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2023年11月29日20:17

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ZARD坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を中心に旅する 2023年第15回目 11月23日(木・祝)〜GOOD DAY〜 歴史を紐解くミステリー 源実朝の首塚 波多野氏の行方 ニホンジカ 戸川公園の紅葉

Microsoft社は、Windws xpの緑と青の壁紙のデザインを、セーターとして販売すると発表した。サイズは、「2XL」と「3XL」、価格は1万495円で統一されている。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=32&from=diary&id=7655469

 <11月23日 秦野 実朝祭>

全4章

  ZARDの坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を中心とした旅、2023年だけで15回を数えた。隣の伊勢原市と共に、このたび、鎌倉幕府3代将軍源実朝と波多野氏を中心に、鎌倉時代の歴史と秋色に染まった各スポットを紹介する。

 前14回目 11月5日(日) https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986313757&owner_id=32437106

 

第1章 源実朝と坂井泉水

11月23日、4年ぶりに秦野市東田原町にて、実朝祭が開催された。実朝とは、源氏の武将の一人である。戦を重ねる将軍よりも、和歌をたしなむ文化人のイメージを持つ。彼が編纂した「金槐和歌集」の内容から、文人として、争いを好まず、穏やかなイメージが漂う。
「新古今和歌集』の撰者藤原定家に師事された。

 写真=源実朝と「金槐和歌集」掲載元 Japaaan 2022年12月26日付
https://mag.japaaan.com/archives/191170
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 リンク 
鎌倉の右大臣の家集 古今和歌集 https://www.yoritomo-japan.com/kinkai.htm

 西暦1203年(健仁3年)に、兄頼家の死により、征夷大将軍に任命され、翌1224年に後鳥羽上皇の従兄弟、坊門姫と婚姻関係を結んだ。幕府の執政権を担うのは北条氏だった。実朝は和歌に関心を抱き、作品つくりに励んでいた。実際政治の場でも、将軍親裁を推進し、大江広元や北条義時に劣らないほど、手腕を発揮したとの見方もある。

 歌人としては、伊勢原の大山を彷彿とさせる句を残した。「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」

 大山の阿夫利神社は、雨乞いの神を祀ったとされている。2200年前の崇神天皇の頃に壮健され、雨降り山と言い伝えられた。江戸時代には、人口100万人のうち、年間20万人が参拝に訪れたと言い伝えられている。
 実朝自身、子供に恵まれず、優れた歌人としての血は途絶えている。跡継ぎを巡り、母親の北条政子は、わざわざ京都へ足を運び、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子と交渉していた。
当時、兼子は、後鳥羽上皇の皇子冷泉宮頼仁親王の養育を任される立場である。北条政子との間で、実朝の正妻坊門姫(西八条禅院)の甥にあたる頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたとみられている。
 
 実朝は、従兄弟である公卿によって殺害された。実朝を哀れに思い、鎌倉の御家人の一人である波多野忠綱が、33回忌に金剛寺を壮健する。

 ZARDの坂井泉水も実朝と共通し、感性が豊かで、言葉を大切にしていた。地元は神奈川県秦野市、緑豊かな環境で育ち、昭和時代、経済成長により、夢が膨らむ若者像を歌詞に反映させた。一方、景気の悪化に連れて、世の中暗い空気にのまれる中、失恋ソングも多くなる。

 その一つが、1998年12月2日にリリースされた27作目のシングル「GOOD DAY」である。 16作目の「新しいドア 冬の向日葵」と同時リリースされた。

 写真=GOOD DAYのジャケット
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 10月22日の横浜・みなとみらい、11月5日の秦野市、11月19日の奥多摩町を旅した失恋中の青年物語の続編である。間もなくリリース25周年を迎える「GOOD DAY」の歌詞と共に紹介する。


 前回の旅 奥多摩・青梅 11月19日(日)
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986394908&owner_id=32437106

