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2022年07月08日18:52

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18世紀のフランス革命とスウェーデンの自由の時代 7/8(金)安倍元総理大臣亡くなる。

7/8(金)
本日午前11時30分頃、奈良県で演説中の安倍元総理大臣が、狙撃されて、亡くなった。犯人の元自衛官の山上徹也(41歳)容疑者は、取調べの際、政治心情ではなく、態度が不満だった、と述べているという。動機の解明が急がれる。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=7026792

  今回18世紀のスウェーデンの自由の時代と共に、共和制の原点となるフランス革命について紹介する。

 前回スウェーデン関連日記 2021年12月12日付 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981076404&owner_id=32437106


   第1章 18世紀末のフランス革命を振り返る

 必 写真はウィキペディアから使用

フランスは、歴史上イギリスと共に、民主化運動の成功に伴い、工業化を早く進めた。転機は1789年に起こったフランス革命にある。

 国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットが倒され、封建的特権の廃止、人権宣言、憲法制定など、共和政治が実現した。

 18世紀ブルボン王朝の封建的な身分社会は、アンシャン=レジーム(旧制度)といわれる。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が封建的な特権(非課税など)を有しいた。人口の8割以上を占める第三身分は上層から下層にいたる市民は、声をあげることすら出来なかった。身分を分けることにより、王朝は安定していたのである。

 写真=ルイ16世の肖像画
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 革命のきっかけは、ルイ16世と王妃マリーアントワネットの過度な浪費にあるといわれている。1778年2月、アメリカ独立戦争に参戦し、イギリスからの独立を果たす初代大統領ジョージ・ワシントン率いるアメリカ軍を支援したことに始まった。1777年10月のサラトガの戦いで、イギリスに勝利したアメリカ軍を味方にすることにより、入植する機会をうかがっていたのである。1779年にスペイン、1780年にはオランダが参戦に踏み切り、大西洋を挟んで新大陸に踏み込んだイギリスの植民地政策を阻止した。

 多額の資金を投入したにも関わらず、見返りは少なく、借金がそのまま残った。国の財政を立て直すべく、財政家のトュルゴー、銀行家のネッケルを起用した。2人の案により、イギリスと和解し、1786年にトーリ党のピット首相と英仏通商条約を結ぶ。イギリス国内では、フランスとの交渉の中心人物の名から「イーデン条約」ともいう。

 交渉の席の中で、イギリスの提案に対して、フランスは反対できず、輸入関税の引き下げで合意に達した。結果的にイギリスから安価な工業製品の流入により、フランスの綿産業は壊滅的な打撃を蒙った。イギリスに有利な条約は、ブルボン王朝が倒れた革命期の1793年に破棄された。

 国家財政が悪化しても、王妃マリーアントワネットは、宝石を買い込み、他国の貴族まで招待して、舞踏会を開いていた。

 ルイ16世は、政治に関与し、財政の建て直しに失敗したことにより、初めて議会を開くことに応じる。1789年1月24日に、第1身分の聖職者、第2身分の貴族、第3身分の平民が参加する「三部会」の開催が宣言された。1614年のルイ13世の統治時代以来、175年ぶりの出来事である。

 写真=3部会の様子
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ルイ16世は、第二身分の貴族への課税を課すことに理解を求めたものの、激しい抵抗にあい、紛糾状態だった。選挙制度の採用を認めても、身分を越えて納得してもらえない。第1身分と第2身分は、裁判区単位の選挙人集会で直接指名される。第三身分は、納税者のみ選挙権が与えられた。5月5日に、それぞれの身分の代表者がヴェルサイユ宮殿に集った。議席は聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)が各300名、第三身分が600名、合計1200名になる。人口比からすると、第三身分が8割以上にのぼる。議会に参加したのは、1200人の丁度半分の600名にとどまった。国王側は、第三身分の参加人数を絞り込みたかったものの、激しい民衆の要求に屈してしまったのである。第一身分の僧侶、第二身分の貴族は、それぞれ独自の議員連盟を作ると公言した。連盟ごとに投票を行うと、僧侶と貴族が手を組めば、農民に不利な案が通ることになる。平民は、それぞれ参加した議員の総票で決めるべきだと、主張した。第一身分と第二身分の合計人数は561名、対して第三身分の平民は578名である。40日に渡って、決議方法について審議したものの、第一、第二身分と第三身分の間で隔たりは大きかった。平民は、自らの権利を勝ち取るべく、同年6月17日に国民議会を結成する。20日にベルサイユ宮殿に隣接する球戯場で憲法制定まで議会の存続を誓い合った。「テニスコートの誓い」という。7月14日にバスティーユ牢獄の襲撃を発端に、国内全域にわたって民衆の蜂起が連鎖的に広がった。封建制の廃止、人権宣言を含め、立憲君主制を柱とした1791年憲法を制定させた。

