がいて、聞いたことを持ち、聞いたことを積集し、始め善く・中も善く・終わりも善い法にして、意義あり文ある純一円満で清浄な梵行を明らかにするこのような諸法を、彼は多く聞き、持ち、言葉によって熟達し、意によって思惟し、見解によってよく通達する」
 →原始仏典を読んで覚えて理解すればそれでいい。

4.施財
ここに聖なる弟子がいて、物惜しみの垢・汚れを離れた心をもって家で暮らし、常に施し、自らの手で施し、捨を喜び、請いに応じ、布施を広げることを喜ぶ」
 →喜んで寄付していればそれでいい。

5.慧財
ここに慧を具えた聖なる弟子がいて、慧を具え、聖なる・解明する正しく苦尽に導く生滅を知る智慧を成就する」
 →四諦をいくらか考察すればそれでいい。




以下、自問自答してみれば自分の状態がわかると思います。

信財:「自分はゴータマを信じているだろうか」       →〔 〕
戒財:「自分は五戒を守っているだろうか」         →〔 〕
聞財:「自分は原始仏典を読んで覚えて理解しているだろうか」→〔 〕
施財:「自分は喜んでケチらずに寄付しているだろうか」   →〔 〕  
慧財:「自分は四諦をある程度考察しただろうか」      →〔 〕


◎をつけることができたならば、そして原始仏典の記述が現実に対応していて真実ならば死後は神に転生できるはずです。◎をつけることができないならば、普通の霊界に行くと思います。「今自分が死んだらどこへ行くか」とイメージしてみると利益が多いと思います。




現在の境遇がどんなに厳しい状態でも「死後の世界はある。仮に無いとしても無になるから問題ない。もし死後の世界もあり転生もあり業の報いもあるならば、自分が今こんな状態なのは過去の悪業の報いも大きな原因であり、修行が足りないからこんなことになっているという面もある。よし、死後はよいところに行き、再び現世に転生するときは容姿が良く、金持ちで、才能もある人間としてスタートするために、その準備を今から始めよう」と決意すると希望が持てると思います。

コメント(9)

全ての友は去ります。


家族も友人も恋人も守護霊他の非人たちも。ゴータマからサーリプッタやモッガーラナが去り、アーナンダをはじめとする弟子たちからゴータマが去ったように。原始仏典において「死にゆくものにとっての友とは福である」と書いてあったと思います。福を為した分が人の心を動かし、その分が友情に転じると見れば、友とは即ち三慈行の内にあるものです。

ですから、友とは継続し長続きする人間関係や異性関係や家族関係を意味するのではなく、友とは福の分に応じて生じた友好度の量です。このように見ることによって別れを悲しまず、孤独であっても寂しがらず、友を欲する分だけは慈心を修するなり他の三慈行を行ないます。友の生と滅においての知を得れば、別れも孤独も悲しみではありません。そして友を生じさせるための力である三慈行や四無量や四摂事を修めたならば、欲する分だけ福を為せばそこに友がいます。異性関係も友に同じ。福の分に応じて愛があります。

友に関する滅の知と友を生じさせる力、これがあればあらゆる人間関係の執着を断ち、同時にあらゆる存在との友好を結ぶ道を欲するがままに歩めるようになると思います。人は孤独が基本であり、福を為した分は人とつながれるけれど、しかしそれもまた無常であり、友好度を維持する業をやめればまた関係は途絶え行くものと見ます。


今は孤独であっても千載に一遇を求める気合いで友を求めて行こうとするならば、この無量の空間に慈しみを広げる心の行為は、新たなる友情に資するものと思います。加えて、自分を楽しもうと思うならば、友や異性はそのときは邪魔であるがゆえに、孤独の欠点ばかりでなく利点をもよく見ることが大切だと思います。

友情は爽やかなように見え、恋愛は甘いように見えますが、孤独のうちにおいてはじめて初禅以上の静止の安楽があるように思います。完全なる孤独である無色界の瞑想を目指す者において、寂しく一人でぽつねんといるということはその似姿であり、禅定の素地になるものと思います。


聖なる五財は友を得る道を備えるのと同時に、友を失ったときの悲しみを滅する道をも備えています。社会的に惨めな境遇であっても「では本当に世間的な考えでなく、真実の意味で自分という存在は惨めなのか」と考えることは自尊心の維持において重要だと思います。社会的な立場という事実現実とそれとは別の聖なる五財の蓄積量や五力のレベルが自分にどれぐらいあるかという事実現実の自覚。それは内における法を念じる法念処の修習の一環ともなり、それを原因として生じる結果の修習にもなります。この作業は現実を通じて自分の事実と真実に肉薄し、結果として自分の誇りを保つ原因の構築につながります。

絶望は絶望を生じさせるような見解から生じ、希望もまた希望を生じさせるような見解から生じます。自分を現実に真実に正しく評価すれば、拳に力が入ることがわかります。自分の腕に力を入れれば、本当に力が湧いてきます。念と自覚とはそのような相互作用があります。僕は元気を出したかったり、自信を取り戻したかったり、勇気を出したいときは、自分の右腕を見ながら、拳を握って腕に力を入れます。そこに自分の努力の余地と意志の力の確認があるからです。そのときは「諦めるにはまだ早い」と思います。


