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原始仏教コミュの「四神足」2  解説

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四神足について書きたいと思います。




《四神足》

「四」とは「意欲・精進・心・考察」の四種類の三摩地を獲得する原因を分類して「四」となっています。確かに、意欲を因としても三摩地を獲得することもあり、精進を因としても三摩地を獲得することもあり、心を因としても三摩地を獲得することもあり、考察を因としても三摩地を獲得することもあります。また、神通への意欲から神通のための精進が生じ、神通のための精進から神通に相応する心が生じ、神通に相応する心から神通を考察することが生じます。一方で、いきなり考察から三摩地を得ることもでき、いきなり心から三摩地を得ることもでき、いきなり精進から三摩地を得ることもでき、いきなり意欲から三摩地を得ることができます。正知を鍛えていない場合、「何が意欲三摩地なのか。何が精進三摩地なのか。区別ができない」ということがあります。単純に考えて、意欲を入り口にして三摩地を修するなら、意欲三摩地です。精進を入り口として三摩地を修するなら、精進三摩地です。心も考察も同様です。しかし「何を起点とし、何をエネルギー源にするか」によって、修習され、形成されるものが確かに異なるものであるということも次第に見えてくるはずです。

「神」とは「神通(イッディ)」で、六神通のうちの「神足通」に相当することが経典に見えます。しかし、同様に光耀心修習をすれば、六神通の全てが獲得できるという記述も経典に見えます。
「足」とはそのまま身体の「足(パーダ)」です。パーダカは「基礎の、基底」という意味ですので、神足は「神通の基礎」でもいいと思います。
「四神足」は直訳すれば「四つの神通の足」です。

一部の人々は、「超能力を求めるのは仏教の修行者に相応しくない」とか、あるいは「超能力を求めることは魔道である」とか、あるいは「悟りたい、悟りたいと悟りを欲しがるから悟れない」と主張しますが、これらの主張は全て原始仏典の記述と相反するものです。まさに「超能力への意欲によって三摩地を獲得するから」です。まさに「漏尽通という超能力によって漏尽に達するから」です。まさに「悟りへの意欲によって三摩地を獲得し、悟りを証するから」です。ゴータマは、多くの人々に利益を与えるために教えを説きました。従って、「不死はいらない。超能力が欲しい」という人であっても、ゴータマの教えを学んでよいのです。「不死はいらない。女が欲しい」という人であっても、ゴータマの教えを学んでよいのです。それは、彼らの利益となるのであって、決して不利益とはなりません。神通と超能力と霊能力の悪用は確かにあります。ダイバダッタがアジャセに見せた神通のように。しかし、あらゆる武術や凶器・鈍器もまた悪用されるものです。もしも四神足を教えるのがまずいと誰かが考えるならば、その人はゴータマに対してこそ、それを言うべきです。「ゴータマは間違っていた。超能力の獲得法を開示したのだから」と。しかし、ゴータマへの信があることを自認する人がこのように言うことはありえません。不死の門は開かれ、神通への道はゴータマによって示されています。あとは、個々人が古よりある聖なる八支の道を辿って実証するのみです。


《基本》

まず、基本の四神足修行法があります。

「ここに比丘は、
 欲三摩地勤行成就の神足を修習し、
 勤三摩地勤行成就の神足を修習し、
 心三摩地勤行成就の神足を修習し、
 観三摩地勤行成就の神足を修習する」

意欲によって初禅のための三摩地を獲得して、初禅を得るのも欲神足です。火を出現させたいと欲して三摩地を獲得して、自然発火現象を現実化してもそれは欲神足です。苦しみについて知りたいと欲して三摩地を獲得して、苦諦を了知してもそれは欲神足です。引いては漏尽通につながる修行です。欲によって三摩地を得て、目的を達成するならば、そこに欲神足があります。