 写真=バスティーユ牢獄の襲撃
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 ブルボン王朝の国王夫妻は、他国からの援軍を要請したものの、数で勝る市民に太刀打ちできない。現に兵隊の中でも平民の味方をする部隊が出たのである。1789年10月には、国王夫妻をヴェルサイユ宮殿からパリへ移送させる市民の大規模デモが起こっていた。このベルサイユ行進を率いたのは、パリの市会(コミューン)の中心人物ラ=ファイエットだった。ヴェルサイユとパリの距離は20km、徒歩で片道約5時間、10月行進ともいう。首都パリでは、国民議会に参加するロベス=ピエールらが、参加者の前で呼びかけを行った。彼は、食料価格の高騰に抗議した市民に対するフランドル連隊の暴行事件の真相を究明するように、国王に訴えたかったのである。

 フランス国王として100年ぶりにパリに戻ったルイ16世とマリーアントアネットだが、気持ちが安らぐことはなかった。自らの立場に危機感を抱き、国外脱出を図った。

 1791年6月、フランス部隊の若いスウェーデン人大佐アクセル=ド=フェルセン(噂ではマリー=アントワネットの恋人)が、国王夫妻に救いの手を差し伸べた、密航計画を周到に準備し、6月20日に実行に移す。深夜(正確には21日0時10分)国王ルイ16世は従僕に変装し、王妃・王の妹と共にパリのテュイルリー宮殿から離れ、兵士の目を盗み、秘密のルートを辿って、東へと馬車を走らせた。フェルゼン口聞きの騎兵隊が途中ヴァレンヌから護衛する予定だった。逃亡計画のうわさを聞きつけた武装した多数の農民ににらまれ、任務を放擲した。一行は途中の宿駅長に正体を見破られ、国民議会側についた軍に捕らえられた。逃亡翌日21日の深夜の出来事だった。

 6月25日にパリへ連行された国王は、トュイルリー宮殿の周囲で、市民から厳重に監視されるようになる。町では、着々と共和制移行に向けて準備が進む。市民側のロベス・ピエールらは、共和制を宣言する。一方で憲法の下で国王を戴く立憲君主制を掲げるフイヤン派が結成されていた。元となる政党ジャコパン派は、あくまで身分に関わらず、市民が平等に政治に参加できる仕組みを考えていた。国王ルイ16世は、フイヤン派の意見さえ聞く耳を持たず、王権にこだわっていた。

