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2023年11月29日10:02

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二人の薄のろ(前半)

二人の薄のろ

スヴィトラーナ・ピールカロ
藤井悦子、オリガ・ホメンコ編訳

時 1990年代前半
場 キーウ
人 ワシーリ
  アリス

ワシーリ (独白)人間は魂だけの存在ではない。肉体上の欲求からは、どうしても逃げられないんだ。おまえは、人間が肉体を持たない清浄無垢な魂であってほしいと望んでいるようだが、考えてもごらん、それは異常だよ、だって人間としての美しさを追求してきたのは、ほかでもない、神人同型論なんだから。人間が肉体なしに美しいということはありえない。肉体がなければ、美しさは存在しない。それでもおまえは、人間は魂だけの存在であってほしい、同時に人間としての姿もそなえていてほしいと望むのかい。だけど、かりに、人体のあらゆる器官が、美学的機能以外の機能をいっさい停止してしまったとしたら、どんな意味が残るというの? 鼻にはどんな美学的機能がある? 肝臓には?自分はただの病人だと認めるべきだ。まともじゃないね。人間は不幸な生きものではない。人間は美しい生きものなんだ。この世には、奇跡としかいいようのない素晴らしい人びとがいる。みんなと同じように、食べたりトイレに行ったりする天才がいる。だが、彼らは天才なんだ。おまえとは月とスッポンだ。おまえにできるのは潔癖症になることだけだ。おまえはだめな人間だ。
毎朝トロリーバスに乗るたびに、ぼくはこんなことを自分にむかってしゃべっている。毎日、すくなくとも二回、ラッシュのトロリーバスで苦痛に耐えている。車内は人であふれ、みんな、いやな臭いをさせている。夏は汗と垢の臭い、冬には濡れた帽子の臭い、吐き気をもよおすようなタバコの臭い。検札係は、ひとり残らず二日酔いの臭いをさせている。毎朝、人間はすばらしいのだと自分を納得させようと努力する。たまには新しい根拠も見つかるけど、たいていこんなふうだ。残念ながら、効果はほとんどゼロに近い。
たとえば、あの女性。タクシーを拾おうとしているところを見ると、金はあるんだろうな。でもストッキングには伝線がはいってるし、爪のマニキュアがちゃんと落ちてないのがここからも見える。ところで、女どもはどうしてマニキュアをするか知ってる? マニキュアを塗っておけば、そのあと磨かないでもいいからさ。別れた妻がそうだった。三日も磨かなくていいんだ。でも、どっちみち、マニキュアなんてたいした意味はない。人間には6メートルもの腸がある。その中には、爪の垢とは比べものにならないくらいたくさんのごみが詰まっている。人間は、一日に3回も、死んだ動物や魚の肉を自分の身体に詰めこみ、食べ過ぎ、満腹してげっぷをする。たべたものは全部、胃の中で分解され、歯のあいだで腐敗する。そのあとで、トイレから出てきて顔をしかめる。ふーっ。臭いが気に入らないのだ。だけど、トイレは人類の寺院というべきかもしれない。もっとも大切な儀式のシンボルが描かれた、祭式の場所なんだ。人間には三位一体の意味がある。すなわち、食べ、腐敗して悪臭をはなち、生殖することだ。生殖についてはなにも言いたくない。