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2023年11月10日16:44

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ZARDの坂井泉水が育った丹沢山麓秦野市を旅する 2023年第14回目 11月5日(日)〜もっと近くで君の横顔を見ていたい〜 生田緑地 鎌倉時代の御家人波多野氏のルーツ、満月やパラの写真 文化財

 <ZARDの坂井泉水が育った丹沢山麓を旅する 2023年第14回目 11月5日(日)〜もっと近くで君の横顔を見ていたい〜>

 前回 第13回目 9月24日(日)テーマとなった曲「永遠」
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 前の旅日記 10月22日(日)横浜みなとみらい テーマとなった曲「きっと忘れない」https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986240999&owner_id=32437106

 前年同期 2022年11月3日(木・祝)秦野市、11月6日(日)生田緑地 テーマ曲 「Just for you」https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983690967&owner_id=32437106

 今回の主な舞台 2023年11月5日(日)
・秦野市、
・川崎市多摩区  10月29日(日)

 11月の3連休は、首都圏で最も遅い夏日を記録するなど、季節はずれの暖かい陽気に恵まれた。11月5日の首都圏の最高気温は23度に達していた。湿気がない分、春のようにさわやかな空気を感じられる。朝方6時代、多摩地区は曇っていたとはいえ、8時ごろ西の秦野の空はからりと晴れ渡っていた。

 11月上旬は、日本各地で文化財ウィークの一環として、各公共施設やお寺では、国宝級の展示品を公開している。秦野市内では、11月1日(水)から5日(日)にかけての5日間、秦野市博物館と由緒あるお寺により、国宝、または県の重要文化財が、一般の人々にお披露目された。文化財の公開に合わせた今回の旅、テーマは、2023年11月12日にリリース20周年を迎える、ZARDの37thシングル「もっと近くで君の横顔を見ていたい」である。

 同曲は、ピアノのやさしいメロディーから始まり、透き通った坂井泉水の声が響く。さびの部分は、アクセントをつけるかのように、ギターやドラムが入り、テンポが一気に上がっていく。

 リズムが変わる曲調から、大人しい若者が、秘めた思いを吐き出す様子が感じられる。

写真 掲載元 DJM https://djm.blogo.jp/archives/1071258703.html
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 旅の主人公は、失恋中の若者である。前回10月22日に「きっと忘れない」のリリース30周年記念に合わせた横浜みなとみらいの旅の続きである。当時、山手西洋館の装飾品を鑑賞し、公共施設の「ニュースパーク」にて、取材体験ゲームに参加した。新たに係員と会話をするうちに、知識を吸収し、見識が広がった。心が説き離たれた青年は、地上46階に設置された北仲ノットの無料展望台で、夜景を鑑賞し、決意が固まった。彼女への思いを手紙にしたため、ポストに投函した。例え距離が離れていても、思いをしっかり伝えれば、心を通わせることができる。返事を催促せず、待ち続ける中、新たに秦野市へと旅をした。なお本文の中で、10月29日(日)に訪れた神奈川県川崎市多摩区生田緑地バラ園と同じ区内の生田配水地展望台の夜景も紹介する。


第1章 紅葉が始まった戸川公園へ

11月5日(日)文化財の特別公開最終日に合わせて、秦野市を旅した青年、初めに神奈川県立秦野戸川公園を訪れた。標高は340m、園内一体開けているものの、風は穏やかで、幾分温かさが感じられた。

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 ビジターセンターを併設したパークセンター側でモミジの木の葉は、緑のままだった。コスモスは、摘み取りを終え、コキアは、既にふさふさの毛が倒れ掛かっていた。異彩を放っていたのは、白い花弁をつけたキンポウゲ科のシュウメイギクだった。種によってはピンク色になるという。暑さ、寒さにも強く、水はけが良いところで育ちやすい。季節的にまとまって咲く夏のヒマワリや秋のコスモスとは対照的に、どこかひっそりと芽を出している。その寂しさを漂わせる姿から、「薄れゆく愛」、「淡い思い」、「多感な時」、「忍耐」など4つの花言葉が産まれた。

