▲ミロのヴィーナス。 ▲発見地の現在。 ▲発見地付近の古い光景。
〓先日の 「雑学王」 でですね、
“ミロのビーナス” の 「ミロ」 は、
発見された島の名前
「ミロス島」 の “省略形”
と説明していました。どんなにガンバッても、“雑学力” では、こういう細かいことを説明できないのですな、ハイ。
〓そんな、
「ミロ」 は 「ミロス」 の省略形って、説明になってないです。正確に説明するなら、
“ミロ” は “ミロス” のロマンス語形
と言うべきです。省略なんかじゃなくて、
Milo で正式な地名なのです。
〓日本語版ウィキペディアの “ミロのヴィーナス” の項の説明もダメです。
「ミロ」は発見地メロス島の英語風名称
〓なぜ、「ミロス」 を 「ミロ」 と呼ぶのか? このことを理解するには、部外者であるアジア人には見えていない、ヨーロッパ世界の 「言語・文化の紐帯」 (ちゅうたい) を “透視する力” が必要です。
〓以前、日本語における 「クリストファー・コロンブス」 という名前は、とてもオカシナものである、ということを説明しました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=97995652&owner_id=809109
〓こうした整合性を持たない表記は、
ヨーロッパの紐帯を理解していないヒトのヤラかすデタラメ
とも言えます。
〓コロンブスのラテン語による 「正式名」 は、
Christophorus Columbus [ クリス ' トーフォルス コ ' ルンブス ]
※発音は、中世ラテン語音
でした。これは、全ヨーロッパで通用する 「オモテ看板」 です。しかし、ロマンス諸語の話し言葉のレベルでは、「オモテ看板」 は使いません。
Cristoforo Colombo [ クリス ' トーフォロ コ ' ろンボ ] イタリア語
Cristóbal Colón [ クリス ' トーバる コ ' ろン ] スペイン語
Cristóvão Colombo [ クリス ' トーヴァオん コ ' ロンボ ] ポルトガル語
Cristòfor Colom [ クリス ' トーフォル コ ' ろム ] カタルーニャ語
Christophe Colomb [ クリストフ コ ' ろん ] フランス語
※語源を参照して、綴りを人工的に “逆戻り” させているのが
フランス語の特徴。実質的には、Cristofe Colon と変わりない。
〓近代までは、ラテン語という “金貨” が存在することによって、これらの各国語形は 「兌換制」 を保証されていました。つまり、国内で流通する語形があるが、他国とのコミュニケーションにはラテン語形を使えばよかったのです。
〓近代以降、「学名」、「学術用語」 という断片を残して、ヨーロッパ世界を覆っていたラテン語が消滅してしまい、ある意味で、ヨーロッパは 「第二のバベルの塔を喪失してしまった」 と言えます。
〓ハナシを 「ミロ」 に戻しますと、これはギリシャの島ですので、古典ギリシャ語で、
Μη˜λος Mēlos [ ' メーろス ] メーロス
という名前がありました。ヨーロッパにおけるギリシャの弟子ないし息子を自負していたローマは、当然、ギリシャの地名もラテン語化していました。
Mēlos [ ' メーろス ] メーロス
〓固有名詞は、えてして完全にラテン語化せず、ラテン文字に転写しただけのものがあります。本来ならば、
Melus となるべきですが、そうはしません。
〓また、
-os という語尾は、ラテン語の
-us とは語尾変化が違うことを明示しています。つまり、この単語は 「ギリシャに敬意を払った、文法的な治外法権が適用されるのだぞ!」 という感覚です。
〓こうしたギリシャ語を引きずったままの語彙は、次のように変化します。本来のラテン語語尾と比べてみてください。
【 主格 】
Mēl-us [ ' メーるス ] 本来のラテン語変化
Mēl-os [ ' メーろス ] ギリシャ語式のラテン語変化
Mēl-os Μη˜λος [ ' メーろス ] ギリシャ語の変化
【 属格 】 「ミロス島の」
Mēl-ī [ ' メーりー ] 本来のラテン語変化
Mēl-ī [ ' メーりー ] ギリシャ語式のラテン語変化
Mēl-ū Μήλου [ メ ' エるー ] ギリシャ語の変化
【 与格/奪格 】 「ミロス島に/ミロス島から」
Mēl-ō [ ' メーろー ] 本来のラテン語変化
