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2024年02月27日23:20

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ゾロアスター教とソグド人 (奈良県立大学ユーラシア研究センター学術叢書シリーズ2 vol.4) 京阪奈情報教育出版 2023年03月31日

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p.120
そして何年かを経た五三四年、阿那瓌が、北魏最末期の混乱に乗じて侵攻するための下見を兼ねた使者を北魏に送り込んだとき、同道した安吐根は、柔然が北魏に侵攻しようと画策している内情を北魏の実力者である高歓に密告して恩を売ったのです。
 五三四年末から翌五三五年初めにかけて北魏が東魏・西魏に分裂し、柔然の方が外交的に優位に立つようになると、安吐根は自分の本拠のある河西回廊に近い西魏ではなく、かえって遠い方の東魏と気脈を通じるようになりました。すでに前年から、安吐根は高歓にわたりを付けていたことから見ても、彼はよほどしっかりした情報網を持っており、いずれ北魏の実権は高歓の手に移ると見越していたことを窺わせます。…
…前節では、西魏の実力者・宇文泰が酒泉胡の安諾槃陀を公式の使節団長として勃興直前の突厥に派遣したことを述べましたが、それはまさに高歓の東魏と柔然の連携に対抗するためだったに違いありません。
p.121
さらに安烏喚というブハラ人と史蜀胡悉というキッシュ人が、「イルテベル」の称号を有しています。
p.126
漢文版では商客と呼ばれ、遊埿埿槃陀とある。「埿埿槃陀」はソグド語のnnyβntkを漢字で音写している。ナナイないしはナナは本来メソポタミアの女神であったが、ソグドやバクトリアなどの東イランで広く信仰された。ゾロアスター教の女神アナーヒターと習合したとされる。ヴァンデ(βntk)は「男の奴隷」を意味するソグド語で、ヴァギヴァンデ(βγyβntk)「(ミスラ)神の僕」、マーフヴァンデ(m'xβntk)「月神の僕」など「〜神の僕」を原義とするソグド語の人名は多い。…ナナイヴァンデに対応する女性形のナナイダーイ(nnyδ'yh)も知られていて、ダーイは「女奴隷」を意味する。
p.127
メソポタミア以来、ナナ女神は獅子に乗ることが知られている。アーチに描かれた方は四臂になっていて、上の方の二臂は日月を手にしている。多臂であることや日月を持つことはインド文化の影響であり、こちらの方が新しい。この新旧のナナ女神像が併存するレリーフは、寄進者の衣装や風貌などから、6世紀、ソグドがエフタルの支配下にあったときの作例だと考えられる。この時代、エフタルの勢力は北西インドからソグドやタリム盆地を含む広い地域に及び、インド文化の影響がソグドにも伝わった。…例えばペンジケント遺跡の壁画ではソグドの風神ウェーシュパルカル(wyšprkr)は三面六臂で描かれている【図4−1】。…明らかにインドのシバ神と習合している。
p.129
実はこれはクシャーン朝下のバクトリアのオエーショ(οηϸο)神に遡る。οηϸοはソグド語のwyšprkrと同源であり、ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』の風神ワーユ(Vāyu)に由来する。
…髪を短く切りそろえている。顎髭は剃っている場合が多く、中国で見つかる明器の胡人俑(ソグド人を象った焼き物の人形)とはイメージが異なる【図4−2,3】。帽子もかぶっていない。キャラバンで移動する商人は帽子をかぶりひげ面になっていたのであろう。この時代の男子の正装であろうか、両サイドにスリットのある上着で、腰から下はエプロンのように見える。ブーツにズボンを押し込んでいるのは胡人俑と同じである。…特筆されるのは、アーフリーナガーンと呼ばれている細長いキノコ型の持ち運びできる拝火壇である。
…マスクは火を穢さないためにゾロアスター教の神官がするもので、現在のゾロアスター教徒はパダームと呼んでいる。
p.130
そして各都市に王はいたが、世襲される絶対的な権力者ではなく、都市に所属する有力者(土地を所有する地主や裕福な商人で、後のイスラム史料ではディフカーンと呼ばれた)たちの合意によってその地位が保証された。漢文史料では「国人」と呼ばれていた。…漢文史料の国人はソグド語ではナーフ(n'β)「人民」に当たると考えられ、グルネ教授は、この浮き彫りは当時のサマルカンドのナーフの一種の集合写真のようなものだと言っている。当時のサマルカンドのこのような社会構造は文化にも反映されていて、ササン朝に見られるような国家の威信を示すモニュメンタルな建築や芸術作品はソグドにはなく、有力者の邸宅の壁画に代表される、小規模で個人的かつ貴族趣味的な美術作品がソグド文化の特徴であるとされる。またササン朝のゾロアスター教のような国家宗教とそれを支える教会組織は存在せず、神官の地位は低かった。
p.131
春分で始まる一年が、各30日からなる12ヶ月と5日からなる短い月で構成される太陽暦を採用し、月の30日はゾロアスター教の神格名で呼ばれている。…
…そのためソグドのゾロアスター教を、ササン朝のそれと区別して「マズダ教」、「ソグドの宗教」と呼ぶ研究者がいる。ナナ以外にもギリシアの神格デーメーテールに由来するジーマト(δrymt)神、オクサス川の神格ワフシュ(wxšw)、漢文史料で得悉神として記録されたタフシーチュ(txs'yc)神などもソグドではポピュラーだったが、ササン朝では知られていない神格である。
