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原始仏教コミュの「根律儀」

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「根の門守護」(indriyesu guttadvāra)

indriya:インドリヤ、根
gutta:グッタ、守られた、守護された
dvāra:ドヴァーラ、門、戸

「根律儀」「根防護」(indriyasaṃvara)とも言います。三学を総説する長部経典においても、戒の次に学ぶものとして語られており、その記述は以下の記述と完全に同文です。根律儀は修行方法が少しわかりにくいので紹介します。
(参考:「性欲」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30376693&comm_id=951429



1 ピンドーラ・バーラドヴァージャの教え(基本の根律儀)

「大王、これはかの世尊、知者、見者、阿羅漢、正等覚者が言ったところのものです。
『来れ比丘たちよ。根の門を守護して住する者でありなさい。
 眼によって色を見ても、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし眼根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。眼根を守りなさい。眼根の防護に到達しなさい。
 耳によって音を聞いても、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし耳根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。耳根を守りなさい。耳根の防護に到達しなさい。
 鼻によって香を嗅いでも、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし鼻根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。鼻根を守りなさい。鼻根の防護に到達しなさい。
 舌によって味を味わっても、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし舌根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。舌根を守りなさい。舌根の防護に到達しなさい。
 身によって触れられるべきものに触れても、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし身根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。身根を守りなさい。身根の防護に到達しなさい。
 意によって法を認識しても、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし意根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。意根を守りなさい。意根の防護に到達しなさい』と。
 大王、これもまたこの若い比丘たちが、年が少なく黒い髪で青春多い若さがあって、青年期である身体であるが、欲を楽しむことなく生涯完全で清浄な梵行を行ない人生を終わる因であり、原因であるところのものです」
      『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P182

相:nimitta、ニミッタ
執る者:gāhin、ガーヒン
随相:anubyañjana、アヌブヤンジャナ、随好、随相、細相
   vyañjana、ブヤンジャナ、相、特相、相好;記標、文、字句、子音;調味、添味、助味、副菜