第2章 実朝の面影を求めて
 
 登山道の景観について 街画コム https://machi-ga.com/entry/entry00349.html

 朝方7時に、小田急線の伊勢原駅に降り立った青年、既に人気の紅葉の名所である大山へ行くバスの停留所には、列が出来ていた。7時5分発のバスを一本見送り、10分後の臨時便に乗った。車内で席は空いていないとはいえ、立っている乗客同士の間隔は適度にある。大山バス停で降りると、石畳の階段を上り、標高696mの阿夫利神社下社に向った。

 道中、前を歩いていた男女の二人組みが、足を止めて、崖地を見つめていた。その方角には、2頭のメスジカの姿があった。日差しが届かない斜面で、下草を食んでいた。青年は、カメラのズームレンズを使い、顔を上げてこちらを向いてくれた瞬間、シャッターを押した。

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 シカといえば、古くから人々に身近な存在で、猟も行われていた。百人一首では、次のような句がある。「奥山に 紅葉踏みわけ鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋は悲しき」

 詳細 ちょっと差がつく「百人一首講座」より
https://ogurasansou.jp.net/columns/hyakunin/2017/10/17/316/

 人里離れた山の中、イロハモミジの葉が落ちる晩秋、オスシカの声が反響する様子を描いている。秋は繁殖の季節、葉っぱが残っている段階で、オスは、メスを見つけて、プロポーズをする。葉っぱが落ちきり、冬の冷たい空気に包まれる中、伴侶を得られず、一人冬を越すオスの悲しい叫び声が聞こえた。

 青年自身も、伴侶を得られないオスのシカと同じだった。「GOOD DAY」は、、一人ぼっちの青年の孤独感を表現している

 歌詞:「もし翼があったなら、迷わず forgive me, kiss me, and hold me tight あなたの元へと 失った歳月(つきひ)や 愛を連れて しがらみ全部 脱ぎ捨てて」

 確かに、孤独は寂しいとのイメージが付きまとう。鳥のように翼があれば、行きたいところへ自由にいける、我々人類は長くから夢だった。体の構造上、人間が空を飛ぶことはできない。鳥の場合は、進化の過程で、極力体を軽くすることにより、実現したのである。我々人は、優れた知能を駆使して、技術を開発し、1903年、ついにアメリカ人のライト兄弟によって、世界初の有人飛行に成功したのである。

 樹木によって日差しが遮られた沢沿いの薄暗い道は、川のせせらぎが聞こえた。エナガの群れが、枝から枝へと小刻みに移動している。エナガは住宅街でも身近な鳥の一種である。

 樹木を見上げながら歩を進めていると、小さな休憩広場に付いた。鎮座している前不動は、扉がきっちりと閉められていた。外観は、木がはがれている箇所があり、廃墟を髣髴とさせる。

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対照的に周囲の紅葉の木は、日差しが届いたことにより、赤味が引き立った。ここから階段を登ると、大山寺である。人気フォトスポットの一つ、大山寺へ続く急階段前の紅葉回廊が、参拝客を出迎えてくれた。

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 空にはやや雲がかかっていたとはいえ、横に張り出した紅葉の葉っぱは、人々の心を刺激するほど、鮮やかな赤に染まっていた。花言葉は、「大切な思い出」と「美しい変化である」
 青年自身も、恋人と過ごした日々を振り返っていた。

 続く歌詞 Aメロのサビ:「Good day ,and why don’t you leave me alone 諦めるよりも ああ やさしくなりたい、Good bye and somebody tell me why 泣くから寂しくなるんだよ」

 自分は、もっと素直になり、彼女へやさしく接したかった。
階段を登り、大山寺で参拝し、さらに高いところに位置する阿夫利神社下社を目指して、歩みを進めた。

 一気に勾配が上がる分、新たに設置されたスロープは、転落防止の観点からも心強い。標高694mの阿夫利神社下社は、既に登山客によって、列を成していた。紅葉の木も真っ赤に色づいている。境内では、ライトアップを彩るかのように、赤色と青色の傘が用意されていた。漆黒の闇の中に、ライトに照らされたカラフルな傘は、和風情緒を演出する。青年自身は、下社の境内から、はるか先の伊勢原市、その南の平塚市の町並みを眺めた。