Mēl-ō [ ' メーろー ] ギリシャ語式のラテン語変化
Mēl-ō Μήλω(ι) [ メ ' エろー ] ギリシャ語の変化
※(ι) は “下書きのイオタ”。
※ギリシャ語には 「奪格」 はない。
【 対格 】 「ミロス島を」
Mēl-um [ ' メーるム ] 本来のラテン語変化
Mēl-on [ ' メーろン ] ギリシャ式のラテン語変化
Mēl-on Μη˜λον [ ' メーろン ] ギリシャ語の変化
【 呼格 】 「ミロス島よ!」
Mēl-e [ ' メーれ ] 本来のラテン語変化
Mēl-e [ ' メーれ ] ギリシャ語式のラテン語変化
Mēl-e Μη˜λε [ ' メーれ ] ギリシャ語の変化
〓こうして見ると、古典ギリシャ語と古典ラテン語の格変化が、実によく似ていることに驚きます。ラテン語は、属格 (ぞっかく) では、ギリシャ語に譲歩せず、
-ī という語尾を守りました。しかし、対格ではギリシャ語形を採用しています。ここが、特徴ですね。
〓今までのハナシは、とりあえず、置いておきます。
〓ギリシャ語は、ビザンチン帝国時代に大きく発音を変え、ほぼ、現代ギリシャ語と同じになりました。これは、ラテン語がロマンス語に変じたのと同様、アクセントが、高さアクセントから強さアクセントに移行したことが原因です。
〓母音の長短がなくなり、それにともない、母音の音色そのものも変化しました。「メーロス島」 は、次のように発音を変えました。
Μη˜λος Milos [ ' ミーろス ] 「ミロス島」
〓現代ギリシャ語でも 「ミロス島」 です。「ミロのビーナス」 は “ミロス島” で発見された、というのは、この現代語の地名で言っているわけです。「ミーロス」 と 「ミ」 が伸びるのは、アクセントにともなうものであり、古典ギリシャ語における 「長母音としての “メー”」 とは、まったく “意味” がことなる長音です。現代語の長音は、付随現象であり、[ ' ミろス ] と短音で発音しても、何ら変わりはありません。
〓ウィキペディアの 「ミロのビーナス」 の項を見ると、発見地を 「メロス島」 としているのは、二重の意味でヘンテコです。まず、19世紀に発見されたのに、古典ギリシャ語の地名を使うのはオカシイのと、古典ギリシャ語で言うなら、「メーロス島」 とすべきであることです。
〓ところでですね、ハナシは、また、ローマに戻ります。ラテン語の末裔たる 「ロマンス諸語」 ── イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語など ── は、
固有名詞も、一般語彙と同様に、ラテン語から受け継いでいる
のです。そこが、近代に至るまでヨーロッパとは、エンもユカリもなかった日本と違うところです。日本語では、
Μήλος [ ' ミーろス ] というギリシャ語の地名を前にして、
それをカタカナに忠実に写すこと
しかできません。
〓しかし、ロマンス諸語は、自国語の語彙に、すでに 「ミロス島」 という単語を持っているわけです。それは、ラテン語から次のように変化しました。
Mēlos [ ' メーろス ] 「ミロス島」。古典ラテン語
↓
Mēlon [ ' メーろン ] 対格
↓ ※例によって、ラテン語の対格がロマンス語に受け継がれます
↓
Mēlo [ ' メーろ ] n が脱落
↓
ロマンス語
〓つまりですね、ギリシャ語で
-os で終わっていようと、ラテン語で
-us で終わっていようと、現代ロマンス語では
-o で終わるんですね。
〓他の有名な固有名詞でみてみましょうか。
【 Κύπρος Kypros 】 [ ' キュプロス ] キプロス島
Cyprus, Cypros [ ' キュプルス、' キュプロス ] ラテン語
Cipro [ ' チープロ ] イタリア語
Chipre [ ' チープレ ] スペイン語
Chipre [ ' シープレ ] ポルトガル語
Chypre [ ' シプル ] フランス語
【 ’Όλυμπος Olympos 】 [ ' オりゅンポス ] オリュンポス山
Olympus, Olympos [ オ ' りゅンプス、オ ' りゅンポス ] ラテン語
Olimpo [ オ ' りンポ ] イタリア語、スペイン語、ポルトガル語
Olympe [ オ ' らんプ ] フランス語
【 ‘Ηρόδοτος Hērodotos 】 [ ヘー ' ロドトス ] ヘロドトス
Hērodotus [ ヘー ' ロドトゥス ] ラテン語