2 マハーカッチャーナの教え

「   [一三二] 第九 ローヒッチャ
一 あるとき、具寿マハーカッチャーナはアヴァンティのマッカラカタの林の小屋に住していた。
二 ときにローヒッチャ婆羅門には多くの弟子がおり、薪を取る青年たちが具寿マハーカッチャーナの小屋に来て、その周りを回り、徘徊し、高い声や大きい声を出して、様々な飛び越える遊びを行ない、「これらハゲ頭のエセ沙門は、梵天の足から生まれた黒く醜悪な者であり、ただこれらの荷物の運び屋だけが尊敬し尊重し供養し礼拝するところのものだ」と言った。
三 具寿マハーカッチャーナは小屋を出て来て、この青年たちに言った。「青年たち、声を出してはいけない。君たちに法を説こう」と。こう言うとその青年たちは黙って止まった。
四 ときに、具寿マハーカッチャーナはこの青年たちに詩によって語った。
  古を思い出すと、これらの古の婆羅門たちは戒を最も第一となして、忿を抑え、その門を守り、よく防護した。
  古を思い出すと、これらの古の婆羅門たちは法と禅那を悦んでいたが、今の婆羅門は『我等はこれらを捨てて問わないようにしよう』と、生まれに酔って非事を行なった。
  慢に陥る渇愛ある者たちは、忿に圧されて種々の刀や杖を手に取る。
  門を守らない愚か者は、人が夢の中で得た財のようなものだ。
  断食や地面で寝ること、早朝の水行や三ヴェーダの読誦、粗い獣の皮衣や結髪、泥を塗ること、呪文、禁戒や苦行。
  詐術・曲がった杖、水で拭うこと、これらは婆羅門の用具を表すもの、わずかな利得を得るために為されたものだ。
  よく三摩地を得て、濁りなく、あらゆる生ける者たちに対して邪曲なき心、これこそ梵天への道筋である」と。
五 そこで、この青年たちは怒り、快く思わずにローヒッチャ婆羅門のところへ詣った。詣って彼に言った。「尊、どうか知ってください。沙門マハーカッチャーナは婆羅門の神呪をひたすら嘲ります」と。こう言うと、ローヒッチャ婆羅門は怒り、快く思わなかった。
六 さらにローヒッチャ婆羅門は心に思った。「この私の青年たちの言葉だけを聞いて、沙門マハーカッチャーナを罵り謗るのは、私に相応しいことではない。私は彼のところへ行って問おう」と。
七 そこでローヒッチャ婆羅門はこの青年たちとともに具寿マハーカッチャーナのところへ行き、会釈し、親愛で慇懃な談話を交わして一方に座った。
八 一方に座ったローヒッチャ婆羅門は具寿マハーカッチャーナに言った。「尊カッチャーナ、ここに私の多くの弟子である薪を取る青年たちが来ましたか」と。
「婆羅門、あなたの多くの弟子である薪を取る青年たちがここに来た」。
「尊カッチャーナとこの青年たちとの間に何か話がありましたか」。
「婆羅門、私とこの青年たちとの間に話があった」。
「どのように尊カッチャーナとこの青年たちとの間に話がありましたか」。
「婆羅門、私とこの青年たちとの間の話はこのようである。
  古を思い出すと・・・・・・梵天に達する道筋である、と。
 婆羅門、私とこの青年たちとの間の話はこのようであった」。
九 「尊カッチャーナは『不守護門』と言います。カッチャーナ、何が不守護門ですか」
一〇 「婆羅門、ここにある者が眼によって色を見て、愛らしい色である色を勝解し、愛らしくない色には瞋害し、身の念は現れずに住し、小さい心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知らず、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼさない。
一一 耳によって声を聞いて、愛らしい色である色を勝解し、愛らしくない色には瞋害し、身の念は現れずに住し、小さい心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知らず、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼさない。
一二 鼻によって香を嗅いで、愛らしい色である色を勝解し、愛らしくない色には瞋害し、身の念は現れずに住し、小さい心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知らず、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼさない。
一三 舌によって味を味わって、愛らしい色である色を勝解し、愛らしくない色には瞋害し、身の念は現れずに住し、小さい心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知らず、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼさない。
一四 身によって触れられるべきものに触れて、愛らしい色である色を勝解し、愛らしくない色には瞋害し、身の念は現れずに住し、小さい心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知らず、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼさない。
一五 意によって法を認識して、愛らしい色である色を勝解し、愛らしくない色には瞋害し、身の念は現れずに住し、小さい心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知らず、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼさない。
一六 婆羅門、不守護門とはこのようである」。
一七 尊カッチャーナ、不思議です。尊カッチャーナ、希有です。尊カッチャーナは不守護門であるところのものを不守護門と言います。尊カッチャーナは『守護門』と言います。何が守護門ですか」。
一八 「婆羅門、ここに比丘が眼によって色を見て、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす。
一九 耳によって音を聞いて、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす。
二〇 鼻によって香を嗅いで、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす。
二一 舌によって味を味わって、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす。
二二 身によって触れられるべきものに触れて、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす。
二三 意によって法を認識して、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす。
二四 婆羅門、守護門とはこのようである」。
二五 「尊カッチャーナ、不思議です。尊カッチャーナ、希有です。尊カッチャーナは守護門であるところのものを守護門と言います。素晴らしい、尊カッチャーナ。素晴らしい、尊カッチャーナ。尊カッチャーナ、あたかも覆われるものを開くように・・・・・・法を説き明かされた。尊カッチャーナ、この私はかの世尊に帰依します。法にもサンガにも。尊カッチャーナが私を今日から生涯、帰依する優婆塞として受け入れてくださるように。尊カッチャーナ、もしマッカラカタで優婆塞の家に入られるときは、まさにローヒッチャの家に入ってください。ここに青年男子、あるいは青年女子が尊カッチャーナに礼拝し、応対し、座席や水を捧げるならば、これは彼らにとって長い間、利益と安楽になるために」。
     『南伝大蔵経15 相応部経典4』大蔵出版 P188–193