 写真=バスティーユ牢獄襲撃後の簡単な流れを描いた問題文と回答 try-itより 高校世界史B https://www.try-it.jp/chapters-11734/lessons-11741/point-3/
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 他国も黙って見過ごしてはいない。1791年8月に、オーストリアのレオポルド二世(マリー・アントアネットの兄)とプロイセンのフリードリヒ二世が、同盟を締結した。ザクセン選定候国のピルニッツにて、会合を開いた。フランス王政の復興は、ヨーロッパ全ての君主の共同の利益であると宣する。このピルニッツ宣言により、他の君主国も同調し、民主化運動に対する警戒感が強まった。1792年4月20日、オーストリアとプロイセンは、打倒フランス革命政府(当時ジロンド派内閣)を掲げて、宣戦布告した。議会政治が始まり、混乱の最中、ジロンド派は対抗できず、同盟軍に首都パリへの防御網も突破される。議会自身機能不全に陥りかけたことにより、政権の座を手放した。代わりにフイヤン派が政権に返り咲き、1792年7月11日に、緊急立法会議を開く。「祖国に危機アリ!」と声明を出し、義勇兵を募り、徹底抗戦をする。革命干渉戦争が起こる中、議会は依然としてまとまらない。ジロンド派のロベス=ピエールは、あくまでも市民が平等に政治に参加できるように「共和制」を呼びかけ、立憲君主制のフイヤン派と対立する。1792年8月10日に、共和制を目座す同士ジロンド派の一員が、テュイルリー宮殿を襲撃した。この8月10日事件を発端に、パリで蜂起コミューンが結成され、敵のプロイセン・オーストリア軍からの防衛目的で活動をする。首都防衛を果たしながら、反対派を弾圧する。9月2日と6日に、共和制を否定する人物をいっせいに検挙し、断頭台に送り込んだ。一説によると処刑されたのは1300名にものぼったという。立法議会は一端解散し、男性普通選挙の当開票に向けて、1792年9月20日に国民公会が招集された。対外戦争の方では大きな成果があがった。プロイセンとオーストリア軍と、フランス亡命貴族の軍隊、総計7万に対し、ジロンド派のデュムーリェとケレルマンの指揮する5万が、フランス東北部の小村ヴァルミーを舞台に戦った。悪天候による雨の影響により、革命干渉軍の方が、戦意喪失により、撤退したのである。戦闘で活躍したのは、サンキュロットと呼ばれる民衆から成る革命部隊だった。キュロトは半ズボン、サンがつくと、半ズボンをはかないを意味する。

 写真=サンキュロットの風刺画
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革命前の、一般市民は、洋服も満足に買えず、丈が破れたズボンでも履いていた。靴職人、商店の主人など小ブルジョワと呼ばれる人々は、一般市民と格好が違っていた。階級社会において、貴族、小ブルジョワ、一般市民は、区別されていた。中でも小ブルジョワは、市民と接点が多く、貴族にあこがれるようになる。一般市民を蔑視した小ブルジョワは、半ズボンをはかない意味から「サンキュロット」と呼ばれた。

 革命軍は、敵軍を退散させたことにより、軍隊を率いるジロンド派はますます力を強めた。戦争の終結も重なり、議会は安定化した。

 勝利の結果を受けた翌9月21日に、王政の廃止と共に第一共和制が始まった。公文書では、共和国第一年目と記された。軍隊も正式に発足された。
 ジロンド派が実験を握ったことで、国王夫妻の運命がきまる。第一共和制国民議会では、ヴァルミーの戦いで成果を上げた急進的な共和派サンキュロットの代弁者山岳派とよばれるグループが、台頭する。党員の方は幅広い考えを持っていた。立憲君主制を掲げる党員はフイヤン派へ、穏健な共和制を目座す党員はジロンド派と呼ばれるグループを作る。残った山岳派のメンバーは、急進的な共和派で、国王夫妻の制裁を望んでいた。議会でも、一般市民の声を聞く山岳派が多数を占めていた。フイヤン派は8月10日事件以降、すっかり信頼を失い、議席数を減らしていた。議席数が多い山岳派の指導者は、ダントン、マラー、ロベス=ピエールの三人だった。

ルイ16世夫妻は、他国から救出を待つものの、ついには裁判にかけられ、判決が下る。1892年12月、ルイ16世の処遇を巡り、ジロンド派と山岳派の間で完全に考えが割れた。ジロンド派は、外交手段として国王夫妻を使えると目論見、幽閉状態に置くように主張する。対して山岳派は、人民主権の立場から、国王の存在を否定し、処刑に賛成した。1793年1月14日に、国民議会が開かれた。721名の議員が、全開一致で国王に対して有罪を下す。処遇に関しては、処刑の賛成者は387、反対者は324、民主主義において、多数決で事が決まる。ルイ16世は、処刑の判決が下され、1週間後の1月21日、ギロチンにかけられた。同年10月16日に王妃マリーアントアネットも処刑された。