p.132
名前が違う場合もあり、正統派のウォフマナフはアヴィヤーマン('βy'mn)と呼ばれていたようだ。アフラマズダーもソグドではタブーのために直接その名前で呼ぶことはなく、アードゥヴァグ(''δβγ)「最高神」と呼ばれ、アフラマズダーの名前は月の一日の名前でしか聞かれなかった。またササン朝では新年が本来の春分からずれてしまった関係で暦の改革が行われ、5日からなる短い月は8番目の月の直後に移動したが、ソグドではそのまま一年の最後に置かれていた。
p.135
それはローマ字転写すると次のように読める:[……]mwγšt'y wšt'y wšt''y 'štwxm'y twrt'y 'xwšt'yrtm(ソグド文字は子音文字で母音を表記する文字はない)。…
…天国を表すロフシュナーガルドマン(rwxšn'γrδmn)はアヴェスタ語のラオフシュヌムガロードゥマヌム(raoxšnəm garō. dmānəm「(原義)明るい歌の家」)に遡る。
p.136
例えばアヴェスタ語のアシュム(ašəm)は、さらに古い段階ではルタム(*rtam)と発音されていたはずであるが、この呪文の末尾のrtmがそれに当たる。この語が当時のソグド語に残っていれば、ウルトゥ(*ərtu)のように発音されていたはずである。…「天則(=世界の秩序)」と訳されているのがašəm<*rtmである。
 このようにわずかながら残されたソグド語のゾロアスター教文献のほうが、むしろササン朝の正統派で伝承されている文献と非常に似ていることが明らかになり、ソグドの宗教をめぐる謎が深まったのである。
p.138
その中から飛び出している神格をグルネ教授はスラオシャ(Sraoša)神と考えている。この神はタヌマンスラ(tanu. maθra)「聖なる言葉を身体とする」という形容辞で呼ばれるからであるとする。…ちなみにキヤヌーシュ・レザーニヤー教授は、この神格を死後の魂を迎えに来る女神デーン(アヴェスタ語のダエーナdaēna)ではないかとされる(『奈良県立大学ユーラシア研究センター学術叢書1』vol.4 ゾロアストリアニズムと奈良、2022、117頁参照)。
p.139
 ところで安伽の浮き彫りでは、パダームをつけた神官が二人描かれているが、下半身は鶏で極めて奇妙な姿をしている。これはアベスタ語でスラオシャーワルザ(sraoša.varəza原義「スラオシャ神のために働く者」)と呼ばれている神官であるとされる。…その意味でこの有翼の神官は死後の世界で祭儀を行っていることになる。
p.140
 大英図書館蔵のゾロアスター教のテキストはソグド語文献のなかではきわめてユニークだが、それと全く同じ書体で書かれた写本が敦煌で見つかっており、その内容も驚くべきものだった【図10】。同じ書記(神官?)が書写したに違いないこの写本は、イランの英雄ルスタムの悪魔退治の物語が書かれていた。…「秦王」は唐の二代目の皇帝太宗(在位626‐649)の即位前の呼称であるが、後に伝説化していた。ルスタムを胡、つまりソグドの秦王と呼んでいたことは興味深い。
p.141
多くの射手、多くの戦車に乗る兵士、象に乗る騎士、怪物に乗る騎士、豚に乗る騎士、多くの狐に乗る騎士、多くの犬に乗る騎士、多くの蛇やトカゲの上に乗る騎士、多くの歩兵、まるでハゲタカやコウモリ(?)のように多くの空を飛んでいく者、頭を下に足を上に向けた上下が逆の多くの者たち、彼らは咆哮しながら音を立てて進んだ。
p.142
 我が国の大谷探検隊が、トルファンで発見したソグド語写本の一部が現在旅順博物館に保管されている。その内の1点では、漢文の『妙法蓮華経』の紙背を利用してソグド語のテキストが書写されているが、裏に書かれたそのテキストには、「あなたは純金のように遠くまで輝きますように」とか「あなたは真珠のように穢れないように」というようなフレーズが繰り返されている奇妙なテキストである。興味深いことに、ルスタムやサームも含めて『シャーナーメ』に登場する動物や英雄も見られる。ルスタムの場合「あなたは勇敢なルスタムのように勇敢な騎士でありますように」とある。またルスタムを助ける怪鳥シームルグは、「あなたはセーンマルグ(synmrγ)のように賢くありますように」とある。ペルシア語のシームルグのソグド語形はsynmrγである。このように、ソグド語版の『シャーナーメ』が存在していたことは確実である。
p.144
マニ教では、信者に教義の内容を分かりやすく説明するために寓話を多用した。それらの中にはソグドの壁画に見られるのと同様、インドの『パンチャタントラ』や『イソップ寓話集』に見られる寓話や説話も残されている。
p.146
また敦煌出土のソグド語文献には雨降らしの呪術にかかわるものが1点知られている。北方遊牧民の間で知られているジャダ石を使った、天気を急変させる呪術だが、ソグド語のテキストにはあきらかにゾロアスター教との関連を示唆する部分があり、ソグドのゾロアスター教と遊牧民のシャーマニズムが混淆しているように見える。
p.150
そして一九七七年には、妻弘子の公立学校教諭の退職金によって、アフガニスタンに一ヵ月程、調査に行きました。
p.158
一九九三年、シルクロード学研究所にいました私は、一人でタシケントに行き、東京の創価大学からの留学生である川崎健治さんを訪ねました。…