不守護門:aguttadvāra、アグッタ、守られていない、守護されていない、ドヴァーラ、門、戸
守護門:guttadvāra、グッタドヴァーラ、守られた門、守護された戸
愛らしい色:piyarūpa、ピヤルーパ 喜色、愛色
勝解:adhimuccati、アディムッチャティ、勝解する、信解する、心を傾ける、志向する
瞋害する:vyāpajja、瞋害する、害する、障害する
身の念は現れず:anupaṭṭhitakāyassati、アヌッパッティタ・カーヤ・ッサティ、現れない・身・念



3 ナンダの教え

「二 比丘たちよ、このなかナンダが根の門を守護するとはこのようである。
 比丘たちよ、もしナンダが東方を観察すべきときは、一切の意を存念させてナンダは東方を観察し、「このように私が東方を観察して貪求と憂いの悪不善法を流入させないようにしよう」と為す。このようにそこにおいて自覚(正知)している。
 比丘たちよ、もしナンダが西方を観察すべきときは、一切の意を存念させてナンダは東方を観察し、「このように私が西方を観察して貪求と憂いの悪不善法を流入させないようにしよう」と為す。このようにそこにおいて自覚している。
 比丘たちよ、もしナンダが北方を・・・
 比丘たちよ、もしナンダが南方を・・・
 比丘たちよ、もしナンダが上を・・・
 比丘たちよ、もしナンダが下を・・・
 比丘たちよ、もしナンダが四錐を観察すべきときは、一切の意を存念させてナンダは東方を観察し、「このように私が四錐を観察して貪求と憂いの悪不善法を流入させないようにしよう」と為す。このようにそこにおいて自覚している。
 比丘たちよ、ナンダが根の門を守護するとはこのようである」
     『南伝大蔵経21 増支部経典5』大蔵出版 P23





・ピンドーラ・バーラドヴァージャの箇所

「眼によって色を見ても、相を執らず、随相を執らない者でありなさい。もし眼根を防護せずに住するならば、欲求と憂いと悪不善法が流れ込むだろうが、それを防護するために実践しなさい。眼根を守りなさい。眼根の防護に到達しなさい」

「相を執らず、随相を執らず」とありますが、その「相」と「随相」を執るということの意味が少し不明瞭なので、後ろの文から類推します。つまり、「どんな相か」というと「過度に求めることや憂いや悪不善法が流れ込むような相」であることが後に続く文から明らかです。ですから、それはたとえば、女性の性的な部分などがそのニミッタ(相)やアヌブヤンジャナ(随相)に相当することが明らかです。女性が眼に入らないように林に住むのもいいのですが、托鉢に行けばどうしても女性が眼に入ってしまうので、すでに眼に入ってしまった場合、それに誘発されて悪不善法が生じないように「念じる」というのが、根律儀の意味だと思います。具体的には、いつもは通りを歩く女性を舐めるように見てしまう人が、根を防護して女性を見ても男性を見るのと同様の無関心さで視線をそらすことができるならば、十分、根律儀がなされています。あるいは、いつもは食後におやつを食べるところを食べないようにするならば、それもまた根律儀です。同時に戒を修めることにもなります。

「五感と心で対象を認識しても貪求や憂いなどの悪不善法が生起しないことを心がける」ならば、それは根律儀が修習されていると言われてよいと思います。逆に「心がけていない」ならば、それは根律儀の修行をまったくしていない状態です。対象の認識を原因として生じる悪不善法の制御を何秒、何分、念じているかが、修行しているかどうかを決めます。五分でも毎日続けるならば、ますます容易になっていくと思います。根律儀は腕立て伏せのように、眼に見えて頑張っているとわかる修行ではありません。本人が、念じていればその念じた分だけは確かに修行されています。



・マハーカッチャーナの箇所

「ここに比丘が眼によって色を見て、愛らしい色である色を勝解せず、愛らしくない色には瞋害せず、身の念は現れて住し、無限の心にしてかの心解脱・慧解脱を事実の通りに知り、彼に生じる悪不善法であるものを残り無く滅ぼす」

