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原始仏教コミュの諸行無常偈

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有名な「諸行無常偈」の原文です。



「世尊はこれを言った。これを言って、善逝はさらにまたこう言った。
 『諸行は実に無常であり 生じては壊れる法である
  生じては滅する    それらの寂静は楽である』」

    (長部経典>第17経 大善見王経[マハースダッサナ・スッタ])


[原文]
 Idamavoca bhagavā, idaṃ vatvāna sugato athāparaṃ etadavoca satthā –
 ‘‘Aniccā vata saṅkhārā, uppādavayadhammino;
 Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho’’ti.


[逐次]
 これを言ったIdamavoca 世尊はbhagavā, これをidaṃ 言ってvatvāna 善逝はsugato さらにまたathāparaṃ こう言ったetadavoca 師はsatthā –
 ‘‘無常であるAniccā 実にvata 諸行はsaṅkhārā,
 生じてはuppāda壊れるvaya法であるdhammino;
 生じてはUppajjitvā 滅するnirujjhanti,
 それらのtesaṃ 寂静はvūpasamo 楽であるsukho’’とti.


[漢訳]

 諸行無常
 是生滅法
 生滅滅已
 寂滅爲樂




岩波文庫の『神々との対話』にも載っています。

「愚かなる者よ、拝まるべき人たち(聖者)がどのように説かれたか、ということを、そなたは知らない。
 諸々のつくられた事物は、すべて無常である。
 生じては滅びる性質のものである。
 それらは生じては滅びるからである。
 それらの静まるのが、安楽である。」

   『ブッダ神々との対話』岩波文庫 P22−23 

[原文]
 ‘‘Na tvaṃ bāle pajānāsi, yathā arahataṃ vaco;
 Aniccā sabbasaṅkhārā [sabbe saṅkhārā (sī. syā. kaṃ.)], uppādavayadhammino;
 Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho’’ti.

 Aniccā無常 sabbasaṅkhārā一切行 , uppādavayadhammino生滅法;
 Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo寂静 sukho楽’’ti.




この義は「宇宙を破壊して無にしよう。自分を破壊して無にしよう」ということではありません。そもそも破壊しても因果連鎖上、突然、無にできるものではありません。解脱は自殺する必要なく達成されるものです。解脱したときはいまだこの生じた肉体は滅していません。それなのに「寂静」を主張します。

即ち、この義は「これが私であるという一切の執着を断つがゆえに、輪廻は断たれ、六触処への執着もないがゆえに、六触処も私においては滅しており、接触も私においては滅している。これは楽である。しかし、いまだ六触処に執着する者においては六触処は存在し、六触処への執着を断たないかぎりは存在し続ける。執着するならば生じる。執着が滅するならば滅する。しかし別の執着が生じているならばそれは生じる。このようにいまだ生じて滅することを繰り返すがゆえに苦である」ということだと思います。

阿羅漢もまた五感によって接触がありますが、そこにおいて渇愛も執着もなく、また「これは私のものである」という我慢もないがゆえに「彼においてそれは滅している」と言われるのだと思います。即ち「原始仏教における滅」とは「自殺や虚無そのものになりきることではなく、そこにおいて渇愛・貪り・執着を断っているならばそれが滅」ということだと思います。離貪・愛尽・無取であるならば、それは滅していると言われます。

この義は非常に高度なもので自分で書いていながら、実はよくわかりません。別経において「六触処が滅して何が残るのか」という話もあります。四諦・縁起とからめてよく考察する必要がある根本教義だと思います。アーナンダもこの義について一句にて深遠なる義が説かれていますとゴータマに言っています。六触処の滅に関する高等問答に関しては以下になります。


 ・六触処の滅 
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34327759&comm_id=951429

コメント(9)

>離貪・愛尽・無取であるならば、それは滅していると言われます。

本当に滅ができているのかどうか
その見極めすらわかりませんが、

禁でなく、断でなく、
愛著でなく、憎悪でなく、
ただただ慈の心に基づいた
平穏なる和らぎの心が
親子・兄弟・恋人・夫婦・深く近しい人間関係において、
現実に正しく相続できるかどうかも
修学の鍵となるように
体験の途上ながらほんの僅かなりとも実感するものがあります。

ぺこちゃんさまには
いつも貴重な考察の機会を与えていただき
ありがとうございますm(__)mぴかぴか(新しい)
こんにちは。

素晴らしい句ですね。

> この義は「宇宙を破壊して無にしよう。自分を破壊して無にしよう」ということではありません。そもそも破壊しても因果連鎖上、突然、無にできるものではありません。解脱は自殺する必要なく達成されるものです。解脱したときはいまだこの生じた肉体は滅していません。それなのに「寂静」を主張します。

