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原始仏教コミュの圧倒的に堅実な生き方

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圧倒的に堅実な生き方というトピックタイトルは少し大仰だと自分でも思います。




1.死後の世界があってもなくても
2.業の相続があってもなくても
3.輪廻の超越があってもなくても
4.四諦という最高究極のアイデア




1.死後の世界があってもなくても

もし、死後の世界がないなら、ゴータマもイエスも善人も悪人も努力した人も怠けた人も死んで無になりますので、こうなります。「もし死後の世界がないなら、修行する必要は一切ない。なぜか。全部、無になるから」。

もし、死後の世界があるなら、努力をして力を得る必要があります。仮に死後の世界がこの世界と同じで弱肉強食の考え方が優勢な世界であったとしても努力をして力を得る必要があります。なぜなら、無力な者は他者に圧倒されて敗北を味わうことになるからです。従って、こうなります。「もし死後の世界があるなら、努力をして力を得る必要がある。なぜか。人生に続きがあるなら、事前に力を獲得しておいた方が有利だから」。

現在、超能力や霊能力がない人には、死後の世界が有るか無いかわかりません。その場合、こう考えます。「もし死後の世界がなかった場合は、全部無になるから努力はしなくていい。しかし、もし死後の世界があった場合は、全部無にはならないから努力した方がいい。仮に努力をして無駄に苦労して結果、死後の世界はなかったとしても、どうせ無になるからそれは苦しくないし、無駄に努力したという後悔もない。一方、努力をして苦労して結果、死後の世界があった場合は、力を獲得していたことによって人よりも有利である」と考えて、「死後の世界が有ると仮定して、努力を続ける方が賢明である。死後の世界が無いと仮定して、自堕落に考えなしに生活するのは賢明ではない」と結論します。



2.業の相続があってもなくても

もし、善業を為せば善い報いを必ず相続し、悪業を為せば悪い報いを必ず相続するという法則がこの世界になく、因果応報を説く「業理論」は嘘であるとするならば、こうなります。「もし業を必ず相続するということがないならば、限りなく人を騙して、人を利用し、人を搾取し、他者が有利にならないようにし、どんなに汚い手を使ってでも、絶対的に自分の保身を成し遂げた方がよい」。

もし、自分の行為は必ず相続するという「業理論」が真実であるならば、こうなります。「もし業を必ず相続しなければならないならば、自分が傷つかない程度に、余力があれば人に利益を与えた方がよい。彼が自分に利益を与えることができなくても、こちらが善いことをしてあげた方がよい。なぜか。その善業を自分は必ず相続するだろうから」。

現在、超能力や霊能力がない人には、業論が真実がどうか確かめることができません。その場合、こう考えます。「もし業を相続することがないならば、悪事をやめる必要はなく、善事を為す必要もない。しかし、もし業を相続することがあるならば、悪事をやめる必要があり、善事を為す必要がある。仮に悪事をやめて善事を為して結果、業を相続することがなかった場合でも善人は恩を返してくれるだろうし、悪人も自分に恩恵を施してくれる人間はしばらく泳がせてあえて潰さないようにしようと考えるに違いない。最悪、不幸を蒙るとしてもそれは世間的な損得と自分の肉体に関わるところまでのこと。自分は自分の心を守ろう。あるいは二三回転生しても業を相続するという事実が確認されず、超能力を獲得してもなおその事実が確認できなかったときは方向を転換すればいい。一方、悪事をやめて善事を為して結果、業を相続することがあった場合は、自分に悪が為されないという報いを相続し、自分に善が為されるという報いも相続して、幸福だろう」と考えて、「自分が為した行為は必ず相続すると仮定して、悪事をやめて善事を為す方が賢明である。自分が為した行為は必ず相続しないと仮定し、悪事を続け善事を為さない暮らしを続けるのは賢明ではない」と結論します。



3.輪廻の超越があってもなくても

もし、輪廻の超越も苦しみの消滅もないなら「生ける者は永遠に輪廻し、堕落したり進歩したりしながら、結局は同じことの繰り返しだから、同じことになるなら、そうだ、適当に怠けていよう」となります。

もし、輪廻の超越も苦しみの消滅もあるなら「生ける者は永遠に同じことの繰り返しではない。堕落は終わり、進歩だけになる。苦しみは終わり、楽しいことだけになる。それならば、努力をしよう」となります。

現在、輪廻の原因と苦しみの原因を実際に現実の通りに知らない人はそれが事実かどうか確認することができません。その場合、こう考えます。「もし不死がないなら、永劫回帰だからどうでもいい。もし不死があるなら、永劫回帰じゃないからどうでもよくない。しかし、自分は不死があるのかないのか知らない。よし、少なくとも輪廻の超越なる不死、苦しみの消滅なる涅槃があるのか無いのかはっきり明確に知ることができるまで、努力し修行をしよう。もしないならゆっくりしよう。もしあるならそのときはより一層の精進をしよう。最後の戦いになるだろうから」と考えて、「不死の境地を求めて修行する方が賢明である。不死の境地があるかないかわからないけど、別に不死はいらないとゆっくりしている暮らしは賢明ではない」と結論します。



