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2021年09月08日23:38

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9/8(水) 独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(前編)英雄フメリニツキーの登場 9月10日で大北方戦争終結300年

9/8(水)
本日、多摩地区は、午後2時過ぎに一時的に雨に見舞われた。最高気温は午後12時の摂氏24度、湿度は50%台である。岐阜県では今月7日に、この20年で最も早い初氷が観測された。同日富士山にも冠雪が確認されている。

前日の9月7日、、日本全国で確認されたコロナウィルスの新規陽性者数は1万605人、感染による死亡者は62人である。愛知県は、先月28日(土)と29日(日)に常滑市で開かれた音楽フェスの参加者から既に14人の新型ウィルスの感染者が出たことを明らかにした。隣の岐阜県は、7日に確認された新規陽性者200人のうち、いわゆる密フェスの参加者がいたことを発表した。
 本日8日、日本全国の新規陽性者数は1万2396人、死亡者は89人、重症患者数は前日比2人増となる2211人である。新たに熊本県でひとつの保育園で79人のクラスター感染が明らかになった。先月下旬に県の職員が、同園に足を運んだところ、保育士のマスク着用率が低かったという。感染対策は不十分だった。

 詳細 NHK NEWS https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210908/k10013250531000.html
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6660135

 分科会は、コロナ後の日常を取り戻すべく、11月を目処に行動制限の緩和を提案した。諸外国のように陰性証明書やワクチン接種証明書の発効を要請したという。ワクチンの普及、人々の行動変容、または気温の影響により、ピーク時から感染者数が下がったと分析している。予断を許さない状況はまだ続いている。

 ・独立30周年ウクライナの歴史(3)ザポロージャ・コサックの戦い(前編)英雄フメリニツキーの登場 9月10日で大北方戦争終結300年

 今回のテーマは、独立30周年ウクライナの歴史 第3弾、舞台は16世紀から17世紀の民族運動である。2回にわたって、ウクライナを象徴するコサックについて紹介する。

 前回の関連日記 9月3日付 ポーランド・リトアニア共和国の支配下での出来事(前編)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980244511&owner_id=32437106

 9月5日付 後編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980263551&owner_id=32437106

 コサックは、武装した農民集団といった方が分かりやすい。15世紀から18世紀まで、宗主国のポーランド・リトアニア共和国やロシア帝国から認められた存在だった。無法者であるが、仲間との絆を大切にし、命がけで戦闘を繰り広げていた。ロシア南部のコーカサス地方から現ウクライナで存在したコサックの歴史を見つめていく。

 写真=ザポロージャ・コサックの紋章 掲載元ウィキペディア シーチより
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 目次
・第1章 コサックの始まり
・第2章 伝説のヘトマン、サハイダーチヌイの活躍
・第3章 フメリニツキーの登場 独立へ

            第1章 コサックの始まり

 ウクライナは、15世紀にポーランド王国とリトアニア大公国に分割統治された。ポーランドのカトリックが、リトアニア大公国にも広まりつつあった。ウクライナは、かつてのハーリチ・ヴォルイニ公国時代から、11世紀のキエフ公ウラジミール1世が広めた正教を受け継いでいた。カトリック国家のポーランドに統合され、宗教観の対立などが起き始める。ポーランド王国側は、コサックを統制するため、あらゆる政策を繰り出していく。過去の出来事を検証する。

 コサックの起源は、15世紀にある。ウクライナやロシア南部のステップ地帯に暮らしていた者達の中で、武器を持った集団のことを指す。13世紀に、バトゥ(チンギス=ハンの孫)率いるモンゴル軍が、東ヨーロッパの諸国を属国化し、キプチャク汗国を築いたことに始まる。15世紀末から16世紀にかけて、モンゴルの影響力が弱まり、それぞれ小国の主が権力を持つようになった。クリミア汗国は、辛うじてモンゴル人の末裔が残るものの、独立した国家としては力が弱く、時代によってオスマン帝国、またはモスクワ・ツァーリー国の保護下に入っていた。