集中を獲得するために瞑想するとき、状況に応じて様々な相に着目します。たとえば、火を、熱の超能力を獲得しようと考えた場合、「火を操る超能力、ファイアとかメラとかに分類される超能力を獲得しよう。よし、その超能力が欲しいというこの思いによって集中しよう」と考えます。考えて集中します。あるいは「ますます火の超能力への意欲を増大させよう」と考えて心を集中させます。火のビジョンに集中するとき――大抵は無限に火を了解する火遍処の三摩地、火界定に相当すると思いますが――その集中ができなくなります。その原因は様々ですが、そういうときには意欲や三摩地とは別の相を考えます。欲三摩地勤行成就の神足ですから、「意欲による集中が壊れた。実に悪不善法が生じて、集中ができなくなった。つまり、雑念とか妄想とか他のことを考えたとか眠くなったとか、足がしびれたとか。これらは集中できなくさせる。だから、よくない。だから、悪不善法だ。これをなくすために精勤しよう。これは四正勤の一つだ。これは四神足の要素に含まれている」と。それで、眠くならないように頑張ります。あるいはまた眠くならないように頑張れば、律儀勤。あるいは、集中していない状態を集中させようとするなら、修勤。あるいは、この集中状態をやめないようにするならば、随護勤に相当します。

それでも、また「このままの修行方法でいいのか」という疑いの覆いによって集中が中断されます。その場合「行を具足する(サンカーラ・サマンナーガタ)というのは神足の要素だ。いったい、この修行は確かに超能力のための原因を形成しているのだろうか。この念を原因として何があるだろうか。この三摩地を原因として何が形成されるだろうか。この修行方法は確かに行をともなっているのか。行を具足しているのか。形成することを成就するだろうか。神通の原因となっているだろうか」と考察し、集中します。五蘊の一つである行について考察し、行の縁起について考察し、神通の縁起について考察し、集中の縁起について考察し、要するに関わってくる原因と結果について考察します。それに絡めて修行方法について考察します。そのとき、この根本作意によって疑いの覆いは破壊されます。「このやり方を続ければ、まさにこれを獲得する。この修行を原因として、このような力が形成される」と確信します。善法への信根が発動するとき、善法への精進根が発動します。続いて、念根、定根、慧根が発動し、知った分だけ、再びより一層優れた信根が発動します。これらの繰り返しが五力を増大させます。一方で、四神足は修され、五蓋は破られ、四正勤はそのうちにあります。

正知と根本作意を相互に修めて疑いの覆いを破壊します。そして「確かに意欲によって集中している。確かに四正勤によって集中している。確かにこの集中は行を具足している。確かにこの集中をもって神足の修習と言える。なぜなら、確かに集中の相を自覚し、集中の対象を自覚し、悪不善法を除き制御しているこの状態を自覚し、善法を生じさせ増大させているこの状態を自覚し、この集中が行を具足しているのを自覚しているから」と知ります。現状を正知し、そこに疑いがあるならば根本作意を行なって疑いを除く作業を繰り返します。実験と観察を繰り返して、ある集中状態を続けることによって変化するわずかな違い、わずかな進歩に着目するならば、この修行を続ければ確かに超能力は生じると自覚できるはずです。



《光耀心修習法》

「ここに比丘がいて欲三摩地勤行成就の神足を修習する――このように私の意欲は退縮に過ぎないようにし、精勤に過ぎないようにし、内に収まらないようにし、外に散じないようにする。前後想あって住する――後ろは前のように、前は後ろのように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のように。このように開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する。勤・心・観も同様」

これが四神足の神髄です。これによって大神通を獲得します。ゴータマの計られない神通も、モッガーラナの大神通もこの光耀心修習法によって獲得されたと記述してあります。そこでこれを修します。

要素は限られています。


1 「退縮に過ぎず、精勤に過ぎず」
懈怠と掉挙、怠けることと頑張り過ぎを避けて、適度な努力の状態に持っていきます。この状態を維持できているからどうか、繰り返し繰り返し観察します。できていないなら、適度な努力の状態に戻します。そこに四正勤はあります。

2 「内に収まらず、外に散じず」
眠気を払って、五感の快楽や外の世界への欲求、雑念を払います。内外を清々しい状態に保ちます。これもまた、この状態が維持できているかどうか繰り返し繰り返し観察します。できていないなら、五蓋に関わるこれらを払いのけます。ここにもまた四正勤はあります。集中するために必要なことです。この1と2が、基本の心の状態で、次からが本格的な修行です。

3 「前後想あって住し、後ろは前の如く、前は後ろの如く」
前というのは、視界が正面を捉えている状態です。後ろというのは、視界に入らない逆の方向です。そこで、頭の後ろに目があるようなビジョンを獲得します。これらを行なおうとすれば、視界が前方から左右のどちらかに行き、後ろを正面にして見ている状態、そういうイメージが繰り返されるはずです。そして、身体を貫通して前後させながらも、振り返ったり、見回したりといった感じのイメージです。これが単なる妄想でないことは修行を続ければわかります。確かに、「ある特殊な前後感覚」が生じ始めます。後ろに何かを感じます。いや、すでに後ろが見えています。