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 朝一番に戸川公園に足を向けた青年も、今はじっと耐える時だと、認識するようになった。ZARDの37thシングルの「もっと近くで君の横顔を見ていたい」の歌詞では、寂しさを募らせる青年の気持ちを表している。

 Aメロの冒頭の歌詞:「もっと近くで、君の横顔を見ていたい。月を浮かべて、夜を語り明かそうよ」

 月が煌々と照る仲、一夜を明かしたことを思い出した。電気がなかった時代、暗闇の中差し込む月明かりに、人々は希望を見出していた。

 続く歌詞:「希望と安らぎをくれた 君とは想いも尽きないuh 夢を追っていたのは そう遠い記憶」

 青年自身も、恋人と月明かりを頼りに過ごした夜、今後明るい未来があると信じていた。幸せな家庭を築くことを夢見たものの、今は一人ボッチだった。

 
麓の水無し川へと続く舗装されたアスファルト道を下ること、風のつり橋の麓に咲く柿の木の葉が、赤く色づいていた。既に実は落ちてしまっている。我々ヒトは、古くから暑さが和らぐ秋に、脚立に上り、柿の木の枝から実を切り離して、籠の中に詰めていた。昭和時代は、子供たちが木に登って、実を採取していた。今もなお、里山へいくと、柿の木が育っている。シジュウカラやヒヨドリなど小鳥たちは、嘴を突っついて、汁を吸い上げた。実が落ちると、葉っぱの色づき具合が進む。隣の梅の木は、ほとんど葉を落とし、枝がむき出しの状態だった。

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水無し川沿いは、モミジやクヌギやコナラの紅葉はまだとはいえ、他の木は色づき始めている。朝方、川沿いに設置された遊具には、子供の姿はまばらだった。夏場賑やかだったバーベキュー広場も、ひっそりとしていた。

 真っ青な空の下、凛とした趣を成す風のつり橋を見上げると、いかに自分が自然の中で小さい存在なのか、気付かされた。

 もっと近くで君の横顔を見ていたいの歌詞

歌詞:「離れる程につのる想い、あの空へ届くといいな」

 確かに好きな人の声だけ聞いても、時に寂しさを感じてしまう。朝方雲に覆われていた空は、すっかり晴れ上がり、日差しがたっぷりと届いていた。

続く歌詞:「壊れてしまったオモチャのように、色を失ってしまった」

 離れていくうちに、鮮やかな色で染まった恋は、葉っぱのように枝から離れて、散ってしまう。青年は、新生活への準備に慌しく、デートの約束があるにも関わらず、断ってしまった。例えあのとき、しっかりと思いを伝えれば、繋がっていたのかもしれないと、自問自答した。

 歌詞:「心塞ぐ日々はいつも君がそばで笑ってくれたよね」

 歌詞のとおり、青年は心の中で、そう問いかけた。

 紅葉といえば、我々は黄色のイチョウの葉、真っ赤なモミジ、またはオレンジのクヌギやコナラをイメージする。既に、他の木々は冬へ向けて、準備を始めていた。

 ニシキギの木の葉は、緑から赤へ変わろうとしている。陽の光を求めて、高いところに枝葉を伸ばすことにより、幹は絡み合っていた。高いところは葉っぱが鮮やかに赤く染まるものの、根元はなお薄暗い。青年は、頂点から転落していく自分自身の恋と重なった。

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 園内では、イヌシデだろうか?オレンジの葉をつけていた。ファインダーをのぞきながら、風のつり橋が背景になるように、イヌシデの木を探した。

 確かにイヌシデやニシキギ、カキの紅葉は派手ではないとはいえ、季節の移り変わり目を教えてくれる。

 恋も派手にいくのではなく、程ほどがちょうどいいのではないのだろうか。互いの関係を続けていく上で、適度な距離感が大切ではないか、と判断した。

 続くサビの歌詞:「もっと近くで君の横顔見ていたい 月を浮かべて夜を語り明かそうよ」

写真=坂井泉水 生前唯一刊行した2004年のツアーの一幕
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 再び青年の心は、恋人と過ごした日に帰っていた。