 無秩序となったウクライナの国土内では、ノガタイ・タタール(東欧でモンゴル人のことを指す)などの遊牧民が、跋扈し、ルーシ人(旧キエフ大公国の領土に暮らす人)の町や村から略奪行為を行い、捕らえた人々を奴隷市場で売り飛ばした。1450年から1586年にかけて86回のタタールの襲撃があったといわれている。
 
タタールが狙う、豊かな穀倉地帯と共に漁業資源に恵まれたドニエプル川沿いの流域に定住する人々は、自警団を作り上げた。16世紀初めには、武装集団となり、モンゴル系タタール人のお株を奪うかのように、自ら攻め入り、家畜を盗み、トルコ人やアルメニア人の隊商を襲った。モンゴル人が築いたクリミア汗国やドナウ河口地帯のオスマン帝国内の村まで押し入った。欲しいものを力尽くで手に入れる集団は、クリミア汗国で奴隷化されていた仲間のルーシ人の解放者となった。正教の擁護者の武装した集団を、いつしかトルコ語において分捕り品で暮らす人、あるいは自由の民を意味する「コサック」と呼ばれるようになった。コサックには、ウクライナ、ロシアのドン地方、クバーニ地方にも存在した。今回取り上げるのは、もっぱらウクライナのコサックである。ロシアのドン地方とクバーニ地方のコサックとは、ほとんど接点はない。ウクライナのコサックは、主に統治国のポーランドとリトアニアの国境の守備隊、大地主の私兵にも加わっているものの、多くは冒険心に駆り立てられた農奴出身者だった。当時ポーランド貴族から税の取立てで、農民は苦しい生活を送っていた。土地に縛り付けられる状況から開放されようと、立ち上がった一団のことを指す。後に、1569年にルブリン(現在のポーランドの都市)合同によって、ポーランドとリトアニアは一つの共和国として生まれ変わる。

 写真=ポーランド・リトアニア共和国の国章 掲載元 ウィキペディア
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ウクライナのコサックは、ポーランド・リトアニア共和国から、南方のオスマン帝国への防波堤として利用されるようになった。時に戦争に借り出され、功績を挙げると、指揮官には、土地が与えられた。ドニエプル川沿いのチェルカッシ、カーニフ、チヒリンの町は、コサックによって築かれたのである。1530年頃に、タタールやポーランド役人から安全なドニエプル川下流の川中島に主要なシーチ(聖地)を作ることを許された。早瀬の向こうの意味をなす「ザ・ポロージェ(ウクライナ語名ザポリッジア)」と呼ばれ、地名にまで用いられた。拠点は「ザポロージェ・シーチ」という。いつしか、ウクライナ全体のコサックを「ザ・ポロージェ・コサック」と呼ばれるようになった。16世紀末まで、コサックのそれぞれの町に住む部隊の中のトップが、時の王様によって「棟梁(ヘトマン)」職を与えられた。それぞれの部隊のトップは、キーシュのオタマーン(陣地のトップの意味を成す)という。コサックは、ポーランド・リトアニア共和国内で、金貸し業や荘園領主として括弧たる地位を得ている異教徒のユダヤ人を敵視するようになる。

コサックは、待遇の改善や地位向上を求めて、しばしポーランド・リトアニアに立ち向かう。共和国成立から2代目の王ステファン・バートリー時代から、コサックの力を調節するべく、登録制を敷いた。登録簿に入ると、軍人として一定の給金が支払われる仕組みだ。共和国側にたつと、コサックは強すぎても、弱すぎても、困る存在だった。それぞれの部隊が別れて行動することにより、コサック自体の力を分散させた。時に一人の絶大的なリーダーによって、いくつもの部隊が一丸となって歯向かってくると、手に負えなくなる。