本当にそのとおりですね。

我々凡夫は、苦しみの因が外側にあるものだと錯覚をしてしまっているから、外側を壊したらいいじゃないかと勘違いしていますね。
本当に困ったもので、欲望があるから、外的な刺激を求め続けてしまうし、喜びを得たいと行動してしまう。

でも、輪廻の原因である執着を取り除いて、五感から得られる種々の欲望が完全に滅尽してしまったら、寂静であり楽なんだということですよね。何の欲求も生じない寂静の境地に至りたいものです。

こんな話を聞いたことがあります。
五感のひとつ、味覚がなくなったら、どんなものを食べても味がわからないそうです。
たとえば塩を食べたら、じゃりじゃりした感じはあっても、塩っぱさがないそうです。
人が何かを口に入れるということは、そこから得られる甘さや辛さ、しょっぱさ、すっぱさ、苦さなどの混ざり合った感覚を味わいたい・感じたい・得たいという欲望が働いているからで、それらの渇愛が生じなければ何か物体が口の中に存在しているだけで、そこには喜びも苦しみもないということでしょうか。

こういうのは、深い意識で感じ取るものでしょうから、とても深遠ですね。
>あうんさん

執着対象が内において滅していることを自覚することは「解脱知見」であり、戒・定・慧・解脱・解脱知見の五つのうちの最後に来るものであり、容易ではありません。基本的には「執着対象が変化したときに自分の心に苦が生じるか」ということを予想するのが一つの判断方法だと思います。

慈心の分だけ怒りが減少します。慈心が足りない分は怒りはそのままです。慈心は怒りと反発する想であり、さらに利益を考える対象を自己から家族・地域・国家・大陸・太陽系・銀河系・全宇宙に広げるがゆえに、心はその分偉大となり、世俗的・個人的・俗人的な執着対象から、公的・集団的・超俗的・貴族的な執着対象へと変化します。その分は、漏が多い執着が滅し、漏が少ない執着へと鞍替えします。しかし、執着の絶無には至りません。

原始仏典に記述してある通り、慈心中に無常想を修するならば、無常想と結合したヴィジョンの分だけは執着から離脱します。無常想が十分に修習され、一切の六処の認識を覆い尽くすだけの行が形成されたならば、そのとき内外の一切の執着が断たれるということは道理があることです。無常のヴィジョンと執着を志向する意識の動きは反発するからです。確かに想中において無常のゆえに滅しつつあるものに対して執着して取ろうとしても、その執着しようとする対象が無常想の持続のゆえに目の前で滅して行ってしまうので取ろうにも取りようがないからです。しかし、無常想が滅するときは執着が可能になります。それゆえ「諸行は無常であると私は知っているのにどうして執着しているのか」と自問する人の場合「それは無常想の完全マスターにいたっていないからだ。何らかの執着対象が心に映ったとき、あるときは無常想が生じるがあるときは生じない。そして、無常想が生じるときは執着しないが、無常想が生じないときは執着してしまう。無常想が生じないときがあるのは、無常想を完全マスターしていないことが原因だ。しかし、無常想を完全マスターしたときは無常想が生じないという事態はない。無常想に関連づけられない想が持続するということはない。これが原因で諸行は無常であると知っていても私にはいまだ執着がある」と言えると思います。

このことについてもっと正確に論じるためには僕が十分に無常想を修習して、その想が持続することを原因として何が結果されるかを僕自身がよく吟味し、自覚し、精査する必要があります。結局のところ、論じる内容は全て論者の限界を指し示し、自分が論じた内容を自覚することは自分の限界を自覚することに等しく、身の程を知るそのときは至らぬところも知るということを結果し、バツの悪い思いをすることになります。この不快感が精進に昇華されないかぎりは、その点において僕はいまだ至らぬものであり続けることになります。このことは宗教に限らず、あらゆる業界において商品・作品・サービスを発表し、提供し、その結果を反省する人々が必ず味わう感情です。

あうんさんへの返事と関係ないことまで書いてしまいました。感謝の書き込み、ありがとうございます。
>あらんさん

はじめまして、あらんさん。日記も読ませていただきましたが、あらんさんは書籍で読んだことをご自身できちんと咀嚼しようとしておられるのがわかります。とてもよい習慣をお持ちだと思いました。