 夫妻の処刑に対して、後世の人々は同情的な味方さえしている。当時は、ブルボン家を政治の座から下して、市民の声がより届く社会を目指していた。

 ルイ16世の処刑後、議会も大きく変わった。1793年3月には、オーストリア、プロイセン、イギリスが加わり、対仏同盟が結成された。国内では、徴兵制に意義を唱えたヴァンデー地方の農民が蜂起を起こした。革命干渉軍との戦い、ヴァンデーの乱を鎮圧したのは、山岳派だった。6月2日には、ジロンド派と山岳派がいよいよ完全決裂する。挽回を喫するジロンド派は、山岳派の執政の一人マラーを、前1792年9月の虐殺事件に関与したとして追求したのである。サンキュロットを味方につけた山岳派は、武装して、ジロンド派を押さえつけ、議会からついに追放をした。議会をほぼ独占した山岳派は、ジャコパン・クラブと呼ばれるにいたった。ジャコパン・クラブの中心人物はロベス=ピエールである。人民主権となる普通選挙法が盛り込まれた1793年憲法を成立させ、封建地代の無条件無償廃止が決定した。ロベス=ピエールは、民衆の声を政治に反映させた。一方で、反対意見を唱える人物を次々と排除した。3月に左派のエベール、4月に右派のダントンを捕らえて、ギロチンにかける。独裁色を強めるロベス=ピエールを引きずり下ろすべく、ひそかに反対勢力が結集していた。翌1794年7月、穏健共和派が中心となり、テルミドールのクーデターが起こり、ロベス=ピエールを捕縛した。同月28日にロベス=ピエールは、報復をくらい、ギロチンにかけられ、生涯を終える。

写真=テルミドールのクーデターの風刺画
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 反対派を抑え込んだロベス=ピエールが中心戸なったジャコパン・クラブが一掃されたことを受けて、貴族の力が盛り返した。

 1795年8月には、1793年憲法を完全に否定する案が、可決された。新たに制定された1795年憲法は、私有財産の不可侵性を定め、財政資格による選挙制度が復活したのである。前年の1794年10月には、穏健な共和派(テルミドール)による総裁政府が樹立していた。

 長く絶対王政の時代だったフランスは、階級を超えて、一つにまとまらず、不安定なままった。1796年春には、現在の共産主義に通じるハブーフと呼ばれる組織が、ブルジョアの意向を受け入れつつある総裁政府を倒すべく、蜂起を起こした。一連のハブーフの乱は、失敗に終わり、5月28日に首謀者は処刑された。

 内政の混乱により、経済も行き詰ったままだった。国の安定には、絶対的な指導者が必要だと、第3身分の平民も感じるようになっていた。保守化した第3身分の平民と、ブルジョアの支持を受けて、イタリアとエジプト遠征を行っていたナポレオンが歓迎された。1799年11月、ブリュメール18日のクーデターで、総裁政府が倒された。ナポレオンが皇帝として戴冠したことにより、フランス革命は終った。

 写真=ラ・マルセイエーズを歌う人々の風刺画
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世界初の民主革命は、当初政策の違いを超えて、議員同士が一致団結して、王政に立ち向かった。1789年の三部会開催以降、国民議会が立ち上がると、次第に各派閥によって、議論を戦わせた。時に力でもって反対派をねじ伏せた。民主革命には、多くの血が流れたのである。

 世界初の資本主義革命を記念し、現在フランスでは7月14日を祝日に定めている。国家ラ=マルセイエーズは、国王夫妻救出に向かうオーストリア軍との戦闘に立ち向かう勇壮な兵士を表した歌だという。

 フランス革命は、世界に大きな影響を及ぼした。現代日本を始め、世界の多くの国は、身分を越えて、一定の年齢に達すると、選挙権が与えられる。国王は象徴のような存在になり、政治参加は控えめになった。21世紀の現在、貧富の差が拡大し、一般労働者と企業経営者との間の生活に違いが生じている。先進国では、治安と共に経済も安定した中、今後は少子高齢化による労働力不足、気候変動など多くの困難が待ち受ける。市民の声を政治に取り入れる共和制の原点は、まさに18世紀のフランスにあった。