年代記によると、最初に記されたコサックの反乱は、16世紀末になる。1591年から93年にかけて、ザポロージャ・コサックのコスィーンシキーの乱が起こった。首謀者クシシュトフ・コスィーンシキーは、父は正教徒のルーシー人、母親はカトリック系のポーランド人だった。1586年にザポロージャのコサックの長老として史料に登場する。1590年の春に、ポーランド・リトアニア共和国3代目の王ジグムント3世の命令を受け、ポジーリャ地方へ攻め入ったオスマン帝国軍とクリミア・ハン国の連合軍を追い払った。国土を防御した功績が称えられ、ロキトノ荘を賜った。その後、ロキトノ荘を横領したルーシ系公爵ヤーヌシュ・オストロージシキーと争い、1591年に公爵の不法に対しコサックの反乱を起こした。コスィーンシキーの乱には、多くのコサックが加わった。1591年8月にコサック反乱軍はプィーキウ村(現:ウクライナ、ヴィーンヌィツャ州)を占領し、同年末にかけてキエフ県の都市の過半数を奪還する。慣わしどおりに貴族の荘園を襲い、館を略奪し、財産と武器を手にした。敵対する相手である公爵オストロージシキーの領地は、コサックに乗っ取られ、反撃の暇さえなかった。指導者コスィーンシキーは、コサック将軍と宣言し、制圧下に置いたビーラ・ツェールクヴァ、ペレヤースラウ、ボフスラーウ、コールスニ、チェルカースィ、カーニウの町人の前に堂々と姿を現した。町人は、新たに現れたコサック将軍に忠節を尽くした。


写真=ウクライナの地図 掲載元ウクライナの歴史より https://www.kraiany.org/ukraine-info/a1_history.html
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明らかに国王に対する反逆罪に当たるものの、ジグムンド3世は本腰を入れなかった。反乱軍を探るため、1592年3月に調査団を派遣した。コサック側は、要求に応じることはなく、国王の調査団は退けられた。1592年中にコサックはキエフ県とブラーツラウ県の全域を押さえる。最後の砦となるオストロージシキー家の本領であるヴォルィーニへ総攻撃をしかけた。鉄壁の防御体制を築いたオストロージシキー軍の反撃にあい撤退を余儀なくされた。

国王ジグムント3世は、勝手にロキトノ荘を強奪したオストロージシキーを、約束違反だと判断したのである。現にコスィーンシキーは、国土防衛の功績により、国王からロキトノ荘を与えたのである。強奪事件をきっかけに、在来の領地を失いかけたオストロージシキーは、兵集めに時間がかかった。1593年2月にコスィーンシキーが率いる反乱軍を完全に打ち倒した。首謀者コスィーンシキー本人は、チェルカースィにて、現地の代官オレクサーンドル・ヴィシュネヴェーツィキー公爵の家臣によって殺害された。

ポーランド・リトアニア共和国側は、ウクライナのコサックを統制することができず、しばし争いに巻き込まれる。

続いては、1594年から96年にかけて、隊長(オタマーン)セヴェルィーン・ナルィヴァー・イコの乱が起こった。

 参考ウィキペディア ナルィヴァー・イコの乱より 

 1594年に、2000人の舞台を率いたナルィヴァー・イコは、モルダヴィア公国への出兵から帰陣した際、独立への気持ちが高まっていた。自ら率いるコサックに蜂起を呼びかけた結果、賛同者が次々と集った。共和国の政府側に仕えていたフルィホーリイ・ロボダーの登録コサックを含め、ウクライナ在住の町人や農民も武装した。1594年10月、ナルィヴァーイコの叛乱はザポロージャを始め、ブラーツラウ地方・キエフ地方、ヴォルィーニ地方まで拡大した。1万2千人に達する叛乱軍は、ウクライナのブラーツラウ、フシャーティン、カーニウ、チェルカースィ、バール、ルーツィク、スルーツィク、モヒレーウなどの大きな都市を陥落させ、貴族、聖職者、裕福な商人を殺害した。1595年の春、叛乱軍は、ヴォルィーニ地方を略奪したのち、リトアニア領のベラルーシへ攻め入った。