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 Bメロの歌詞

{息がつまりそうなこの都会(まち)、「今日、この生活にピリオドを打つ決心をした」と、今度いつ逢えるの?と 聞けずに 言葉はいつも ハラハラ}

 <歌詞ではAメロのサビの歌詞を繰り返す>

 高い山の上から町を俯瞰すると、一人のヒトの日常は、自然の中で小さい出来事のようにしか見えなくなる。確かにたった一人の存在かもしれない。社会においては、一人一人の働き手によって、支えられる。現在はバスやトラックの運転手不足により、地域の交通網や輸送網に影響が出るといわれている。観光シーズンの大山は、朝から沢山のバス待ちの観光客で溢れかえっていた。大型二輪免許を持つ運転手が、出勤し、バスの乗務員として働いてくれることにより、伊勢原駅から、7km以上先の大山まで人々を運んでくれる。江戸時代から続く宿場町の名残となるおみやげ物屋が栄え、地域の文化が守られた。
 青年は、開けた空間に出て、新鮮な空気を吸うことにより、リフレッシュできた。足元に気をつけながら、元来た道を辿って、下山した。

 さて、今回も私自身のたびを、一人の青年に置き換えて、紹介させていただいている。2023年に大山には3度目の訪問である。一度目は、空気が澄む冬場の夜景撮影の対象者用としてケーブルカーの夜間運転期間に当たる1月29日(日)だった。2度目は、新緑の季節となる5月4日(木・祝)である。

 5月4日も、今日のように、混雑を避けて、朝早く訪問した。当時は瑞々しい若葉が生え、日差しをたっぷり浴びて、透明感が出ていた。11月は、日差しが弱い分、朝7時から8時代は、赤く色づいた紅葉がはえない。下山中の午前9時代、雲がとれてきて、陽を浴びることにより、一段とモミジの葉は赤味を帯びていた。伊勢原駅に到着した時間は午前10時前、臨時便が10分に1本出ているとはいえ、乗車まで数十分待たされる覚悟は必要だった。コロナによる制限もない今、フォトスポットとして定着した大山の紅葉シーズン、首都圏各地から押し寄せるほどの大盛況ぶりだった。

第3章 実朝の面影を求めて、田原ふるさと公園、戸川公園

 関連日記 7月23日(日)の旅 鎌倉時代の歴史 テーマ「二人の夏」
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985655301&owner_id=32437106

 青年が次に向った場所は、4年ぶりに「実朝祭」を開催している秦野市東田原町の田原ふるさと公園である。会場は首塚の真向かいに位置する中丸広場、芝を取り囲むように飲食用のブースが並んでいた。午前9時20分に、祭りの開始に合わせて、法要を行い、果物が添えられていた。

 写真=ふるさと公園の道中の田畑
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 写真=実朝の首塚
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 28歳の若さで、甥の公卿によって殺害された実朝は、悲運の武将として語り継がれている。公卿自身も、父朝家を殺害され、怨恨を募らせていた。後世の歴史家は、実朝殺害事件について、公卿の復讐心が引き起こしたと分析している。

 一方でただ単の公卿による父頼家の敵討ちでは片付けられない問題ともいえる。影で尾を引いていたのは、執政権を握った北条氏だった。

 振り返ると、1203年に伊豆に幽閉された頼家の死により、同年9月に弟である実朝が、征夷大将軍の後を継いだ。執政権を握っていたのは、北条氏だった。和田義盛の乱を鎮圧し、源氏の功臣・畠山重忠を倒して、一族を重要なポジションに配していた。子がいない実朝を討ち取ることにより、源氏の血が途絶えることになる。そこで公卿をそそのかして、殺害を企てたといえる。その公卿も源氏の血を引く武将だった。公卿自身も、実朝殺害の報いを受けた。事件の経緯を説明すると、実朝は、1219年1月27日、前年12月の右大臣就任を祝い、鶴岡八幡宮にて、式典に望んでいた。冬場は日照時間が短く、気付いたら真っ暗になっていた。足元に気をつけながら、社殿の石段を降りたときである。階段下のイチョウの木のそばで、公卿の襲撃を受けたのである。歴史書の一つ「吾妻鏡」によると、
後に随兵らが駆けつけたときには、実朝の亡骸に首がなかったと書かれている。公卿は、実朝を討ち取った証に首を持って、乳母夫である三浦義村の元へ、馳せ参じた。三浦義村は、確かに公卿の生い立ちを知る一人だった。彼の立場上、肩入れできない身である。和田義盛の乱により、波多野忠綱と共に、北条氏へ寝がえった経緯がある。北条氏に忠誠を誓う以上、養父として情けをかけることは許されない。公卿を裏切り、部下の武常晴に殺害を命じた。公卿は、三浦義村が差し向けた武常晴によって、誅殺された
。享年20歳たった。