歌詞:「たった一言で、二人の世界が謎めく ときめきと眠れぬ夜は、君との想いも尽きない um 夢を追っているなら そう光始める」

我々人は、言葉によって、相手の共感を引きだすことができる。あの時の夜に、どこかすれ違ったのかもしれない。学生を卒業して、社会人として一歩踏み出した青年、恋人目線からすると、確かにたくましく見えていた。

 青年の立場からすると、たったひとりでの生活はつらいものがあった。悩みを抱えている自分からすると、雄大な山に抱かれた風のつり橋は、理想像として移る。安定感と共に、拡張高く、川を挟んで行き交う人々の架け橋になる存在だった。我々人も、学生の間では公務員や大企業への就職など安定志向を持つ。リーダーシップを発揮し、信頼を得られると、出世街道に乗る。要職に就くと、所属する会社や自治体の方向性を左右する決定権を持つ。確かに責任感は重いものの、上手くことを運べば、人々から評価される。頼もしい大人像と、凛とした趣の風のつり橋の姿が、合わさっていた。

 つり橋を挟み、対岸の川沿いでは、ススキの穂もなびいていた。風がなかった分、茎の部分は、しっかりと起き上がっていた。

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 舗装された道を登ること、茶室の中へと入り、松の木が育った日本庭園を散策しながら、風のつり橋を見上げる。5月21日(日)には、センダンの木の葉ごしに、風のつり橋を撮影できた。センダンの葉は、緑一色に染まっていた。

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 さらに4月上旬に満開の八重桜が出迎えてくれた見晴らしの良い広場の方へと移動する。一本一本の木々を近づいて観察すると、色の変化がわかる。一方で公園の全体像を俯瞰すると、紅葉シーズンは、まだ先のことだと感じてしまう。青年は、川沿いに吹く穏やかな風を受けながら、ゆったりとしたひと時を過ごすことができた。

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      第2章 バラ園からコスモス畑へ

 秦野の歴史を書いた日記 2023年第11回目 7月23日 テーマとなった曲「二人の夏」
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戸川公園の次に訪れたのは、水無川沿いに3km離れた「はだの市立博物館(旧桜土手古墳公園)」である。入館は無料、定期的に企画展を開催している。今回は、『村の戦いと暮らし−江戸時代の秦野−』、戦前から現代までの小学校の分布図を作成したパネルと共に、当時の写真も掲載されていた。

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 常設展では、市内の遺跡から発掘された土器の展示と共に、鎌倉時代の歴史を紹介するコーナーもある。秦野市に拠点を構えた豪族といえば、平安時代末期に出現した波多野氏だった。前9年の役で活躍した佐伯経範を祖とし、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・藤原公光が相模守となったことが波多野氏の起こりと考えられている。経範の母は佐伯経明の娘であるために佐伯氏を名乗ったという。秦野盆地一帯に勢力を張り、沼田郷・河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。七代目の秦野忠綱は、鎌倉幕府3代目の将軍源実朝の死を痛み、建長2年(1250年)に、十三回忌を弔うため、波多野荘の金剛寺を中興したと伝えられている。

 田原ふるさと公園の脇にひっそりとたたずむ実朝の首塚の五輪塔は、十三回忌に合わせて、木造から石造に換えたという。木造の五輪塔は、現在同じ神奈川県内の鎌倉国宝館に収納されている。

 さて秦野市の歴史の始まりを築いた波多野氏だが、正確にどの場所に拠点があったか、わかっていない。伝承によると、東田原地区の東中学校の裏手の休耕田に城跡があったといわれている。現場にはひっそりと石碑が佇む。実際4度に渡り、周辺地帯を発掘調査した結果、城跡を示す手がかりは得られていないという。実朝の首塚に程近い、東田原丸遺跡からは、瓦家や青磁などが出土した。一帯を治める主の家跡を示す根拠になるとはいえ、豪族が暮らした城跡としては、資料的には乏しい。