 明らかにコシィーンスキーの乱よりも、規模が大きく、破壊力も加わった。

 写真=ナルィヴァーイコ 掲載元上記のサイト ウィキペディアより
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当時リトアニア領内だったベラルーシ内で活躍する叛乱軍を助けるべく、ザポロージャよりのマトヴィイ・シャウーラが引率するコサック軍(ザポロージャ衆)も加担した。1595年末から1596年初めまでにポジーリャ地方とガルツィア地方まで及んだ。
1595年12月、劣勢に立ったポーランド・リトアニア共和国の政府は、コサックの叛乱を鎮圧するため、スタニスワフ・ジュウキェフスキが率いる軍隊を派遣した。1596年1月末、ナルィヴァーイコが指揮する1500人のコサック部隊はヴォルィーニ地方へ撤退し、ウーマニの森林を通ってビーラ・ツェールクヴァへ到着した。1596年4月2日、ナルィヴァーイコ・ロボダー・シャウーラの諸部隊がビーラ・ツェールクヴァで合流し、現地の貴族の軍勢を破った。勢いは長く続かない。ホーストルィイイ・カーミン峡谷での決戦において叛乱軍は政府軍に打ち破れ、左岸ウクライナのルーブヌィ地方へ退いた。

 写真=ビーラ・ツェールクヴァの町並み ウィキペディアより
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1596年の春、叛乱軍はルーブヌィ周辺、ソロヌィーツャ川の河岸で陣を取ったものの、体制を整えた政府軍によって取り巻かれた。政府軍は、全力をあげて、鎮圧に当たったのである。反乱軍と真っ向から戦うと、兵を失いかねない。そこで、密使を送り、コサック内部から突き崩しにかかった。武器を捨てることと引き換えに登録コサック全員を赦免すると約束したという。叛乱に加わった多くのコサックと庶民は、共和国政府と密約する長官に義憤を感じて、殺害計画まで練った。登録コサックの隊長ロボダーは、仲間によって殺害された。コサックは、仲間を敵に売る行為を厳しく取り締まる。監視体制を強化したものの、共和国軍とコサックの幹部とを繋ぐ秘密のルートをつかめない。1596年6月7日に登録コサックの長官の一部は、叛乱者を裏切ってナルィヴァーイコやシャウーラなどの叛乱軍の司令官を捕らえ、政府軍に引き渡した。密約を守ったことにより、長官は政府側に多くのコサックと農民を放免するように頼んだものの、隙を突かれて、大きな被害を受けた。政府軍は、約束を破棄して、コサックの陣営に攻め入り、叛乱者の数千人を殺害したのである。辛うじて逃げ延びたコサックの小部隊は、ザポロージャに帰り着いた。ナルィヴァーイコを始めとする六人の叛乱軍の司令官は、ポーランド・リトアニア共和国の首都、ワルシャワへ送られ、1597年4月21日に処刑された。

18世紀、コサックの知識人が作成した年代記や歴史書や文学作品などでは、独立戦争のように描かれている。ナルィヴァーイコ自身はコサックの英雄、正教会の殉教者との見方が強かった。近年の研究では、ナルィヴァーイコの乱はポーランド・リトアニア共和国における専ら社会的な紛争、反封建的戦争と見直されている。

 1569年にルブリン(ポーランドのひとつの都市)合同により、ポーランドとリトアニアは一つの共和国として生まれ変わり、選挙王政をスタートさせた。3代目の王スウェーデンのヴァーサ家から招いたジグムンド3世により、カトリック色がますます強くなった。ヴァーサ家出身ジグムンド3世は1596年に東方教会とカトリックを統一させる「ブレスト合同」を行う。ブレストは、現ベラルーシ共和国最西端の都市である。

 1587年に王が即位して以降、ウクライナは正教徒を保護しようと民族意識が高まった。ジグムント3世側は、当初スウェーデン王を兼ねていたが、叔父のルター派カール9世によって廃位させられた経緯がある。ザポロージャ・コサックは、正教を守り抜くべく、戦いを続ける。

           第2章 伝説のヘトマン、サハイダーチヌイの活躍

 掲載元 ウィキペディア サハイダーチヌイより

 写真=サハイダーチヌイ 掲載元上記のサイトより
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 17世紀初めに、オスマントルコとの戦いにより、ザポロージャ・コサックは、一人のリーダーによって、民族意識を高める。伝説のヘトマン、サハイダーチヌイである。17世紀初頭に総司令官としてコサック軍の改革を行った。チャイカ艦隊を編成し、クリミア・ハン国、オスマン帝国、モスクワ・ツァーリ国の軍勢とも戦い、宗主国ポーランドからも高い評価を受けていた。ウクライナの文化の振興に力を入れ、戦功を立てたことにより、正教会を保護した。