このおぞましいことを考えるだけで、へどが出そうだ。自分は違うのか、と誰かに訊かれたら、ぼくはほとんど殺菌消毒済だと答えよう。おそらく、キエフでいちばん清潔な人間じゃないかな。一日に4回、歯を磨く。挨拶するときは、手をにぎらないようにする。他人の汗や皮膚の一部が自分の手にくっつくと想像するだけで、気分が悪くなる。公共の交通機関では、もちろん、手すりにつかまらないようにしている。タクシーには乗らない。車を買うために金をためているところだから。車を買ったら、その車には、ぼく以外に誰にも手を触れさせない。
ひとつだけ、例外がある。赤ん坊は汚くない。でもそれも、ほんの短い間だ。ホルモンが分泌されるようになると、きれいだった赤ん坊は、にきび面の少年になり、それから太ったおやじになり、かびのはえたじいさんになる。あるいは、ばあさんに――こっちのほうがもっとひどい。なにしろ、女たちときたら…
ようするに、ぼくは病気なんだろう。人間は清潔であってほしいけど、そんなことは不可能だ。ぼくの願いはふつうじゃないんだ。ぼくは自分の糞とおなじように、きみたちの糞も愛すべきだ。なぜって、きみらのもぼくのと同じ自然現象だから。だけど、ぼくは自分のもきみたちのも好きじゃない。もちろん、ほかの人がみんなぼくと同じだったら、人類は滅びていただろう。そうなったって残念じゃないさ! 虫歯だらけの人類は滅びてもしかたがないよ。ひょっとしたら、どこかで別の姿に生まれ変わるかもしれない…でも、ぼくが触らないようにしている、このホームレスに生まれ変わるなんて、誰も想像していないだろう。ほら、ごらんなさい、彼の身体の下から水が出てきた。これが彼の本質なのだ。魂が彼の本質であるのと同じく。彼はあらゆる感覚をなくしている。
ぼくは想像上の相手と会話するのに慣れている。もちろん、それは友だちがいないせいだ。ぼくだって、ほかの人間と同じように社会性をもってるから、誰かと話をする必要があるんだ。仕事の同僚とはこんなことは話せない。だって、医者が医者に、人間の肉体の汚さを話すなんてまがぬけてるから。ぼくは眼科が専門です。昔は人類の眼を開きたいと望んでいた――なにに対して眼を開かせたかったのか覚えてないけど…。仕事を変えてもいいけど、ほかにできることもない。医学部に入ったときには、将来どんなことがぼくを待ち受けているのか、まったく自覚していなかった。あるときは、女の腹の皮が溶けてベッドにひろがり、まるで毛布のようにベッドを覆っているのを見た。大腿骨骨折、帝王切開、癲癇患者も見た。それ以来、人類が美しいという嘘を信じていない。どこが賞賛に値するというのか? もしかしたら、人間の理性が美しいのか? だが、どこに理性があるというのだ! 人間はまったく愚鈍だ。人間は、ヒトラーやルカシェンコやジリノフスキイに投票してるじゃないか。強制されたわけではなく、自発的に。ばかは死ななきゃなおらないのさ。「宗教心」がなくなったとか、若者がドラッグにおぼれているとか、人は不平をならべる。「昔は良かった」というけど、ぼくには今のほうがまだましだ。石鹸や練歯磨きのなかった時代をおぼえてるよ。身体を洗う石鹸がないのは、ぼくにはたまらない恐怖だった。つてを探して、運ぶのに苦労するくらい大量のインド製の石鹸を、倉庫から直接買いとった。そのうち石鹸が干からびてきたので、年金生活のひとにあげてしまったけど。