「愛らしい色」というのは、「楽受を生じさせるような色」。それを見ても勝解しない、多分、その相に意識が入り込まないようにするということだと思います。
「愛らしくない色」というのは、「苦受を生じさせるような色」。それを見ても瞋害しない、多分、自己嫌悪に陥らず、他者に怒ったり、後で恨んだり、攻撃したりしないということだと思います。
「身の念は現れ住し」というのは、身を念じて自覚している状態、念身を拠り所として為すべきことが自由に為せる意識状態のことだと思います。
「無限の心」というのは、五正定因の一つとして語られるように「心が満ちあふれている」状態、あるいは四無量心(同じ単語)、いずれにしろ、限定されない心と念の状態で、さらにより一層認識領域が拡大していく増上心の状態です。身体の身長は別として、心は大きい方がいいに決まっています。「心が小さい人」と世間で言われる言葉の意味を考えれば自ずから明らかです。
「心解脱・慧解脱を事実の通りに知る」というのは、すでに阿羅漢でなければいけないということではなく、阿羅漢になるための道、解脱するための方法、心解脱と慧解脱が何であるかということを知っているということだと思います。「心解脱・慧解脱を知るゆえに、法の流れは彼を渡して、後になって進歩する」という記述があったことを覚えています。四諦了知に近いです。
「悪不善法を残り無く滅ぼす」というのは、そのままです。後に苦しみを引き起こす法はすべて悪法です。それを残りなく完全に滅ぼし続けるために念じ続けているならば、それが根の防護だと思います。

格闘家が色々な方法で身体を鍛え上げその苦しみに耐えるのも一種の根律儀ですが、それは俗なる根律儀であって聖なる根律儀ではありません。しかし、俗であっても根を防護するからこそ、苦痛に耐え抜いて肉体を強化することが可能になります。もし、根を防護しなければ、格闘家として強くなれません。肉体の苦痛に心が打ち負かされて、訓練が続行できなくなるからです。有益ではありますが、解脱はできないから、俗なる根律儀です。そのような分類は原始仏典にはありませんが。どうして、解脱できないかというと、彼は心解脱・慧解脱を事実の通りに知らないからです。四諦を事実の通りに知るならば、根律儀をどのように行なえば、解脱が可能になるかが明白となり、そのような修行が可能になります。知らなければ、そのような修行ができないので解脱はできません。もし、苦痛と快楽に我慢するだけでいいならば、軍人や格闘家、苦行者が先に解脱して不死者になるはずですから。聖なる根律儀は、マハーカッチャーナが言うように、心解脱・慧解脱を如実に知って、輪廻に導く悪不善法を完全に消去することによってはじめて可能になります。このように、根律儀だけで解脱が可能であるということがマハーカッチャーナの説法から明らかです。


根律儀を何のために修行するのか知らなければ、心は根律儀の修行に向かいません。知るならば、それを原因として心は根律儀の修行に向かいます。もし、五感と心で何かを認識するとして、その対象が欲しくなれば、それは果たして利益なのか不利益なのかをよく考えればいいと思います。もっと食べたいとか、この本も買おうとか、そういうことです。一方で、四念処をマスターしたいと考えたならば、それは善い欲求です。この欲求は放置しても悪不善法とはなりません。防護し律儀すべきは、悪不善法です。その最たるものが、過度に求めることと手に入らないことの悩みです。

