ない、ない、ない。
印鑑がない。
おとついの水元の現場で落としてきたらしい。
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半年前にも無くした。
教科書体のシャチハタネーム9。
深川の現場だった。
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われわれ請け負ひには、ロッカーなどない。
現場々々、更衣室の床の隅が唯一の陣地である。
いきほひ物をなくしやすい。
改めて買ひ直したシャチハタネーム9は、なぜか、間抜けな明朝体のデザインだった。
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けふの竹ノ塚の現場は印鑑を多用する。
無しで済ますわけにはいかない。
自転車で駅の方に向かってみた。
文房具店があれば重畳(ちょうじょう)だが、ご存知のとほり、今どき書店と文具店は絶滅危惧種だ。
駅にでっかいダイソーがあれば手に入ると踏むが……
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ヨーカドーの駐輪場に停めてあたりを探すがダイソーのダの字もない。
いづれの路地を穴の開くほど睨めたところで、今から文具屋がピョコピョコと生まれるわけもない。
諦めて帰輪した。
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行きとは違ふ裏通りを走ってみた。
学校が見える。
と、眼の端に映ったのは、ウインドウ越しのネーム9の印鑑タワーだった。
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チャリを停めると、ヤバイ文具店だと判った。
ウインドウは曇って、永年、野原に放置されてゐた車の窓のやうだった。
狭い間口を入ると絶望に突き落とされた。
店の前半分は、通路を残し、板やら、電光看板やら、自転車やらが詰め込まれていて、その奥の棚には売り物のはずの品が埃をかぶっていた。
印鑑タワーはその奥にあった。
ウインドウのすぐ内側だから、かへって、もはや近付くことなど明らかに不可能だった。
店の後半部には、ノートと筆記具だけが並んでゐた。
文房具店ではなくて、筆記具店だ。
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鰻の寝床のやうな店舗のどん詰まりが、上框(あがりがまち)になってゐて、そこに座布団を3枚並べて、婆さまが仰向けに寝て御座った。
最後に取り付けそうな島はぐずぐずのベヨネーズ列岩だったのであるな。
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仕事の現場に戻り、呆然としながらも、もう一度リュックを確認した。
天袋、サイドポケット。
底の底の雨具を取り出す。
カッパ、ズボン。
もはやカラッポ。
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逆さにしてケツを叩いた。
パキッ。
コロコロコロ。
真っ黒なシャチハタネーム9が転がり出たのだ。
フタを開けて印面を確かめた。
わが名字だ。
ただし、教科書体だった。
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