4.四諦という最高究極のアイデア

ゴータマ・シッダッタは「私は苦しみと苦しみの消滅を説く」と自称し、四つの聖なる真実を説きます。

 第一の聖なる真実として「苦しみという聖なる真実」。
 第二の聖なる真実として「苦しみの原因という聖なる真実」。
 第三の聖なる真実として「苦しみの消滅という聖なる真実」。
 第四の聖なる真実として「苦しみの消滅に行く道という聖なる真実」。

教科書通りの回答で言えば、「苦は執着しているもの全て。苦因は渇愛。苦滅は渇愛の滅尽。苦滅道は八正道」となります。しかし、「私は知らない。私はまだそれに納得できない。私はまだその回答に確信が持てない」というのは道理です。従って、教科書通りの回答を保留して賢明な人はこう考えます。

「苦しみについて考え続けば、いずれ私は苦しみに通達し、苦しみを知り尽くし、苦しみをマスターするだろう。
 苦因について考え続けば、いずれ私は苦因に通達し、苦因を知り尽くし、苦因をマスターするだろう。
 苦滅について考え続けば、いずれ私は苦滅に通達し、苦滅を知り尽くし、苦滅をマスターするだろう。
 苦滅道について考え続けば、いずれ私は苦滅道に通達し、苦滅道を知り尽くし、苦滅道をマスターするだろう。
 これら四諦について考え続ければ、いずれ私は四諦に通達し、四諦を知り尽くし、四諦をマスターするだろう。
 そのときの答えが「執着対象、渇愛、渇愛滅尽、八正道」かどうかは知らない。 
 しかし、私がこの四つのアイデアを重要視し、考え抜き、それについて極めることは利益になりさえすれ、不利益にはならないだろう。なぜなら、苦しみの原因がわかればそれを断とうとするだろうし、苦しみの消滅がわかれば獲得しようとするだろうから。
 思うに、ゴータマ・シッダッタの説法の真の意義は四つの聖なる真実という『アイデアの提供』にあった。この『四諦というアイデア』、『四諦という方向性』を提示しただけでも最高度に偉大である。なぜなら苦・苦因・苦滅・苦滅道という四つのアイデアは知って損をしない知識のうち最高のものであると考えられるから。
 さあ、私はゆっくりとこのアイデアを考えるとしよう。そうすれば、次第にこの四つのアイデアについて詳しくなるだろうから。さて、いったい何が苦しみか。私は何が嫌なのか。あれも嫌だな、これも嫌だな・・・」

こうして、何が苦で、何が苦因で、何が苦滅で、何が苦滅道かはまだわからなくても、次第に自分なりの四諦の答えが出てくると思います。そのときは、「やっぱり苦しみの消滅はある。道理としてあり得る」と思ったら修行をすればいいし、「やっぱり苦しみの消滅はあり得ない。道理としてあり得ない」と思ったら修行をやめればいいです。それはそれで、今後の進路がわかったことで自分の利益になることですから。

僕は十代の頃に四諦を聞いてはいましたが、「四諦というアイデアを提供した段階ですでにゴータマは最高賢者である」ということが当時はわかりませんでした。残念なことに。「何が苦か、何が苦因か」と考え続ければ、それについて絶対に詳しくなるはずだという「自分への自信と進歩への確信」もありませんでした。しかし、今ではそれがあります。「何が苦か。何が苦因か。何が苦滅か。何が苦滅道か」と考え続け、念じ続け、念頭において生活し、繰り返し繰り返し考えて思うならば、それについて通達し、詳しくなり、慣れて、マスターします。誰であっても。輪廻や渇愛とか八正道、それらを措いておいても「四諦について考え続ければ、自分なりの四諦をマスターできる」というこの知識、この自信、この確信、この方向性、そして、「自分は何が苦で、何が苦因かと考え続ければいずれ自分自身でそれをマスターするだろうということを自覚している。そしてそれが自分の利益になることをも自覚している。そして自分の利益になることを自分はやめるわけがないということも自覚している。自分はそれを考察し続けるだろう。それに通達し続けるだろう。それが利益になるから。四諦への信、四諦を知る自分の知性の信から退転する道理がまったく見当たらない」というこの段階に至った人は、もはや預流者であり、流れに入ったとみなしてもいい境地に達しています。仮にそうでないとしても、彼が四諦を信じるときは信に従って行じており彼は随信行者です。彼が四諦を考察するときは法に従って行じており彼は随法行者です。その彼が流れに入らずに死ぬことはあり得ません。死は離別の苦を与え、それに伴う自分の執着を露にし、その現実を目の当たりにした彼は必ず四諦とその実感を結合させるからです。

重要なことですので最後にもう一度繰り返します。



  「四諦というアイデアを提供した時点ですでにゴータマは最高賢者である」



苦集滅道の知識は人生の必須知識であり、学び続け深め続けるべき最高の方向性、最高の学問大系だからです。  

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