どうして過度に求めていけないのか、どうして悩んではいけないのか知らなければ、根律儀を修行する気にはなりません。過度に求めるのは不利益です。いい食事と異性を過度に求めて、それを手に入れることはよいことのように見えます。それによって快楽が生じるからです。しかし、快楽は快楽のままで終わりません。快楽を感じたことを原因として、必ずそれに対する執着が生じます。執着している五感の快楽はいずれ手に入らなくなります。手に入らなくなったときに執着した分だけ苦しみが生じます。苦しみは不利益です。この将来やってくる苦しみを制御するために、根を防護します。しかし、四禅の快楽は許されています。それは「有ることによって生じる快楽」ではなくて、「無いことによって生じる快楽」だからです。しかも、それは外界に依存せずに、自分の力、定力に依存しています。従って、十分マスターすれば欲したときに手に入れることができるものです。五感の快楽は他者に依存し、四禅の快楽は自己に依存します。そのために、聖者たちは五感の快楽に住さず、四禅の快楽に住します。それは他力よりも自力がより一層優れており、他者を島とすることよりも自己を島とすることの方がより一層優れており、大きな利益を与えてくれるからです。利益を与えてくれるもの、それは善です。ですから、外界のものを過度に求めるのはよくないですが、善法を過度に求めることは許されています。ゴータマがそうです。ゴータマは二法に通達し知り尽くしていました。それは「善法に満足しないこと」と「遮られることのない精勤」です。ゴータマは、善法に対して満足することがなかったからこそ最高の善法を獲得し保持しています。原始仏典上では「欲」「意欲」「貪」などの単語を区別していますが、日本語では類義が多いので上のように区別できる具体例を出して書きました。

根律儀の修行を四諦の観点から考察すれば、根律儀の意義がわかり、やる気も起きます。その考察をすることに心が進まない方は、単純に「何を見ても聞いても平常心、平常心」と思っているだけでも根律儀の修行になると思います。人は知らないだけで結構、日常的に俗な根律儀は何度も行なっていると思います。満員電車で痴漢したくなっても痴漢しないとか、太るからデザートは我慢するとか、そういうのも根律儀だと思います。そこには五感と心による認識が確実にあり、利益不利益の思考によって身悪行・語悪行・意悪行と自分に不利益をもたらす行為をしないようにしているからです。根律儀あるとき三善業は円満されます。三善業あるとき四念処は円満し、四念処あるとき七覚支は円満し、七覚支あるとき明と解脱の果を実証します。根を制御しなければ、外界から刺激を受けたら一切の欲望が我慢できなくなって、殺し盗み強姦の罪で簡単に刑務所に行くことになることは必然です。根の律儀がないから、殺しや盗みや強姦があります。根の律儀を完成していて、しかも殺し盗み強姦するということがあるでしょうか。根律儀とは、何かを認識しても過度に求めず悩まないということであるからです。これらのことは、根律儀が一切ない状態と根律儀が完成した状態の比較によって、根律儀の利益が明らかになります。根律儀の利益を明らかに認識することを原因として、そこへの意欲と実行があります。心解脱・慧解脱を損なう悪不善法を知り尽くして防護するならば、次第に解脱に至ると思います。その悪不善法とはつまり「喜びは苦しみの根である」という言葉に象徴されるような漏や執着を伴う接触のことだと思います。



・ナンダの箇所

「比丘たちよ、もしナンダが東方を観察すべきときは、一切の意を存念させてナンダは東方を観察し、『このように私が東方を観察して貪求と憂いの悪不善法を流入させないようにしよう』と為す。このようにそこにおいて自覚している」


一切の意をあらしめることによって、最大効率で悪不善法の制御を達成できます。

彼が念頭に置いていることは「悪不善法が入らないこと」です。性犯罪を我慢する人は、「自分が犯罪者にならないように」と制御します。根律儀を修行する人は、「悪不善法が入らないように」と制御します。

「自覚している」というのは、無自覚だったら悪不善法が入り込んで来たかどうかを全く確認できないからです。盲目の人間を見張りに立たせても役に立たないようなものです。悪法を一切、自覚していないなら、対策の打ちようもありません。逆にあらゆる悪法を完全に自覚するならば、必ず活路が見いだされます。自覚、正知は大事です。 



基本の根律儀と、マハーカッチャーナの分別。そして、ナンダの根律儀で、大体、主な根律儀の修行法はカバーしていると思います。根律儀の能力は鍛えれば鍛えるほど、どんどん進歩します。そういう意味では「根律儀」という単語は使用せずに「根の修習」という言葉を使う中部経典の最後の経である第152経「根修習経」は、非常に参考になると思います。余力があれば、コミュニティ「原始仏典」に引用したいと思います。

コメント(2)

参考にしていただけたようでよかったです。また中部経典152経の方もゆっくりやっていきたいと思います。

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