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 古文書では、確かに波多野氏は丹沢山地の麓一帯に勢力を拡大したと書かれている。発掘調査から、全容については掴めていない。室町時代には、後北条氏にとってかわり、波多野氏の功績は消えている。市の教育委員会、または大学の考古学のチームによって、波多野氏の手がかりを求めて、調査を続けていく。

 青年が次に向ったのは、水無川沿いに下流へ1kmの距離に位置する秦野運動公園(カルチャーパーク)である。陸上競技場とテニスコートを併設した園内の川沿いの方向に、バラ園が設けられていた。夏の暑さの影響により、例年より秋バラの開花は遅れ気味だった。

 陽が照ってくれたことにより、バラの花びらが艶を帯びる。逆光を意識してシャッターを切ると、背景がきれいにぼけた。


 花言葉は、色事につけられている。例えばピンク色は、「お淑やか」「上品」「可愛いらしさ」を意味する。

 詳細 意外と知らない?バラの花言葉の豆知識 https://www.fujitv-flower.net/rose/column/languageofflower_f/


 ピンクといえば、赤色と白色を混ぜて作られる。赤といえば、派手さから「情熱」を連想させる。透明感が漂う白を混ぜることによって、冷静になれる。

 青年自身も、派手な色よりも、お淑やかなイメージが漂う色の花を選んで、撮影した。
   
  品種 ビバリー         品種 ポンポネッラ
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 先週10月29日(日)には、川崎市多摩区生田緑地のバラ園にも訪れた。暑さの影響により、開花は足踏み状態で、花びら自体は小さかった。
 
品種シーガール         品種プリンセス・ドゥ・モナコ
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 色鮮やかなバラを見ると、心が晴れやかになる。先の博物館においては、波多野氏のルーツについて興味を覚えた。なぜ豪族にも関わらず、屋敷の痕跡が出てこないのか、分かっていない。室町時代に波多野氏の足跡が途絶えた理由についても、謎である。どんな分野でも、突き詰める研究者の存在によって、新たな知見を得ることができる。あくなき探究心が、新発見を生み出し、新薬の開発や医療技術の分野にも応用され、我々の暮らしに大きく役立った。

 カルチャーパークから、小走りして、西田原地区の田園地帯を巡る。ふるさと公園、金剛寺を経て、バス停「東中学校前」へと至るコースを辿った。
7月22日の真夏にひまわりロードと化した田園地帯では、ピンクの花をつけたコスモスが咲いていた。9月24日と比べても、着実に株数が多くなっている。

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周辺では、地元民との交流の一環で、ラオス人が加わり、休耕田を利用して、蓮の種をまいた。こまめに水遣りを行った結果、2023年の夏に第一世代が開花した。散策路のコスモスを鑑賞する中、遠くから外国語が飛び交っていた。3連休の最終日、花を育てたラオス人のグループと地元民の交流会が開かれていることが予想される。言葉の壁に直面する中、花を通すことにより、互いに意思を伝え合う。同じ気持ちを抱くことにより「共感」が生まれる。99年から秦野市内で展開する「花いっぱい運動」は24年目に入り、着実に人と人の心を繋ぐ架け橋になっていた。


 田原ふるさと公園内では、ひまわりロードに比べても、コスモスの株数が多かった。

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コスモスの語源は、ギリシャ語で「秩序」や「調和」を意味する。確かに我々の暮らしにおいても、決められたルールに従う秩序正しい行動が求められる。近年は、エコを意識して、秦野市のように自然と調和した暮らしが、理想像と語られるようになった。

