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2023年11月29日10:04

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二人の薄のろ(後半)

(後半)


ワシーリ やっと眠れた。怖い夢も見なかった。二回、目が覚めただけだ。もっとも、右を下にして寝たので、そっちの肋骨が痛むけど。
汗もかかなかった。ほとんど清潔といっていい。天気は曇り。とても快適だ。こんな天気はきらいだという人もいるけど、ぼくは曇り以外の天気には耐えられない。日が照ると頭痛がする。夏にはほとんど死にそうになる。雨もいやだ。ズボンが汚れるし、靴までびしょぬれになるときもある。そんなときには、自分の足が、黴だらけの靴下をはいた二匹の蛙になったような気がする。いちばん快適なのは、曇りで、しかも空気が乾燥していて、ちょっと肌寒いくらいのとき。昨日のぼくは、いつもと調子が違っていた。押しかけて、なにか説明していた。聞いてくれる人が見つかったんだ。あの人は、石やりんごや犬と同じように、この世界に存在するものの一部なんだ。それに、あの人のほうから話しはじめたんだ。
人類は、いつかは自然な存在になるのかもしれない。文明を通過して、自然に帰るのかもしれない。人類が、純粋に知的な存在に変容するよりも、そのほうがいいかもしれない。もちろん、そのときだって人は飲み食いするし、排泄するし、セックスもするだろうが、そういうことについて嘘をつくのはやめるだろう。人類は、動物の群れのように、均質的な集団になるだろう。そのときには、ぼくみたいな人間はいなくなるだろう。もっとも、ぼくみたいな者はほかにはいないかもしれないけど。
いや、ぼくはこの、むかむかするような社会を好きにはなれなかった。どうして動物の群れが均質的だと考えたんだろう? そこにはリーダーもいれば、アウトサイダーもいる。ひとりぼっちの狼や象だっているだろう、ぼくみたいに。もしかしたら、ぼくは修道士そっくりじゃないかな。もっとも修道士は汚れた魂から逃れようとするが、ぼくは汚れた肉体から逃れようとしている。でも魂にたいしても、ぼくは満足していない。なににたいしても満足していない。

マリア やだ。映画を観に行ってから、すごくさびしくなっちゃった。心臓が痛いわ、なんだか。神経症みたい。いつものことだけど。わたしの最初で、たぶん最後の恋を思い出してしまった。春休みの夜、ふたりで湖のほとりにすわっていたの。ハルキフ州のどこかのサナトリウムで映画祭が開かれていたときだった。湖に行くには林をぬけなくちゃならなかった。ブーツが泥だらけになったわ。なにを話したのか、ぜんぜん覚えていない。キエフに帰ったらきれいさっぱり忘れてしまうだろうって思ったけど、それはまちがいだった。十二歳も歳上の妻のいる音楽家に恋することに人生の意味はないって思ったの。そのころ人生の意味なんてなにも知らなかったから。もし今、だれかに人生の意味について訊かれたら、生きること自体に絶対的な意味があるって答えるけど。それから6年がたったのに、あいかわらず寮の、隔離されたような自分の部屋にすわって、壁を眺めているだけ。あのとき、わたしの凍えた手をあの人が温めてくれた。心臓がすごくどきどきして、その音が森中に響いているような気がしたわ。映画に出た俳優があの人に似ていた。文学博士になることに人生の意味がないことだけはたしかね。人生の意味どころかなんの意味もないかもしれない。
ワーシャは初恋の彼のことを思い出させるのよ。やだ、困ったワーシャね…病気なのよ。気持に安らぎがないみたい。滑稽なのは、なにを憎んでいるのか、ワーシャにはわかってないことなのよ。人類ですって? でも人類ってなに? 人類全体ということは、つまり誰でもないということでしょ。ワーシャは人類の存在意義を認めない。それは当然よ、だって意味なんてないんだから。なにか頭を使う材料を探して、毎晩それをくりかえせばいいのよ。たとえば救済を得たいとか、信仰に入りたいとか、2DKの住まいがほしいとか、ユルコ・ユルチェンコに抱かれたいとか、なにかもっといかれたこととか。それにしても、とにかく、すごく上等のコンタクト・レンズが手に入ったわ! 眼がぜんぜん痛くないし、緑色だし。ワーシャは自分の天職を知ってるわ。握手したかったけど、あの人潔癖症だから…。お金も受け取らなかったけど、自分で払ったのかしら。だとしても、どうってことないわ。栄養不良の虚弱児の話を聞かされたわたしのほうが、もっと高くついたんだから。あの人、天才についてくだらないことをしゃべってたわね…。どうも、自分が天才じゃないってことで不安を感じてるみたい。天才はみんな不潔で、鼻糞をほじってるそうよ。そうね、みんなほじくるでしょうね。だったら、あなたもほじくればいいじゃない。でも、人間がみんな嘘つきだというのは正しいわ。みーんな、嘘をついてるのよ。困ったことがおきたら、犬みたいに背中をまるめて知らんぷりするのよ。自分に対しても、たいていそうだわ。わたしだって同じかもしれない。

