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2024年04月30日19:47

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「瓦経残欠」と「経筒」

 今回は、「瓦経残欠」と「経筒」を紹介したいと思います。

 このうちの「瓦経残欠」は、平成7年に(今から29年前に)、地元の古美術店から買ってきたものです。

 私は、特に仏教美術に興味があったわけではありませんので、買った当座は、これがどのような物なのかを知りませんでしたけれども、その後、東京国立博物館でこの類品を見て(勿論、東京国立博物館に展示されている物は、もっともっと立派な物ですが)、これが「瓦経残欠」というものであることを知りました。

 もっとも、これが「瓦経残欠」であることは分ったのですけれども、私は、そもそも、その「瓦経」なるものがどんなものかも知りませんので、ここで紹介するに当たっては、全く知らないで紹介しても無責任ですので、ちょっと、ネットで調べてみました。

 次のようなものとのことです。





瓦経 (がきょう)
経塚に埋納するため,粘土板に錐,篦(へら)などで経典を書写して焼いたもの。〈かわらぎょう〉とも呼ぶ。方形,または方形に近い平板状が多い(縦約17〜27cm,横約10〜30cm,厚さ約1〜3cm)。通常表裏に界線・罫線を引き,1面10〜15行が多い。界線の欄外や側面には丁付(ちようづけ)(経典の種類,順序などを識別するための簡単な記載)が記されている場合がある。なお,仏形を陽出し,経典を各仏形の胸に1字ずつ刻した特殊な例もある。経典の種類は法華経をはじめ多岐にわたり,紙本経の経塚にはあまり見られないものもある。また瓦製の仏像,仏塔,仏画,曼荼羅などを伴う場合もある。経塚の営造には,経典を弥勒の世まで伝える考えがうかがえるが,瓦経は不朽性に着目して考案されたのであろう。早い例に鳥取県の大日寺瓦経(1071)があり,その後約1世紀の間に盛行。西日本に多く,三重県の小町塚瓦経(1174),京都府の盆山瓦経,兵庫県の極楽寺瓦経(1143),岡山県の安養寺瓦経,福岡県の飯盛山瓦経(1114)など,約30ヵ所が知られている。

執筆者:三宅 敏之 (出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)





 以上のことから、次に紹介する瓦経残欠は、経塚に埋納するために,平安時代の11世紀〜12世紀にかけて、西日本のどこかで、粘土板に錐,篦(へら)などで経典を書写して焼かれた瓦経の残欠だろうと思われます。


写真1: 瓦経残欠表面(仮定)
     瓦経残欠裏面(写真省略)

生 産 地 : 西日本
製作年代: 平安時代(11〜12世紀)
サ イ ズ : 縦9.8cm  横9.9cm  厚さ2.2〜2.3cm



 次に、「経筒」ですが、これも地元の古美術店から(「瓦経残欠」を買った店とは別な店)、平成14年に(今から22年前に)買ってきたものです。

 もっとも、私は、ただただ、この物の放つ緑青の美しさに惹かれて購入に及んだので、これが、本当に「経筒」なのかどうかは分りません(~_~;) 売っていた店主が「経筒」だと言っていたので、「経筒」なのだろうと思っているにすぎません。また、この物が作られた時代ですが、これも、店主が「鎌倉時代」と言っていたので、「鎌倉時代」なのだろうと思っているにすぎませんことをおことわりしておきます(~_~;)


写真2: 経筒
     横にしたところ(左側が底部分)

写真3: 経筒の蓋部分を外したところ


生 産 地: 不明
製作年代: 鎌倉時代
サ イ ズ : 長さ11.1cm  最大胴径3.7cm



  なお、実は、この「瓦経残欠」と「経筒」につきましては、両者を合わせて、以前、今では止めてしまっているかつての拙ホームページ「古伊万里への誘い」の中で紹介したことがあるのです。

 それで、次に、当時の紹介文を再度引用し、この「瓦経残欠」と「経筒」の補足紹介文とさせていただきたく存じます。




     __________________________


               <古伊万里への誘い>


*古伊万里周辺ギャラリー:「1 平成の納経 (平成14年2月筆、3月1日登載)」


 なじみの古美術店に遊びに行った時のことである。ショーケースの奥の隅の方に、なにやら私の心をひきつけるものを発見。しょっちゅう行っているんだけど、今まで気付かなかったものである。いや、新しく展示されたばかりだったので、気付かなくて当然だったのかもしれない。

 そんなことは私にとってはどうでもいいことである。そんなことは今までに何度も体験しているから。以前から展示されていたのか、新たに展示されたのかなど、最近の私は意に介さない。要は、今、現在、私の心をひきつけるものが何なのかだけである。

 それは経筒であった。ショーケースの奥の薄暗い片隅に、にぶく緑色に輝いていたものは、経筒であった(というよりも、店主がそう言うのだからそうなんだろう。だって、私は、経筒のことなど、よく知らないのだから。)。それは、ほの暗さの中に、にぶく、宝石のような輝きを呈し、一見、勾玉を思わせるものであった。しかし、こんなに大きな勾玉があるわけがないと、私の理性が判断する。そうだ、玉(ぎょく)であろう! 玉にちがいない! あの輝きでは! あるいは、私の好きな銀化したローマングラスか! ところが、結果は経筒であった。

 それほどまでに美しい緑青の出た経筒だったのである。私は、その緑青そのものの美しさに夢中になった。形が何であれ、そんなことは知ったことではない。時代だって、古かろうが、新しかろうが、そんなことはいっこうにかまわない。今、私は、ただ、その緑青の美しさの虜となってしまったのである。

 そこに、店主の追い討ち。「鎌倉頃の経筒です。」と!

 これはもう決まりである。「鎌倉頃の・・・・・」は殺し文句だ。即刻商談成立で、我が物となった。

 
 と、その時、私に或るヒラメキが走る。

 私は、7年程前から平安時代の瓦経(がきょう)残欠を所持しているが、それを拓本にとり、この経筒に納めれば、これぞ“平安の納経”ならぬ“平成の納経”になるではないかということを思いついたのである。そうすれば、鎌倉時代が平安時代を呑み込んだ形になるではないか、これぞ歴史の必然と、一人悦に入る。

 ところで、この瓦経残欠は、もともとは、本県随一の古美術の目利きといえる I 氏が20年程前に奈良の古美術店から購入してきたものであったが、I 氏の手違いから、不本意に I 氏の手を離れていったものであり、それが、まわりまわって私の所に来たものである。

 この瓦経残欠、さすが、I 氏の手元から不本意に離れていった I 氏の愛蔵品だっただけのことはある。両面に経文が刻み込まれていて珍しいうえに、書かれた経文が美しい。また、残欠となった部分の位置もちょうどよく、瓦の真ん中あたりに相当するものである。隅の方の部分の残欠では魅力に欠けるであろう。とにかく、見所と魅力が満載といった瓦経残欠なのだ。

 そこで、さっそく、知人から拓本のとり方を教わり、実行に移してはみたが、そうは思ったようにはうまくいかないものだ。でも、まあ、なんとか、瓦経残欠の面影をしのぶことはできそうなので、拓本の技術を磨いて再挑戦することにし、当面はこれでがまんしよう! 鎌倉の経筒に平安の経文を呑み込ませた平成の納経の完成!!


注: 拓本は、このホームページでこの文章を紹介する際には存在し、それも添えて紹介したのですが、あまりにも出来が悪いので、その後、破り捨ててしまいましたので、今では、存在しません(><)









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