マリア 世界は二つに分かれている。タクシーに乗る者と、トロリーバスに乗る者に。地下鉄に乗るのは、ひとつめのグループのなかのやや貧乏な人間と、ふたつめのグループのやや金持ちの人間。わたしもこのなかに入る。わたしは、タクシーに乗るのがだいすき。タクシーではタバコも喫えるし、おばさんたちもいない。トロリーバスにはおばさんたちがいっぱい。ちょうど今ひとり、後寄りのドアから乗ろうとしてるわ。朝から酔っぱらってる男たちの群れを、押して動かせると思ってるのかしら、年寄りなのに。ほら、ごらんなさい、ぐいぐい押してるわ。ドアが閉まった。男たちがおばさんのほうに倒れかかり、おばさんはドアに押しつけられる。おばさんは、カラスのようにガーガーわめいてるわ。いちばん近くの男の背中を押しのけながら、「ちょっと、あんた、息ができないじゃないの!」と文句をいってる。男はまったく理にかなった返事をする。「おばさん、息をするか、トロリーバスに乗るか、どっちかにしな!」後寄りのドアの近くにいる乗客が、いっせいに笑い声をあげた。
わたしはラッキーだった。すわれた。ガムを噛む。信号で停まるたびに、この若者がわたしの上に倒れてこなければ、カミュを読めたんだけど。カミュはすごく好き。とくに理解できる部分が。隣の席が空いたけど、ほら、また、ワルキューレのように空中を飛んでるわ。わたしは他人に忠告するのが好きなたちなので、若者に「すわったほうがいいわ」とすすめた。首を振ってる。すわりたくないみたい。「それじゃ、なにかにつかまったら」と賢明な忠告を与えつづける。ほっぺたがぷるんぷるんと揺れはじめた。つかまりたくないらしい。たぶん、手が痛いんでしょ。そうでなきゃ手すりにつかまるのがいやなんだわ。最後の慈悲深い提案をする。「それじゃ、両足を踏ん張って、信号で停まるときはしゃがんだらどう?」あら、いうことをきいたわ。この人、今にも吐きそうな顔をしている。酔っぱらいの男たちを見るときの目つきは病的だわ。おでこに書いてある、「ぼくはこんなところでなにしてるんだろう」って。上流階級気取りのとんま!
わたしもある時期、似たような考えにとりつかれていたことがあった。他人が触ったところに触るのがいやだった。聖餐を受けるときは死ぬ思いだった。そのうちなんともなくなった。花見のさわぎのように消えてなくなった。
わたしの顔を見て、しかめっ面してるわ。ばっかみたい。言ってやった。「人間社会を憎んでるのはわかるけど、それは正しくないわね」あの人の驚いた顔ったら! そんなこと言われるなんて、夢にも思わなかったでしょ。あの人には問題がある、ぜったいに。
やっと地下鉄の駅に着いた。トルストイ広場駅まで地下鉄に乗り、それから歩いて大学の黄色い建物まで7分で行きつくなんて、とてもじゃないけど無理だわ。じゃ、さよなら。学部長の授業に出なくちゃ。お互いに、あまり出会いたくなかったわね。黄金の門駅まで行って、科学アカデミーの喫茶店でコーヒーを飲もう。
あの半病人も、どうやら科学アカデミーに向かってるみたい。だけど、あそこには研究者以外に、いろんな人が集まってくるから。ドラッグをやる者、研究者の卵、わたし、それにわたしの友だち…
まだ早いから、知り合いは誰も来ていない。わたしの飲むコーヒーを店の人はちゃんと知っている。カップ三分の一の水に二杯のコーヒーを入れる、別名「原爆戦争」というコーヒー。すぐにカミュの本をとりだして、コーヒーをすすり、生きることには意味がないなどと悩んでみる。
おや、半病人のあの人も悩んでみたいらしい。ほら、両脚がここにあるわ。この人はきっと、みんなが使う場所で椅子に腰かけるのがいやなんだ。興味をひかれる。「みんなの椅子にすわるのがいやなんでしょ?」しきりに手をふっている。やっぱり、正解だわ。手をふりながらすわったものだから、あやうく転びそうになった。かわいそうに、いかれた人ね。かわいい顔してるのに。わたしの実らなかった恋の相手によく似てる。この人、すぐに話しはじめるわよ…
「あのう、こういう状態をどうやって克服したらいいか、ぼくにはわからないんです。内心、克服したくないという気持ちもあります。わかっていただけますか?」
 わたしはうなずいて、わかるふりをする。
「人間は醜く汚い。どう説明したらいいのかわかりませんが。そんなふうに考えるのはけっして自慢できることじゃないけど、でも人間を好きになれないんです。人間は嘘をつくから」
 そうか、人間には、ひとり残らず問題があるかも。わたしも人間のひとりだから、不潔で嘘つきということになるわね。でもわたしは、ほかの人とは違って、電信柱のように真正直よ。それにしても、この人はかわいそう。こんな頭のおかしな人間と話す人がいるわけないわ。
「あなたには、話をする相手もいないんでしょうね、人間はみんなくだらないんだから。そう言いながら、あなたは人間を必要としてるのよ。そうじゃなければこうしてわたしと話すことなんかないでしょ?」