 参考文献
・世界史の窓 フランス革命

 第2章 貴族による自有化の時代から絶対王政に戻るスウェーデン

 王権が廃止されたフランスとは対照的に、北欧のスウェーデンでは、同じ時代に貴族が政治を行う世界から、絶対主義へと戻っていた。

 スウェーデンは、16世紀から18世紀初めに、バルト帝国と呼ばれる程、ヨーロッパの大国として君臨していた。西暦1700年2月から、ロシアのピョートル1世と、スウェーデン王カール12世による大北方戦争が始めると、両国の運命が決する。開戦当初はカール12世が優勢だったものの、1709年のポルタヴァ(現ウクライナの都市)の戦いでピョートル軍に破れ、形成は一気に変わった。カール12世は、1718年12月11日にノルウェーでのフレデリックスハルト要塞で狙撃されて、35年の生涯を閉じる。独身の彼に子がなく、妹のエレオノーラが後を継いだ。2年後の1720年に夫の神聖ローマ帝国出身のフレデリック1世に王冠を譲り、翌1921年9月10日にニスタット(現在のフィンランドのウーシカンプキに当たる)の条約を結び、ロシア帝国と講和した。スウェーデンは、自国の領土であるフィンランドのカレリア地方の西部、バルト海に浮かぶサーレマー島とヒーウマー島(現エストニア共和国)を割譲したのである。

 国の政治体制も大きな転換を迫られ、王権を縛り、貴族の意見を尊重する「自由な時代」へと変わった。既に大北方戦争の末期に新憲法が制定され、貴族、聖職者、ブルジョワジー、農民の4身分から成る議会が開催された。4身分のうち3身分が合意しなければ法案は通らない。農民と中産階級のブルジョワジーが反対することにより、貴族や聖職者との間で溝が深まっていた。

 議会の中心人物は1719年から宰相を務めたアルヴィド・ホルンだった。外交政策を牛耳り、フランスからイギリス寄りの政策を実行した。20年に渡って戦争に巻き込まれることなく、経済を立て直した。スウェーデンの伝統を切り捨て、新しい国づくりを進めるホルンに対して、賛成者と反対者に二つに分かれる。親ホルン派のメッソナ党(柔らかい帽子のメッソナルに由来する。初めは暗黒時代を思わせるナイトキャップにたとえていたが、表現を緩和した現在の名前になった)に対抗する勢力として、スウェーデンの栄光を取り戻そうとする有志が集り、ハッタナ党(士官が被る三角帽に由来する)を結成する。

 写真=アルヴィド・ホルン
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 1738年にリスクダーグ(議会)が召集され、ホルンはハッタナ党から19年に渡る宰相の座から下され、19年に渡る政治生活を引退した。

 親フランス路線を展開するハッタナ党は、議会を牛耳り、1741年から43年に渡り、対ロシア帝国戦争を行う。神聖ローマ帝国カール6世とロマノフ家アンナ女帝の死により、後継者争いに介入したのである。結果的にスウェーデン軍は破れ、1743年5月7日にオーボ(現フィンランド西部旧都トゥルク)にて、後を継いだエリザヴェータ女帝と和解した。エリザヴェータは、スウェーデン領フィンランドから軍を引き上げる代わりに、親類のドイツ系ホルスタイン・ゴットプル公アドルフ・フレドリクを後継者に指名することで合意を迫った。スウェーデン議会も概ね了承した。

 1751年にフレデリック1世亡き後に、アドルフ・フレドリクが王の座についた。王としての権限が縛られている分、議会を通さず法案を決められない。国内では、ロシア帝国の干渉戦争失敗により、財政面が悪化していた。1756年から63年に起こった7年戦争に、フランスから政治資金を得ていたハッタナ党は参戦に踏み切り、ロシア継承戦争と同じく失敗する。戦費が嵩んだ影響により、借金はますます膨らんだ。返済の目処がたたず、経済が行き詰ると、通貨を増発した。国際的にスウェーデンの通貨の信用が無くなり、悪性インフレを招いてしまった。国民の生活は以前にもまして苦しくなった。1765年には、財政健全と共に外交政策の転換を期待されメッソナ党が、議会を握った。メッソナ党は、ロシアから資金援助を受けていた。従って、帝政ロシアの主張が、スウェーデンの議会で通りやすくなる。内政では、農地改革を行い、アメリカから流入したジャガイモ栽培にも力を注いだ。経済面では、通貨の発行額を抑えたことにより、逆にデフレを引き起こした。1769年に、メッソナ党は、国民から信頼を完全に失い、議席数を大きく減らした。再度財政健全化を掲げたハッタナ党が表舞台にでる。ハッタナ党はフランスから、メッソナ党はロシア、英国、デンマークから資金援助を受けている状態だった。従って、スウェーデンは他国から干渉を受けるようになる。1771年に、国王アドルフ・フレデリクが死去した。後継者は、当時パリにいた息子、後のグスタフ三世が指名されていた。彼は、腐敗したスウェーデンの政治体制を変えようと、既に事をすすめていた。