三浦義村は、北条氏に仕えることにより、御家人としての地位を守りたかったといえる。実朝は、持ち去られた首の代わりに、髪の毛が添えられ、勝長寿院に葬られた。

一方、現在秦野市の東田原にある首塚は、公卿を殺害した武常晴が埋めた場所との言い伝えがある。現代人の心理では、憎き相手の物は、弊履のごとく捨て去りたい。当時の武将は、手柄を示すため、敵将の首を主君に捧げる必要があった。公卿を討ち取った武常晴が、実朝の首を見つけて、実際その場所に埋めたのか、確かな証拠は出ていない。当時、一帯を治めていたのは、御家人の波多野氏だった。波多野氏の当主忠綱は、和田義盛の乱の戦功を巡り、三浦義村とは亀裂が深まっていた。三浦氏に仕える武常晴が、なぜ宿敵の波多野忠綱を頼ったのか、謎である。首の埋葬には、波多野忠綱も関わったとされる。実朝の33回忌に合わせて、西暦1250年に金剛寺を壮健した。寺名の由来は、実朝の法号「金剛寺殿」にある。
 
 詳細 サライ.jp https://serai.jp/hobby/1089287
詳細 公卿悲劇の道 https://www.yoritomo-japan.com/ikusa/kugyou.html

 幕府の方は、3代目将軍実朝の後継の座に、初代将軍頼朝の遠縁にあたる藤原朝常が、わずか2歳で摂家将軍として迎え入れられた。摂政として引き続き北条家が振舞ったのである。

 武士の世界は、互いの利害関係から、同じ一族でも争いが勃発する。源氏を追い落としたのは、執政権の独占を図る北条家だった。北条家と、波多野氏とも無縁ではない。

 鎌倉時代の歴史を学んでいる青年は、田畑に引かれた通りを歩くこと、道路を挟んで北側の金剛寺から、兜を纏って列を作って歩く子供たちとすれ違った。祭りの見所の一つ「稚児行列」である。年端もいかない子供たちが、大人達に見守られ、会場へまっすぐ向う。後ろ側には、警察官も付いていた。秦野市は、実朝ゆかりの地として、古くから子供たちに、教育を施している。祭りを開催することにより、伝統を守ってきた。

 金剛寺は、11月5日(日)の文化財ウィークと同じく、重要文化財に指定された仏像が公開されていた。11月23日の祭りの日に合わせて、毎年境内の方も公開している。壮健から800年、歴代の住職が守ってきた掛け軸なども展示されていた。

 写真=重要文化財木造阿弥陀三尊立像
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 写真=境内の掛け軸
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 重要文化財が保存されている別宅の前に構えていた係員や、お寺の住職から話を聞くことができた。実朝を殺害した公卿を討ち取った武常春について、子孫によって詳しい資料が保管されているという。時折子孫によって講演会が行われていると教えてくれた。金剛寺を壮健した波多野氏については、室町時代以降市内にて痕跡が途絶えた。秦野市一帯を治めたのは、北条早雲を一代目とする後北条氏にとって代わっている。住職によると、室町時代に波多野氏は、富山県へ移住したという。その理由は歴史書に記されている。北条義時が、源氏滅亡への計略を企て、一族で幕府の執政権を握ると、京都の天皇家との戦いにも挑んだ。いわゆる「承久の乱」により、後鳥羽上皇を島根県沖ノ島へ島流しにすると、監視機関「六波羅探題」を置いた。順徳上皇は佐渡島に、倒幕に反対していたとされる土御門上皇も自ら進んで、土佐へ流刑の身となった。