 伝説のヘトマンといわれるサハイダーチヌイは、1570年に産まれ、90年代から戦闘の舞台で活躍する。1590年頃にサハイダーチヌイは、コサックの本拠地であるザポロージャのシーチにて入隊し、西暦1600年にポーランド軍と共にオスマン帝国の属国モルドヴァ公国への出兵に参加した。モルドヴァ公国との戦いで勝利を収めたことにより、西暦1606年にコサックの長官職オタマーンになる。コサック軍を引き連れて、オスマン帝国の難攻不落のヴァルナ要塞を陥落させた。サハイダーチヌイのコサック隊は、要塞全員の住民を見つけ次第殺害し、10隻の敵ガレー船と18万の金銭を奪った。ヴァルナの陥落を知ったオスマン帝国のメフメト3世は、コサックの本拠地への通路となるドニプロ川の河口の封鎖を命じたものの、既に時遅し、コサック隊に占拠されていた。


下の写真は、サハイダーチヌイの海軍をモチーフにしたウクライナの1フルィヴニャ記念貨幣。掲載元ウィキペディア
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 サハイダーチヌイは、法整備にも力を入れた。1614年、コサック軍の輸送官を経て、大長官に選ばれ、軍事改革を行った。彼はコサックをゲリラ軍から正規軍に変改し、厳しい訓練を行うと共に、規則を定めた。出陣中の飲酒を禁止し、軍律を犯したコサックは死罪となる。訓練は馬術より弓術・銃術・砲術が重んじられた。


 西暦1618年、サハイダーチヌイが指揮する2万人のウクライナ・コサック軍は、窮地に陥ったポーランド・リトアニア共和国の王子ヴワディスワフ4世を救うべく、動き出した。1605年から続く、ジグムンド3世のモスクワ侵攻によるロシア・ポーランド戦争に介入したのである。ヴワディスワフ4世が率いる軍とも合流し、同年9月にコサック軍はモスクワを包囲する。総攻撃の準備を整えた矢先、コサック軍とヴワディスワフ4世軍との間で、利益を巡る対立が置き、躊躇してしまう。両軍の間でいがみ合いが起こる中、モスクワ軍は建て直し、反撃の準備を整えた。結果的にコサック軍とヴワディスワフ軍は、致命的な打撃を与えられずに、退散する。

 ポーランド・リトアニア共和国の政府は、戦勝続きのサハイダーチヌイ率いるコサックに警戒を強めた。力をコントロールするべく、政府側が容認した登録コサック以外は違法な武装集団とみなしたのである。ウクライナの貴族から給金を貰って参加した非登録コサックは、戦闘集団から離れ、土地に戻らなければならない。長官のサハイダーチヌイは、争いを避けるべく、共和国側の要求を呑むことになった。一方的に切り捨てられた非登録コサックは、英雄なはずのサハイダーチヌイに長官から降りるように抗議の声をあげる。部隊の隊長であるオタマーン職の決定権は、共和国側にある。サハイダーチヌイは、軍を削減されながら、引き続き指揮をとる。非登録コサックと登録のコサックとのいがみあいは、2年間に及んだ。西暦1620年に大規模なポーランド・オスマン戦争が始まると、事態は変わる。相手の軍勢に対抗するべく、ポーランド・リトアニア共和国の政府は非登録コサックを公認し、戦地に派遣した。サハイダーチヌイは、はれて全コサックのリーダーとなり、戦場に向った。

 写真=ウクライナのホーティン城 掲載元 123RF
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西暦1621年には、ウクライナ南部のホーティンの戦いにより、3万5000のポーランド軍と共に4万のコサック軍の総指揮官を引き受け、10万人の部隊を率いるオスマン帝国軍との戦いにも引けをとらなかった。翌1622年に、敵が放った毒矢に当たり、大きな傷を受けると、回復することなく、同年3月22日に息を引き取った。ローマ法王は、ホーティンの戦士達を「世界の守護者」だと賞賛した。サハイダーチヌイの功績により、キエフの町は息を吹き返した。没後10年となる西暦1632年、ペチェルスク修道委員長だったペトロ・モヒラ(後のキエフ総主教)によって、キエフ・モヒラ・アカデミーが創設された。21世紀の今も正教の教育機関として受け継がれている。創設された当初、イエズス会の学校をモデル化し、ラテン語とギリシャ語の教育に尽力を注いだ。ロシアにもアカデミーが広まり、聖職者や学者を輩出した。後のピョートル大帝の改革を支えた人物も、アカデミーの出身が多かったのである。サハイダーチヌイの実績により、ウクライナ国内で正教は残った。ポーランドの支配下から脱しようと、その後コサックのそれぞれの部隊が反乱を起こしたものの、鎮圧された。絶対的なリーダー不在の中、共和国側からコサックの自治が制限され、登録簿の数も大幅に削減された。共和国側の貴族が、ウクライナを締め付ける中、一人のコサックによって情勢が変わる。