 世界では、2022年2月24日に、ロシア軍によるウクライナ侵攻を皮切りに、領土を巡る争いが耐えなくなった。2023年10月7日には、中東のパレスチナのガザ地区を実効支配するハマスが、突如隣国のイスラエルに攻撃を仕掛けた。イスラエルが報復に出ることにより、一般人を巻き添えにした戦争状態になった。争いが起こる背景には、民族問題がある。

 ガザ情勢により、忘れ去られているのは、中東の一つの地域「ナゴルノ・カラバフ」である。2023年9月19日に、国際的にはアゼルバイジャン領と認められている日本の京都府程の広さのナゴルノ・カラバフ地区で、事件が起こった。アゼルバイジャン軍が、敵対するアルメニア人の占有地域に踏み込み、武力で鎮圧したのである。翌9月20日に、アゼルバイジャンのアリエフ大統領により、「対テロ作戦完了」の宣言が出された。9月30日次点で、人口15万の地域内で、12万のアルメニア系住民のうち10万5000人が、故郷を後にしたといわれている。1991年9月2日以降、アルメニア人によって結成された「アルツァフ共和国」の自治政府は、アゼルバイジャン軍に全面降伏する。9月28日にサンベル・シャフラマニャン大統領は、アゼルバイジャン側が作成した「2024年1月1日には、全ての行政機関や団体を解散する」との法令に署名した。したがって、アルメニア人の自治政府の解体により、アゼルバイジャンが同地域を掌握したことになる。

写真=シャフラマニャン大統領 掲載元 National Assembly of Republic of Artsakh/PHOTOLURE/AP/FILE
CNN.co.jp https://www.cnn.co.jp/world/35209692.html
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アゼルバイジャン人の多くは、イスラム教シーア派、対してアルメニア人は、キリスト教の一派アルメニア教を信仰する。宗教の違いから互いに歩み寄れず、最後は武力で領土問題に決着がついた。今世界は第2次世界大戦以来の混迷期を迎えている。

第3章 平和へのねがい、文化財を観覧する

秦野市を旅している青年は、紛争地域にとどまっている人々のことを気にかけていた。遠く離れた日本からは救いの手を差し伸べられない。せめても平和を願い、お釈迦様の前で祈りを唱える目的があった。

 実朝の33回忌に建立した金剛寺へと足を向けた。ふるさと公園から道路を挟んで向かい側に鎮座するお寺は、文化財ウィークにあわせ、特別に重要文化財が収まった別宅が開放されていた。真ん中の「木造阿弥陀三尊立像」は、令和4年8月19日に秦野市の重要文化財に指定されている。お釈迦様は、大らかで、どんな悩みも聞き入れてくれた。仏教の教えでは、民族の差別をせず、共存を理想像とする。紛争が起こる中、より人々の心に響いていた。

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 次に訪れた蓑毛町の大日堂は、全面撮影禁止、毎月第一日曜日に、地元の有志団体によって、一般向けに国宝級の重要文化財が公開されている。

 蓑毛からバスで秦野駅へと戻り、いったん観光案内所へ足を運んだ。8月21日と、9月24日に対面した職員が出迎えてくれた。50年ほど前の秦野市の状況についてたずねた際、社会化見学の一環で、古くから史跡めぐりを行うことを教えてくれた。坂井泉水自身も、周辺地域が開発される中、古き良き秦野の文化に触れたことが想像できる。若者の友情をテーマにした作品は、発展していく町並みとも合わさる。新たに彼女の世界に触れることができた。

 駅南口から距離にしておよそ400m、今泉桜名水公園に隣接した大岳院でも一般市民向けに、重要文化財が公開されていた。昭和46年7月26日に重要文化財に指定された「木造十一面観音菩薩(もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつ)立像」は、左隅の箱の中に納まっていた。メインとなるのは、真正面に居座った金箔に塗られた4体のお釈迦様だった。常駐した係員によると、手前の最も小さなお釈迦様は江戸時代産まれであるものの、その他3体は1000年前に彫られたという。表面が金箔であるがゆえ、木に比べると、酸化しにくい。ほとんど修復することなく、今に至ったという。