ワシーリ テレムキ駅からルィビツカ駅まで、ようやく私営バスが走るようになった。ほんとうに、やっとのことで、1フリーヴニャ払って、あの気絶しそうなトロリーバスから解放された。私営バスには、静脈瘤のために脚がバケツみたいにふくれあがったおばあさんたちはいない。それにあと半年で、《アウディ》の中古車を買う金ができる。だけど、そうなればなったで、こんどは事故に遇うんじゃないかというあたらしい不安がうまれる。ぼくは死が怖い。ぼくの身体を蛆虫に喰わせるなんてことは、断固として認めない。火葬にされるほうがまだましだ。だけどもっといいのは、不安をなくしてから死ぬことだ。取るに足りないぼくの人生でも、もし誰かが必要としてくれれば、生きていくこともできる。だけど誰にも必要じゃなかったよ。
医者だろうと天才だろうと気違いだろうと、臨終をむかえるという点では、なんの違いも無い。蛆虫にとっては喰う相手がだれであろうと同じだ。中国人は、人生の目的を子孫の記憶に残ることだと考えていた。だけどぼくにとっては、子孫の記憶なんてどうでもいいことだし、それにぼくには子孫なんかぜったいできないだろう。そんなものいらないよ。最初の妻は、性病にかかってるんじゃないかという不安にかられて追い出した。二番目の妻は、人類を代表して侮辱されたものだから、自分から出て行ってしまった。

マリア やだ、春が来てしまったわ。わたしにもアバンチュールを運んできた。占いでは「予期せぬ行動」とでたわ。あのろくでなしに手紙を書こうかしら。いま首相は誰だったっけ。あなたがろくでなしだから、わたしたちの暮らしはひどいものですって。ううん、だめだわ。マクドナルドでも爆破しようかしら。ううん、大勢の人が苦労して建てたんだから、もったいないわ。だめ、だめ! へんな考えばかり浮かんでくる。三つ目が浮かぶ前に図書館に行こう。ううん、図書館はやめにして、バイト先の新聞社に行こう。ううん、新聞社にも行きたくない。科学アカデミーの喫茶店にコーヒーを呑みに行こう。
行く途中、ライターを買い、新聞は《デーニ》にする。この新聞はちゃんとした新聞で、うちのトイレットペーパーのような新聞とは大違い。ここに就職できたらいいなあ、どこに行ってもお巡りさん、どいて! わたしは《デーニ》の記者です、って言えるのに。おもしろそうだわ。スポンサーは誰かしら。喫茶店に入る。うっそー! 天地がひっくりかえったみたい。ワーシャに言う。
「そこはバイ菌でいっぱいよ!」
 ワーシャは顔をしかめて答える。
「そうね、それで早く死ぬことになるかもしれないけど。近くを通りかかったから、ちょっと寄ってみようかと思ったんだ…」
そのとき、わたしにある天才的な考えがひらめいた。アルコールを飲もう、それもできるだけたくさん。それから、キッチンかどこかで、人生について延々と不平をならべたてるのよ。どっちにしたって、わたしたちはこの世界では、現実に誰にも必要とされてないわ。同じように頭のおかしい奴以外にはね。ふたりともいかれたもの同士よ。そうじゃなかったら、わたしがこの人のいう、くだらない人類のはなしなんかするはずないでしょ?

乾杯する。際限なく。

ワシーリ いったい、なんでまた、とつぜん、こんなことになってしまったんだろうか。今朝は、そのことを考えただけで吐き気をもよおしたのに…。まあ、いまも吐き気がするけど…。コニャックのせいで。だけどことが怒ったときに、ぼくの頭はどうなってたんだろう? そんなことぜんぜん考えてなかった! うううーん、なにも考えなかったぞ…。
ぼくは、おんなと、やった。女というものは不潔でくだらない存在だとわかってたのに…。やだ、…おや、どこでこんなことばが伝染ったかな。どうも考えがまとまらない。人類を批判しながら、自分は酔っぱらって…。しかもひとりじゃなくて、彼女といっしょに酔っぱらうなんて…。やだ、…もう、それにしても、こんなスラングをしゃべる癖はどこで伝染ったのかな。人類を批判していながら、自分の頭のなかも整理できないなんて。もう寝よう。
彼女、どうして行っちゃったのかな、こんな夜中にどうやって帰るつもりなんだろう? 彼女もいかれた人間だよ。ところで枕に彼女の匂いがついちゃったよ。いつから「臭い」ではなく「匂う」になったんだろう?
ううーん、起きてシャワーでも浴びるか…。

マリア まったく、わたしとしたことが、遊んでしまったわ! 1時間後に起きなくちゃいけなかったのに、一睡もできなかった。ようするに、わたしは男とやったのよ。後悔はしてないわ。ぜったい、後悔はしないわ。
ところで、彼はいまごろきっと、部屋中をクロロホルムで消毒してるんだろうな、とんまな野郎。
コニャックの力ってすごいわね! 朝は天才が鼻糞をほじるなんて悪口言ってたくせに、その晩には自分が…
鳥が鳴きはじめた。

ワシーリ ぼくはどうしてここにいるんだろう。どうして立ち上がって出ていかないんだろう。彼女にひとこと言わなくちゃならないことがあるんだ。とても大事なひとことなんだ。しまった。彼女がきた。それなのに、ぼくは、なんでのこのこ、ここにやってきたのか。忘れてしまったよ。

マリア すわってるわ、おたんこなす。黙ってるわ。わたしもしばらく黙ってる。やっと口をきいてやる。
「ねえ、それで、人類の話をする?」
「ううん、」と首を振った。「人類の話は、もうしない。これからは、人生の意味についてだけ話そうよ」


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