 写真=グスタフ三世
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政治に信用を無くしていた国民を味方につけ、近衛兵を説得し、翌1772年に議会に乗り込んだ。彼は議会を解散させ、王の権力を強化したのである。市民と軍を味方につけた新王グスタフ三世に議員は抵抗できなかった。無欠クーデターは無事に成功した。貴族による自由の時代に終止符を打ち、王の下で憲法を制定した。拷問を禁止すると共に、メッソナ党が主導権を握っていた時代に決めていた言論の自由法を明文化する。病院と孤児院を建設し、軍備を増強し、26隻の軍艦を進水させた。文化的活動にも力を入れたことから、後の時代に啓蒙専制君主と呼ばれるようになる。美術の分野では「ロココの時代」という。劇場の建設にも勤しみ、外国からの音楽家を招いて、演奏会を主催していた。

 親フランス路線をとり、フェルゼンを送り込み、情報を入手していた。アメリカ独立戦争の介入失敗により、戦費が嵩みながら、倹約を考えない国王夫妻に対し、一般市民はひそかにクーデターの機会をうかがっていたのである。

 写真=無欠クーデターの様子
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グスタフ三世は、カール12世が果たしえなかったバルト帝国の再建を考えていた。長く専制主義を貫くロシア帝国のエカチェリーナ2世には警戒を強めていた。彼女の魂胆を見抜き、ロシアの干渉地帯となるフィンランド防衛を強化する。1788年に、フィンランド兵士122名が、敵国エカチェリーナ2世へ嘆願書を作成し、打倒スウェーデンを計画していた「アニアーラー(フィンランド南東部の村落の名)事件」が起こった。新スウェーデン派の兵士の密告により、陰謀は暴かれ、計画者122名は逮捕・投獄された。裁判により17名に死刑判決が下ったものの、首謀者1人を除き、放免された。同1788年から1790年にかけて、フィンランドの領土を巡り、ロシア帝国と「第1次ロシア・スウェーデン戦争」が起こった。1790年8月8日にヴァララ(現フィンランドの町)の条約によって、互いに賠償金や領土割譲なしの講和を結んだ。

 貴族による自由な時代に戦争失敗を続けていたスウェーデンが、バルト帝国復活へ向けて第一歩を踏み出したといえる。

 軍備増強を進める王は、1789年に国民議会を開き、僧侶、市民、農民の意見を汲み取り、貴族を排除した。貴族に不利な制度を取り入れるグスタフ3世に、反感を抱くものも少なくない。1792年3月16日にオペラ座で仮面武道会を観劇している最中、黒いマントを着た秘密組織のメンバーに囲まれ、暗殺された。無欠クーデターを起こして20年、その間3回議会を開き、自らの意見を押し通した。バルト帝国復活の野望は果たせぬまま46歳の生涯を閉じた。後を継いだ息子4世は、父三世の路線を引き継ぐと宣言したものの、ナポレオンを巡る、対外関係で失敗し、1809年にロシア帝国からフィンランドを奪われ、王の座を失った。
 
 18世紀末、ヨーロッパでは、市民の声が政治に反映されていなかった。相次ぐ権力や領土拡大を求めての戦争により、多くの血が流された。21世紀を生きる我々は、過去の歴史を学ぶことにより、戦争を回避し、国民の声を取り入れた政治を行うようになった。世界は、平和と安全を願う国際協調の時代へと入りつつある。温暖化防止や核兵器廃絶に向けても、一致団結して取り組んでいる。

 
 







 
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