僕は阿羅漢にも欲求はあると思います。ゴータマも晩年に下痢のときは川の水を神通を使ってまでして濁りを清めてアーナンダに取ってこさせていました。ただ阿羅漢の欲求と阿羅漢でないものの欲求との差異は、自らの力でその欲求から離脱できる自在さがあるかどうかだと思います。あらゆる欲求において、その欲求を欲すれば滅し、欲すれば持続させることが可能であるならば、欲求の自在に達し、欲求を原因として自ら滅することができない苦しみが生じることはありえません。もし全欲求が絶無であることが阿羅漢であるとしたら、多分阿羅漢は無生物か植物のような存在になってしまいますから。

阿羅漢はまた一切の感受の優劣を凡夫同様に知り得るものだと僕は考えています。つまり「これはまずい。これはおいしい。彼女は醜い。彼女は美しい」などです。阿羅漢には一切の価値判断と五感の感覚の優劣の区別があり、しかも「この五感で感じる苦受は矢のようである。いずれ滅するといえども滅するまでこの不快は持続する。またこの五感で感じる楽受は苦である。楽受を楽しめば執着があり、執着があれば執着対象が変化したときは執着量に応じて苦が生じる。ゆえにこの楽受は苦と見られるべきである。またこの五感で感じる不苦不楽受は無常であると見られるべきである。即ち、いずれ楽受か苦受に変化する。ゆえにこの不苦不楽受の静けさという利点に執着すべきではない」とこのように考えて離脱する者だと思います。他の方法によっても離脱すると思います。

たとえば「私は楽受に勝つ。ゆえに執着せず離脱する。私は苦受にも勝ち、不苦不楽受も完全に自覚して勝つ。勝つゆえに執着せずに離脱する。私にはこれらは不必要である。一切感受に勝つゆえに。この勝つ想の持続によって私は感受に勝ち、感受から離脱する。ゆえに感受に執着しないがゆえに、渇愛は滅し、執着は滅し、存在は滅し、生老死から自在である」と。

阿羅漢の境地のイメージは非常に重要なもので、このイメージが間違うと阿羅漢になりたいという希望を起こすことができません。特に「涅槃は無である」という見解を持っているとまったく精進が起きません。無に憧れ続けることは原因が枯渇するがゆえに困難だからです。もちろん「涅槃は無である」という見解は邪見です。「涅槃は三悪根の根絶である」と理解し、複雑に考えず「苦滅ならばそれはよいことだ」と信じて努力した方がいいと思います。

僕はやはり阿羅漢の境地のイメージとしては

「欲するがままに行き
 欲するがままに立ち
 欲するがままに座り
 欲するがままに寝
  涼風、彼を吹く」

という記述を受け入れることがテキスト通りであり、同時にモチベーションも上がっていいと思います。


読んだことを鵜呑みにせずに、納得できるまで、整合性が得られるまで考え続け、考証を続ける方の書き込みは、誰であってもいつでも歓迎します。しかし、読んだことや人が言ったことを鵜呑みにし、整合性がないものを愛好し、道理にかなわないことをゴリ押しし、はじめから自己の見解が正しいものとみなしている方の書き込みは歓迎しません。悪人がのさばるときは善人が引っ込み、善人が栄えるときは悪人が引っ込みます。このようにして、道理を重んじる人の書き込みが増えることは善いことです。
 
>禁でなく、断でなく、

すみません。
原始仏典の学びの初心者で
表現力も理解力も稚拙であることをお許しください。

どこまでも、
阿羅漢の境地に達する学びを継続するという意味で
ぺこちゃんさんの書かれた

「涅槃は三悪根の根絶である」と理解し

この文章に鑑みた上での
徹底的な禁と断は必要であり重要であると
補足させてください。
あうんさんの書き込みがどうということで書いたわけではないので、全然気にしないでください。僕が何を書いても何か批判しているような感じにいつもなっているので、そういうところは僕も直さなければいけないといつも自分自身、感じています。情けないことです。

コミュニティが活発になることは良いことだと思いますから、書き込んでくださっている時点でありがたいことですので、お気になさらないでください。
ぺこちゃんさんの
徹底的に身を念じていらっしゃる姿勢に
とても励みをいただいているのです。

このような場を共有させていただけるだけでも
心的混乱の整理にも繋がり
とても嬉しく有り難く思っておりますぴかぴか(新しい)
そう言っていただけてよかったです。また何かありましたら書き込んでください。

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