4 「上は下のように、下は上のように」
鳥が上から下へ急降下して、下から上へ急上昇するような感覚です。上からも内臓を見て、下からも内臓を見ます。視界の奥に自己感覚というものがありますが――だからこそお腹よりも鼻の付近の方が「より自分に近い」感覚がするのですが――これを修すると、イメージが上下を駆け抜けるので、自己感覚は頭の中央から外れます。上、下を繰り返せば、肉体を通過するので必然、内臓観になります。見ようとすれば、見え始めます。妄想ではありません。想像する前にヴィジョンが意識の中に入ってくるからです。これは念身や身念処の一つですし、性欲を断つためにも有効です。前後想を修しているときは、上下観は修しにくいです。それぞれ独立して修することになると思います。熟練した人は全てを同時にすることも可能だとは思います。

5 「夜は昼のように、昼は夜のように」
夜は、外界を昼のように明るくします。昼は、外界が夜のときのように自分の光想が広がるのを確認します。昼も夜もまったく同一の光のヴィジョン、まったく同一の努力状態、まったく同一の集中状態を維持します。闇を作意する必要はありません。光を作意します。それは本当に、単純な光のイメージです。CGで作ったような突如空間に出現する光です。それで問題ありません。想像が強固になると、想像の中で本当に光が見え始めます。(と、思います。。。)

6 「開いて覆われていない心によって光輝ある心を修習する」
先の昼夜観と同じようなものです。柔軟体操のように身体を開くのではなく、心を開きます。雑念があるときは、心は確かに閉じています。また、覆われていない状態に心を持っていきます。身体はいつも服に覆われているものですから、これもやはり心を覆われていない状態にします。五蓋があるとき、心は覆われています。五蓋がないとき、心は覆われていません。この内容を分別した経典の記述における「光明想」「昼想」という二つの単語がキーワードです。光明想というのは、太陽の光のようなイメージです。昼想というのは、昼間に目に入ってくる景色のことです。光とそれに照らされる対象としての「光明想」と「昼想」です。別の経典でも「光明に注意するとき像が見えず、像に注意するとき光明が見えない」という記述がありますが、それも同じことです。それぞれを同時に獲得できるように、集中を繰り返し、ヴィジョンを獲得します。阿弥陀如来ではないですが、「無限の光」をイメージします。自分が光っても、外が光っても同じことです。全部を光らせればいいです。全てを輝かせます。全てを発光体とし、光に満ちた「光界」のヴィジョンを獲得します。別の記述に「闇によって光界が知られる。・・・想による入定によって獲得されるべきである」という記述がありますが、これもまた同じことです。光を獲得し、像を獲得します。この6の修行方法がもっとも重要な記述です。これを修せば、前後想の修行においても光が回転するはずですし、上下内臓観においても光が身体を上下に突き抜けるはずですし、昼夜においても無限の光と昼のヴィジョンがとどまるはずです。無限の光をイメージするとき、五蓋はなく、心は開き、前後左右上下において独特の感覚が生じます。光が世界を満たすとき、自己感覚も周りの空間において広がりを見せるはずです。あるいは夜に時計の針の位置が見え、あるいは隣の部屋の配置が見えるかも知れません(そういうこともあるかも知れません)。 

1、2が努力と心の状態でセットです。
3、4が前後想と上下観でセットです。
5、6が光と像に関わることでセットです。

要するに、大果ある四神足の修行法である光耀心修行法は、「無限の光をイメージし続ければそれでいい」です。あるいは「光界定」などと僕は名付けています。その過程で、努力が緩くなったり張り過ぎれば、中の精勤に戻し、眠気や雑念が起きたら内外を破り、前後に光を回転させ、上下に光を突き抜けさせ、昼夜を無視して、無限の光を輝かせます。これを非常に長い間続ければどうなるだろうかと考えて、疑いを捨てます。信じないとき、努力はできません。ゴータマを信じるとき、自分のこの修行法を信じるとき、四神足をやる気になり、この修行を続ける気が起きます。


気楽にやってみてください。成果が出た人は、また書き込みしていただければみなさん興味深く思われると思います。
 

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