 承久の乱において、波多野氏も積極的に北条氏に加担している。忠綱の子の一人である義重は、承久の乱の新恩地として志比荘の地頭職を得たといわれている。『正法眼蔵』(全機の巻)の奥書によると、曹洞宗の開祖道元を同荘に招き、のちに永平寺の大檀越となった。義重の跡を継いだ子息の時光は、「野尻」と号し越中国野尻(富山県福野町)を領していたと記されている。後世の歴史家は、義重と時光が、越中国野尻とともに志比荘の地頭職を受け注いだと推測している。以上の経緯から、波多野義重は、承久の乱による恩賞として越中国野尻とともに志比荘を受け、西遷していったといえる。 

 詳細 福井県史 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-07-02-08.htm

 歴史を紐解くには、古文書の内容を元に、発掘調査によって導く手法もとられている。例えば、古文書によると、鎌倉時代の秦野市一帯は、波多野一族が治めていたと書かれているものの、確かな証拠は出ていない。首塚についても伝承に過ぎない。金剛寺の住職の説明によると、実朝の位牌は現代にも残されていた。このたび一般の人々の前にお披露目された。

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 実朝が眠る秦野市の東田原地区、歌人として名を馳せた武将に、青年は同情する。

 一方で、別れた恋人の気持ちも痛いほどわかった。GOOD DAYのBメロからCメロへ繋がる歌詞に現れている。

歌詞:「もしあなたと、このままいればきっと後悔する日がくる」

 その通りかもしれないと、青年は納得するようになった。

 写真=田原ふるさと公園付近からの景観
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第4章 戸川公園へ

 私自身の旅は、田原ふるさと公園から、バス停田原入り口へと戻り、秦野駅と渋沢駅を結ぶ菩提経由のバス便に乗った。住職と歴史に詳しい係員の話から、秦野市から波多野氏の痕跡が途絶えた理由についても新たに学ぶことができた。室町時代に台頭した後北条氏に滅ぼされたわけではなく、富山県の方へと移り住んだようである。

 渋沢駅南口の商店街では、えびす講祭りが開催されていた。その一環として、「ZARD駅メロライブ」が開催され、一人の女性ヴォーカルと、一人のアコスティックギターを持つ男性から成るユニットにより、ZARDのカヴァー曲が披露されていた。周囲の住民に配慮し、すべてアコスティックギター一本のみ演奏する。すると、よりヴォーカリストの声量が試される。私が聞いた曲は、3rdシングルの「もう探さない」のカヴァーだった。バンドサウンドが入らない分、どうしてもテンポはゆったりとしてしまう。それでもヴォーカリストの声がよく透る分、味わい深さを感じる。

 詳細 ツィッター https://twitter.com/ayazard?utm_source=yjrealtime&utm_medium=search


 現在ZARDのトリビュートバンドとして正式に事務所の方から認められているのは、2019年にデビューした「SARD UNDER GROUND」である。彼女たちは、関西地方に拠点を置き、年に一度の東京と大阪で行うライブツアーと共に、インストアイベントで顔を出す。坂井泉水は、確かに癌による闘病中の事故によって、帰らぬ人となった。渋沢駅は、彼女が学生時代からデビュー後を通じて、頻繁に利用したことで知られている。2015年以降、上り線ホームは「負けないで」、下り線ホームは「揺れる想い」が、駅メロとして採用された。駅北口から徒歩5分以内でたどり着く西中学校は、彼女の母校である。市内にて、坂井泉水の功績は、しっかりと残っていた。