Erodoto [ エ ' ロードト ] イタリア語
Heródoto [ エ ' ロードト ] スペイン語、ポルトガル語
Hérodote [ エロ ' ドット ] フランス語
〓イタリア語、スペイン語、ポルトガル語が、ラテン語の
-us, -os を
-o で継承していることがわかります。「キプロス島」 について、スペイン語、ポルトガル語で
Chipre という語形が現れているのは、「ガリシズモ」 Galicismo と言われるもので、「ガリア」 すなわち、フランスの語形を借用したものです。
〓本来ならば、スペイン語
Cipro [ ' すぃープロ ]、ポルトガル語
Cipro [ ' スィープロ ] となるべきものです。
〓フランス語では、のきなみ、語尾が
-e になっています。これは、ラテン語の
-us, -os がフランス語では消滅して 「-ゼロ語尾」 になったことを示しています。語末の子音が発音されることを示すために
-e が付いています。
〓よって、「メーロス島/ミロス島」 も、ロマンス語では
-o で終わるべきわけです。どうなるか。
Melo [ ' メーろ ] イタリア語、スペイン語、ポルトガル語
Mele [ ' メる ] フランス語
〓オカシイですね。実際には、どうなっているか。
Milo [ ' ミーろ ] イタリア語、スペイン語
Milo [ ミ ' ろ ] フランス語
Milo [ ' m α : j l o
U ] [ ' マーイろウ ] 英語
Milos [ ' ミーろス ] ポルトガル語
〓面白いですね。
〓ラテン語で
Mēlos 「メーロス」 であったものは、ゼッタイに
Milo にはなりません。それというのも、俗ラテン語 ── すなわち、ローマ帝国で話されていた民衆のラテン語 ── のアクセントのある音節で
i という母音が現れるのは、古典ラテン語で
ī (長音のイ) であった場合のみだからです。
〓短母音の
i でさえ、俗ラテン語では
e になります。長音の
ē は、もちろん、
e のままです。
〓ならば、上で起こっている現象はナニか、というと、“類推” なのです。
〓ラテン語をもっともよく保存しているイタリア語は、ギリシャ語との関係が深かったために、ギリシャ語の地名をも 「自国語」 のように処理します。それは、ちょうど、日本人が、「深圳」 を “しんせん” と読み、「胡錦涛」 を “こきんとう” と読むのに似ています。
〓すなわち、現代イタリア語の
Milo は、ラテン語から代々受け継がれた語形ではなく、おそらく、にわかに
Μήλος Milos という島が有名になったために、現代ギリシャ語音に “類推” を加味して、
Milo [ ' ミーろ ] “類推形” (本来は Melo)
となったものでしょう。
〓中国の地名
「深圳」 は、北京音では Shēnzhèn [ しぇンチェン ] と読みます。これを正しく日本語の漢音に置き換えるなら
深圳 「シンシン」
です。しかし、「圳」 という字は、まるで日本人にナジミがなかったために、ツクリの 「川」 を拾って、「セン」 と読んでしまいました。それとよく似た現象なんですね。
〓当時、ギリシャはオスマン帝国の支配下にあり、地中海は、イタリアとオスマン帝国が隣接していました。また、イタリア語は、ラテン語にもっとも近いロマンス語の盟主でもありました。
〓おそらく、そのために、フランス語、スペイン語は、イタリア語に範をあおいで、
Milo
という語形を選んだんでしょう。ポルトガル語は、現地音主義で、現在は Milos という語形を取っています。しかし、詳しく調べてみると、
Vênus de Milo 641件
Vênus de Milos 5件
※ Google ポルトガル。ポルトガル国内限定。
というぐあいに、圧倒的に
Milo を使っていることがわかります。つまり、
Milos というのは、最近になって現地音に改めた語形だとわかります。
〓英語の立場としては、
イタリア語を盟主とするロマンス語クラブで Milo を選んだ
からには、口出しすることができないんですね。ましてや、「ミロのヴィーナス」 を購入したフランスが、イタリア語形
Milo を採用した。
〓少し、説明がウロウロしましたが、ごく単純にしめくくってしまえば、
「ミロのヴィーナス」 の “ミロ” は
「ミロス島」 のイタリア語形
ということです。
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