 翌年の五月に加藤九祚先生とともに、シルクロード学研究センターの課題研究である「中央アジア北部の仏教遺跡の研究」で、キルギスに行くことになりました。



『光る君へ』最新話で「平安のF4」が活躍するポロ球技は史実か
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=53&from=diary&id=7754459

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回の『光る君へ』では、花山天皇(本郷奏多さん)の政治がさまざまな波乱を宮中にもたらしている様子が見られました。花山天皇が抜擢したことで急速に勢力が拡大した藤原義懐(高橋光臣さん)たちの一派に、藤原公任(町田啓太さん)ら「平安のF4」のメンバーまでもが接近していることを道長(柄本佑さん)から伝えられた右大臣家の藤原道隆(井浦新さん)は、公任らを自邸に招き、「漢詩の会」こと作文会(さくもんえ)を開催しました。

 泥酔した義懐が、公任たちを取り込もうと酒で接待する姿は下品でしたが、やはりそういう義懐たちと、宮中でも屈指の名門出身の公任たちが本当に馴染めるわけがないことを道隆は見抜いていたのでしょう。自邸で「漢詩の会」という優雅なイベントを開催し、漢詩を通じて彼らから政などの不満をそれとなく吐き出させた上で、さらにお土産に高価な装束を持たせるなどして懐柔したようです。

 会では「酒」というお題が出されました。道隆としては、公任が義懐の酒宴に出席したことを私は知っているぞと、やんわり知らせたかったのでしょうか。公任が詠んだ漢詩には政権批判も込められていましたが、道隆は怒ることもなく、「この国をやがて背負うて立つべき若き者たち」が何を願い、何を憂えているかを自分の心にも刻んだと受け止め、「そなたらと共に帝を支えたてまつろう」と場をまとめていました。

 ドラマでは父親の兼家から、何事に対しても踏み込みが足りないと注意されていた印象が強い道隆ですが、逆にそうであるがゆえに人を取り込んでしまう力は父親以上のようです。そんな通隆に一目置かれた藤原公任は、史実でも歌や漢詩の名手として有名な人物でした。

 また、この作文会のシーンでは、注目のファーストサマーウイカさん演じる「ききょう」こと清少納言が初登場しましたね。史実の清少納言と紫式部には、宮中に上がっていた時期が微妙にずれていることから、会ったことはなかったという説もあるのですが、ドラマではかなり早い時期に対面を果たしました。

 ウイカさんは、セリフなどを「もっと優しめに!」と監督から演技指導されたとインタビューで明かしていましたが、映像で見る限り、かなりクセ強めのお嬢さまキャラとして描かれていた気がします。一部では「KY」とも称されていましたが、顔にかかる左右の髪の毛先がピンとハネ上がっていて、彼女の上昇志向を表現しているようで面白かったですね。

 まひろと、ききょうの二人はともに「漢詩の会」の講師に呼ばれた知識人の父親を持つ娘として、高貴な方々の社交の場にお相伴したという、まるでヨーロッパの貴族の姫たちが社交界デビューするような描かれ方でしたが、史料的に裏付けがあるわけではありません。しかし、当時の日本ではすでに「女性は家にいるべき」という儒教的道徳観が根付きつつあり、そうした事情を反映して正式な記録としては残されていないだけで、実はそういうこともあり得たのかもしれないです。この問題については今回のコラムの後半部で考察してみます。