「自分ならこの難局を必ず乗り切れるはずだ」と思えば、眼は信力に燃え、腕は精進力に漲り、呼吸と五感に注意は注がれ、心は集中し、必ず内界と外界双方の現状の正確な把握と適切な三行の行使につながると思います。そして実際に難局を乗り切ります。いざというときには人は自らの内に漲る強靭な意志力より他には何も頼るべきものはないように思います。自らに帰依せよとは即ち四念処。強靭な意志力は身と受と心と法に向けられた正確無比な自覚力とともにあるものです。一旦決意されれば動き出した強靭な意志は難局を打破するまではもはや決して止みません。

腕に全力で力を入れれば激動に震えます。腕とともに心も激動に震えても決して力を入れることをやめないように、悪不善法を滅するまではこの怒りにも似た激烈なる意志は止むことを知りません。


というふうに在れれば僕には理想です。
少し前に身内の不幸がありました。


人が死んではじめてこれだけの悲しみに打たれましたが、「抜憂箭の法門」は確かに悲しみを和らげたように思います。増支部五集にあります。「あらゆる生ける者は老い・病み・死に・尽き・滅す」の五法について述べたものです。「この人だけが死ぬのではない。今生きている人はみんな死ぬ」、繰り返しそう考えることによって故人に対してさらなる執着を追加することはなくなり、執着が尽きるとともに悲しみも尽き、悲しみが尽きるとともに涙も尽きました。今は精神状態もだいぶ回復しました。

両親が死んだときはもっとショックかも知れません。「お気を落とさずに」と言いますが、今回はさすがに気を落としました。思い出すと溜め息をついています。故人が愛用していたカップとソーサーも悲しいかな、今では僕が使っています。無常を知っていても以前に愛情を受けた際に防御が出来ずに喜べば、すでにそこに執着は形成されているわけですから今すぐ急に執着を断ち切って悲しみが消えるということはありません。「明日解脱しよう」と思ってもすでに形成した執着を断つ力は一日では手に入りません。毎日の修行が肝要なところです。その人から愛情を受けた分がその人がいなくなったときの悲しみとなります。人の三慈行を受ける際に無常を見なければ。

「何が本当の◎◎孝行か」と思えばいたずらに悲しむのは故人が望むことではないので、気持ちを未来に向けて故人に対しては供養を懇ろにし、自分の生活を前向きに目標に向けて立て直していくことが大事だと思いました。故人の気持ちを受け取って自分の明日に生かそうと思います。別れの悲しみは自分勝手なものだと思います。死んだ本人は老いて病んだ最悪の肉体から解放されて楽になったと思われるのに。ただこちら側から認識できないというのが残された人の悲しみを生むのだと思います。明日は我が身と思えば念死の修行にもなります。努力量と後悔の量は反比例のような関係になるかも知れません。死ぬまでに後悔しない分の努力はしておきたいです。

今年は身内が二人亡くなりました。時代は大きくうねりをあげる。祖父母が四人ともいなくなって色々と考えさせられます。みな亡くなる前は僕のことを最後まで心配していました。当時は高校を中退していたり、今は会社を辞めていたり。僕も好きで今の状況にいるわけではないし、家門を汚すためにこんなことをしているわけでもないのですが。ただ放蕩息子のご帰還はまだまだ先、というよりも「還らず」になるのかも知れません。二つの遺産相続もおいおい進んで行くと思います。今は修行に精を出そうと思っています。

家族や親族や友人がいなくなるということは一つの貧しさかも知れません。財産の損失・名誉の損失・親族の損失・友人の損失・健康の損失など。現状の僕は財産も少なく、世間体も悪く、体調もまだ万全ではないですが、聖なる七つの財産である信戒慚愧聞施慧はある程度あります。その聖なる財産が今後僕の人生をどのように運んで行くのか僕自身が注視していきたいと思っています。

人生は命がけで行なう大いなる実験であるのかも知れません。自分自身が実験台であると同時に実験者であるような。ただ人によりその実験のリスクの高低という差があるだけだと思います。誰も今の自分のこのやり方で絶対に今後の人生万事うまく行くと断言できる人はいないと思います。人はただ自分のやり方、実験法を今は漸次的なものとして信じて生きるだけです。今は色々な意味で貧しくとも、自分は美徳と善法という宝石の蒐集家でありたいと及ばずながらも思っています。
大変でしたね。身内のご不幸はこたえるものがあったかと思います。

いつも陰ながら応援しています。真実に気づけますように。
応援ありがとうございます。粘り強く行こうと思います。
今日、というか昨日は仕事納めということで、働いてくださっている方々には一年間お仕事お疲れ様でしたという気持ちです。家事手伝いや子育てをしている方々も。あと無職でも一瞬でも慈心を修している人も。世間を通じて僕もみなさんから利益を得ていると思うので。


今年も残りわずかですが、みなさんの年末年始が善いものとなるよう念じています。
進路は悩みだと思います。

おすすめは「本当の気持ち」を念じて知ることです。心念処の修習の一部にもなります。「本当の気持ち、本当の気持ち」と風呂でも寝る前でも念じた分だけは本当の気持ちが知れます。本当の気持ちがわかれば方向性も決まって来ます。

「今の暮らしを維持する」というのも手堅くておすすめです。

「本当の気持ち、本当の気持ち」と繰り返し念じてみてください。10分ぐらい。何かが出て来ると思います。続ければ続けるほど本当にやりたいことが見えてくると思います。

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