 写真 掲載元 11月25日 SARD UNDER GROUND STAFF Twitter
https://twitter.com/sardunderground/status/1728363450970382424
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 渋沢駅から一端上り方面に隣の秦野駅で降りて、駅構内の観光案内所で、紅葉情報を確認し、徒歩5分でいける今泉桜名水公園で小休憩した。11月5日と比較すると、桜の葉っぱはほぼ散ってしまっている。代わりに、水際で坂井泉水が好きだったカラーの花が育っていた。カモ類では、北国からオカヨシガモの集団が飛来している。毎年複数羽から成る群れが羽を休め、水中の微生物や藻を食べて、冬を越す。水辺の宝石と称えられるカワセミの澄んだ鳴き声も響いた。駅から近くて、駐車場も完備され、気軽に立ち寄ることが出来る公園だった。

  写真=公園内から1枚
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 渋沢駅に戻り、北口から発車するバスに乗り、11月5日(日)に続いて、神奈川県立はだの戸川公園に向った。引き続き、私自身の旅を、青年に置き換えて、辿っていく。


戸川公園の標高は340m、モミジの方は、緑と赤のコントラストを成す。青年自身は、舗装された坂を下りながら、色づいたモミジを眺めた。急に冷え込んだことにより、色づき具合は進んでいる。菊の花もきれいに咲きそろっていた。移り変わる景色を、人生に例えながら考えていた。

 写真=風のつり橋と菊の花
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 GOOD DAYのCメロのサビの一節

歌詞「Goo day and leave me alone 諦めるよりも ああ やさしくなりたい Good day 自分の弱さを忘れたいから 人はまた恋に落ちてゆく」

 確かに環境が変わるということは、また新しい一歩を踏み出す契機になる。青年自身は、過去に引きずられ、先に進めなかったのである。4月に新芽が芽吹き、連休前には、青々と葉っぱが生い茂ったモミジは、11月になると、赤く色づき始め、12月には散ってゆく。彼自身は、ただ景色を見ているだけであることに気付かされていた。

 写真=水無し川沿いから風のつり橋を見上げる
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 続く歌詞:「Good bye and why don’t you leave me alone 雨の中をどこまでも歩いた reason to cry Good bye walk away don’t you ask me why サヨナラだけが二人に残された言葉」
                               END

戸川公園には、梅の蕾が膨らみかけた1月から、2月下旬の早春の河津桜、4月の新緑、6月のアジサイ、8月のひまわり、9月のコスモス、四季を通して、足を運んだ。

 我々の生活は、例えとまっていても、必ず歳を重ねていく。植物を観察することにより、季節の変化を感じられる。動くことが出来ない身であるがゆえ、異性と直接の出会いの場はない。古くから、羽を持つ昆虫を利用して、情報伝達をしていた。その手段として一年で決まった時期に、蜜をたっぷりとつける。昆虫を誘い込み、花粉の運搬役を任せる。昆虫たちが花から花へ移動するうちに、雄花から雌花へと花粉が届けられる。昆虫は、無意識のうちに繁殖パートナーとして役割を果たしていた。

 青年自身も、気温の変化を敏感に感じ取る植物の世界の奥深さを感じた。帰りのバスは、いつになく、達成感に溢れていた。

 最後の夜景撮影の舞台は、小田急線で秦野駅から上り方面に一つ先の東海大学前駅から北へおよそ1km、北矢名町の住宅街である。東名高速道路を挟み、北側は、見晴らしの良さを売りに、一戸建て住宅が建てられた。反対に、東名高速道路の南側の平坦地は、住宅地の合間に学生向けのアパートが並んでいた。

 崖地に位置する同スポットから、海沿いの平塚市まで跨る秦野盆地を一望できる。

 写真=16時59分         写真=17時2分
フォトフォト 

空が暗くなるに従い、明かりが一つ、また一つと灯る様子に、心がときめく。青年は、11月5日(日)に訪れた際に謎だった波多野氏の行方について、新たに富山県の方へ移住したことを学んだ。歌人として名を馳せた実朝については、深く同情した。命がけで戦う武士の世界と比べて、現代の日本に暮らす我々は、いかに安全面が確保されているか、意識するようになった。心も晴れやかになり、颯爽とした足取りで、坂道を下っていった。いよいよ秦野市の平地では紅葉シーズンが始まる。



 
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