 フォトフォト

偶然居合わせた来場者と係員の会話によると、軍事工場があった平塚市や小田原市では、二次大戦に空襲により、貴重な文化財が焼かれたという。ここ秦野市は、二次大戦では都会からの疎開地域になっていたと教えてくれた。相次ぐ地震による被害も最小限にとどまり、1000年間も住職によって守られたのである。長いときを経て、人々を見守り続けたお釈迦様、その神々しさに頭が下がる思いである。神聖な空気に触れて、疲れも吹き飛んだ。

 外に出た青年の気持ちは、「もっと近くで君の横顔を見ていたい」のBメロからCメロへと繋ぐ歌詞のとおりだった。

歌詞:「寂しさで人は愛に苛立ちを覚えていく、でも人は寂しさで強くなってゆくよね」

 我々人は、孤独になると、嘆いてしまう。進学や就職、転勤により、恩師や友人、恋人と離れ、見知らぬ土地にいくと、ホームシックになりやすい。たった一人で新天地を切り開くことにより、新しい自分に生まれ変わる。

 続く歌詞:「遥かな旅をしている。行き先は君にゆだねたい」

青年自体は、心の迷いを解き放つべく、旅をしていた。その行き先は、恋人にきめてもらいたかった。新たに本心が見えてきたのである。

「秋の日はつるべ落とし」の語源のとおり、午後4時には陽が傾きかけていた。朝8時ごろから空は雲ひとつなく、快晴だった。

 今泉町の住宅街を抜けて、秦野桜道を横切り、渋沢丘陵を登った。毎回旅の終着地は、盆地全体を見渡せる渋沢丘陵の高台である。

 午後4時40分には陽が沈み、丘陵地の畑には影が出来ていた。一人の男性が、桑で土を均している。

 夕暮れ時風がややひんやりとしたものの、日中に掻いた汗が吹き飛ぶほど、気持ちよく感じた。

 初めに、10月29日(日)に生田緑地のバラ園後に訪れた生田配水地展望台からの夜景を紹介する。この日は休日の満月、既に高台では、三脚を据えたカメラマンがスタンバイしていた。東側のビル群の上空には、うっすらと雲がかかっていた。トワイライトタイムの終わりに雲間から月がのぞくことにより、建物自体に立体感が出る。

    17時15分           17時25分
 フォトフォト

 生田配水地は、見晴らしの良さを求めて、新たに2016年に展望台として整備された。ワンチャンを連れた地元散歩客の憩いの場としても定着している。

 11月5日(日)、秦野市渋沢丘陵・今泉町の高台でのトワイライトタイムは午後5時から始まる。次第に空が暗くなるに従い、盆地から灯りが浮かび上がる。

 青年の心も明かりのように瞬いた。

     17時2分
 フォト

 Cメロのサビ:「もっと近くで君の横顔見ていたい コンクリートの壁 枯葉散る 夕暮れ二人歩こうよ」

 君がいれば、もっときれいに見えたのかもしれない。現地では、農作業している一人の男性の姿もなくなっていた。

   

 続く歌詞:「せつなくてせつなくて 会いたい 私を照らす一点の灯り、希望と安らぎをくれた君とは想いもつきない uh.」

 素直に秦野の町に向って思いを叫んだ。

 歌詞:「華やいだ季節 遠い記憶」

    17時7分            17時12分
 フォトフォト

 ついこの間のことでも、楽しかった日々は、昔のことのように感じてしまう。いかにつらさを乗り越え、新天地を切り開くのか、今が正念場である。青年も理解していた。

  写真 掲載元 Bllboad Japanより https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/96974/2
 フォト

 正しい行いをすれば、仏様は見守ってくれる。色づいたもみじを眺め、歴史を紐解くミステリーに興味を覚え、ピンクのコスモスに心がひきつけられた。今日の思い出は、次へ繋がる。灯りが瞬く盆地へ向って、確かな足取りで歩き出した。
 

 
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