    第3章 フメリニツキーの登場 独立へ

コサックが築いた街チヒルィーンで1595年に後の英雄ボフダン・フメリニツキーが産まれた。学生時代はヤロスラフのイエズス会を経て、リヴィフで中・高等教育を受けた。西暦1620年に父と共にツェツォーラの戦いに、ポーランド・リトアニア共和国側の軍人として、オスマン帝国と戦った。父は戦死したものの、息子ボフダンは捕虜となり、2年間イスタンブールで抑留生活を送った。窮屈な生活を送る中でトルコ語をマスターしたという。母が身代金を払ったことにより、ボフダンは開放された。故郷チヒルィーンに戻ると、登録コサック入りし、領地経営の傍ら、トルコ語を駆使して、対外交渉を行った。彼自身は、共和国側に尽くしながら、ウクライナの独立を考えていた。

 転機は1647年にある。チヒルィーンのポーランド人副長官ダニエル・チャプリンスキが、不当にもフメリニツキーの抱える土地の奪還を試みた。フメリニツキーは、法廷や議会にうったえるものの、取り合ってくれない。王様ヴワディスワフ4世にも直訴したものの、謀反を企てる可能性があると、要注意人物に指定された。サハイダーチヌイの死後幾度も起こったコサックの反乱により、共和国側は締め付け策を強化している。現にフメリニツキー自身も、オタマーン職を得て、反乱を主導していた過去があった。現地チヒルィーンの代官により、有らぬ嫌疑をかけられ、逮捕されてしまう。謀反を企てた罪で死刑宣告を受けるものの、彼に同情した代官によって、救われる。脱獄の手助けをしてもらうと、コサックの同士が集り、決起を始める。1948年1月、フメリニツキーを主導とするウクライナの全コサック部隊が、ポーランド・リトアニア共和国側に戦争をしかけた。

同年フメリニツキーは、コサックの部隊ごとの隊長オタマーンが集う中央会議ラーダによって、初代ヘーチマンに選任された。トルコとの領土問題を抱えて、関係が悪化していた宿敵クリミア・タタールとも同盟を結び、共和国側に攻め入る。かつてない規模のコサック反乱に、共和国側は太刀打ちできない。1648年4月29日から5月16日に渡ったジョーウチ・ヴォーディの戦いで勝利する。同年秋には、ワルシャワへ向って進軍した。共和国側も、手を打った。王の座は、ヴワティスワフ4世からヤン2世カジミエシに代わっていた。コサック側に使節団を派遣し、自治の拡大と共に地位を向上させたのである。当時コサックの長オタマーンでも、土地を支配する代官より下の立場だった。今後は対等な権利を与えるのである。

 写真 参考文献=フメリニツキーの肖像画 ウィキペディアより
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共和国側の条件を呑み、フメリニツキーはキエフへと戻った。正教会首府、滞在中だったエルサレムの司教からも「ウクライナの民族解放者」としてたたえられた。ポーランド・リトアニア共和国側とは、戦いで勝利した町ズボーリフで条約を結んだ。キエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州からポーランド軍の撤退、ユダヤ人の排除と共にイエズス会の追放も決まった。ウクライナは、事実上独立状態となった。民族的英雄として、現在フメリニツキーは都市名と共に州名になっている。武装した農民が中心のコサックによる独立国家が築かれたものの、共和国側も必死に応戦した。次回は独立したヘーチマン国家の行方を見ていく。

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