 さて、次回は作文会に続き、打毬(だきゅう)の場面が出てくるようですね。

 打毬競技は、日本では「まりうち」とも呼ばれ、平安時代の貴族たちが楽しんだスポーツです。当初は宮中で、華やかな国家行事として開催されていました。毬場と呼ばれる競技フィールドに、馬に乗った唐装束(=中国風の装束)の舎人(=とねり、天皇や貴人の側に仕える年若い貴族の子どもたちの呼び名)たちが二手に分かれて布陣し、毬場に投げ込まれた毬を、それぞれが手にした曲杖を使いながら、毬門というゴールに多く放り込んだほうが勝ちという競技です。

 もともと打毬はペルシャ発祥の競技で、それがシルクロードを通って唐代中国に伝わり、さらに中国から奈良時代の日本にも伝わったとされています。ペルシャからヨーロッパ方面に伝わった競技の後の姿が、イギリスなどで有名な現代のポロですね。

 騎馬打毬には高い運動神経と馬を操る技術が必要なので、日本では徒歩で行われる機会が増えました。同時に中国風から日本風の装束で行われるようになり、宮中の国家行事から、貴族の私邸でも行われる人気競技として、鎌倉時代になるまで競技人口を増やしていったのです。

 次回のドラマに打毬のシーンが登場するのは、寛和2年(986年)の5月30日と、6月6日に花山天皇が騎馬打毬を御覧になったという記述が『本朝世紀』などの史料に見られるからでしょう。

 同書によると、雅楽の楽隊が「打毬楽」を演奏する中、騎馬姿の舎人たちが打毬競技に興じたのは当時でもたいへん珍しい機会だったそうです。藤原義懐など身分が低い者たちの抜擢で宮中に波紋を呼んだ花山天皇は、自身の権威付けのため、盛大かつ正統的なルールにのっとった打毬の会を復活開催させたのだと思われます。

『本朝世紀』には、「右大臣(=藤原兼家)、玉打出於庭中之間」――右大臣が毬を毬場に投げ込んだとか、「兵衛官(=武官たち)」などが競技に参加したという記述が見られます。誰がどういうふうに活躍したという具体的な記述はないのですが、ドラマでは道長や公任といった視聴者に大人気の「平安のF4」のメンバーも活躍したのでは……という見立てなのでしょう。

 ちなみに唐代の中国では、高貴な男性だけでなく、女性たちも騎馬打毬を楽しんだという記述があり、彼女たちの競技中の姿を表現した美術品も多く製作されました。貴婦人が自分に仕える女官たちに、騎馬打毬を教えることもあったようです。意外かもしれませんが、中国本国では隋代、唐代と儒教の影響力が控えめでした。

 一方、日本の貴族の女性たちは……というと、さすがに当時の史料には打毬に興じる女性たちの姿は登場しませんが、それでも現代人が彼女たちに抱きがちなインドアなイメージとは異なり、実際はもう少しアクティブだったのではないかと思える記述が『枕草子』にはあります。

『枕草子』「故殿の御服の頃」には、清少納言が仕える中宮定子が、6月末の御払(おんはらい)という儀式のため、内裏の建物を出て、その南方に位置する太政官の朝所(あしたどころ)に宿泊したときの思い出として、早朝から女房たちが庭に出て遊んだという記述が出てきます。また、彼女たちの姿を見つけた若い貴公子たちが、よりよく見ようと高いところに登ったという記述もありますね。女房たちも特に恥ずかしがる様子もなく、清少納言は「公達たちには、庭に天女が下りたように見えたのではないか」などと書いているくらいです。

 それにしても、装束姿の女性が、広い庭にせよ、野外など歩き回れたのでしょうか?

『枕草子』の該当箇所にも「薄鈍色(うすにびいろ)の裳(も)や唐衣」、「紅の袴」などとあるのですが、当時の女房たちは、ドラマで見るような装束の着こなしを常にしているわけではなく、時と場合によって、歩きやすいように袴なども(それこそドラマで市場を歩くときのまひろのように)端折って着ていたのかもしれません。この連載でも何回か言及しましたが、実は紫式部や清少納言の時代の装束や、その着こなしについては不明な部分が多いのです。

 一般的には、御簾の内に籠もり、男女ともにインドアで文系というイメージが強い平安貴族たちですが、必ずしもそうではなかったという史実を『光る君へ』では巧みに表現しようとしているようですね。


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