「あなたと話すのは、あなたが歯も爪も靴もきれいに磨いているからです」
 やだ。それじゃ、このわたしは、トロリーバスに乗っているあいだじゅうわたしの上に倒れかかってきたこの偏執狂を、喫茶店にすわってからも人類から護ってやってるってわけ? なんでわたしがそんなことしなくちゃいけないの? わたしが歯を磨いてるから?いかれたこの人はわたしの歯や爪を観察してたの? 自分はどうなのよ…。でも、たしかに爪はきれいだわ。
「わたしは髪も洗ってるわ」と言ってやる。
「わかってます」と答える。わかってるですって――信じられない!
「それに首も足もよ」もっとプレッシャーをかけてやる。「耳も洗うし、トイレのあと、手も洗うわ。シャワーも浴びるし、ハンカチも持ってるわ」
「だけど、みんながみんなそうじゃありませんよ。からかっても無駄です」
 やだ。わたしがやさしいか、こんないかれた話につきあわなくちゃいけないと思ってるわけ? ついに切れた。
「やだ、あなた、図々しいにもほどがあるわよ! コーヒー飲むのを邪魔したうえに、わたしがお人好しなのにつけこんで、自分の退化した言語能力を復活させようとしてるのね。あなたと同じように頭のおかしい人間をさがして、そいつと話しなさいよ!」
「どうしてすぐに怒るんですか」若い男は顔をしかめた。「あなたは頭がいいから、ぼくがまともじゃないってことがわかるでしょう。なにか、ぼくにアドバイスしてくれませんか? 毎朝トロリーバスにゆられながら、ぼくは社会と折り合いをつけなくちゃならないんです。そのことに疲れてしまった。でも、あなたはほかの人とは違う。はじめてぼくに話しかけてくれた女性なんです。それに、あなたの言うとおり、ぼくは社会に戻りたい、だけど、社会に吐き気をもよおすんです。あなたのコンタクトは、なんだか具合悪そうですね、朝から眼が充血してますよ」
 わたしのコンタクトとどういう関係があるの?
「あなた、もしかして、眼科のお医者さん?」と訊いてみた。
「ええ、眼科医です」と答えて顔をしかめた。
 あら、そうだったの。いかれた眼科医ね。
「じゃ、どうしてウクライナ語でしゃべるの? 哲学専攻だと思ったわ。考えてることもそうだし」
「眼科医がロシア人とはかぎりませんよ」しごくもっともな答え。「ぼくはルツク出身ですけど、あなたもそのあたりじゃありませんか?」
「わたしはキエフ出身よ。だけど、ウクライナ文学専攻だから。そのせいで、たいへんな目にあったの…」
 しまった。このことには触れたくなかったのよ。思い出すだけで、いやな気分になるわ。基本言語に何語を選ぶかという問題で親と衝突したものだから、神経質になってしまったの。両親はオブヒフ州出身なので、子どもたちにロシア語でしゃべってほしいと望んでいた。兄といっしょのときはわたしもロシア語でしゃべってたけど、大きくなってからはウクライナ語で話すようになったの。もちろん反抗心からだけど。おじいちゃんとおばあちゃんは、お隣さんのことを羨ましがってた。隣の孫たちが《町のことば》でしゃべってるって。大学に入学するときは滑稽だったわ。うちの人たちは、わたしがウクライナ文学部に入るなんて想像もしてなかった。歴史学部だとばかり思いこんでたから。入学してから半年間、文学士は会計士より悪くはないって、ことあるごとに言い続けたわ。父が会計士だから。キエフのある新聞社にバイトを見つけて、ジトーミル出身のルームメイトと寮で暮らしはじめた。寮の管理人には10ドル払ってる。親のところにはめったに帰らない。うちにはまともな人間がいないし、まわりも変な人間ばかり。わたし自身がとても哀れな存在なのに、おまけにこんなおかしな人まで現れた。この人は、人間に吐き気をもよおすんだって。この人は気分が悪いそうよ!
わたしだって気分が悪いのよ。でも、だれも同情してくれないわ。だから悩んでるんじゃないの! まあ、わたしは人間にさわっても、別にがまんできないことはないし、トロリーバスで、ホームレスの人がすわってた席にすわることもできるわ。喫茶店では、バイ菌のいっぱいついたカップでコーヒーを飲むのも平気。セックスだってできるわ…といっても、理論的にはできるということだけど。でもこの人ったら、男らしく頑張って、いやな顔をしないでわたしの話を聞いてるじゃないの。
「名前は? つまり、あなたのお名前よ」とわたしはたずねた。
「ワシーリ。ワーシャでいいですよ。それで…」
「わたしはマリアよマーシャとは呼ばないで」
 もちろん、この人の名前はワーシャだわ、それ以外にどんな名前があるっていうの? ちゃんとしたコンタクトを作ってもらおうかな。この人、眼科の医者なんだから。



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