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2023年01月04日15:19

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小説を作成しました!「破岸一笑(はがんいっしょう)。」A後編

※ 一人称小説ですが、良かったら是非、朗読の台本としてもお使いください。
金銭が絡まなければ使用自由。
大幅な改変等はツイッター @annawtbpollylaまで要許可申請。

自作発言は厳禁です。 ※

※1 今作自体は小説という体裁で作られていますが、
声劇台本である「二方美人(にほうびじん)。」シリーズのその後を描くスピンオフ作品です。
そちらを知らなくとも当小説単独でもお楽しみいただけますが、 同シリーズ作や派生作品も読んでいただければとても幸いです。

(以下リンク)

「二方美人。」(1:4)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958862956&owner_id=24167653

「二方美人。」シリーズ及び関連作品のみのまとめ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964303733&owner_id=24167653

※2 当作品及び今後制作予定のスピンオフ作品群について、世界観や登場人物の説明がこちらにまとめてあります(適宜追加予定)。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984088366&owner_id=24167653




小説「破岸一笑(はがんいっしょう)。」A前編
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984088391&owner_id=24167653

小説「破岸一笑(はがんいっしょう)。」B
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声劇台本「破岸一笑(はがんいっしょう)。」C
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「破岸一笑」A後編



 初めて感じる氷夊(ひすい)さんの体温に驚き、背中も顔も、思い切り体全体が震えてしまった。その時ばかりは氷夊さんは少し驚いた様子を見せた。これは彼女なりの感情表現の一つなのだろう。笑う事ができないなりに、感謝を伝えようと。だからこんな、氷夊さんの手の感触にどぎまぎして震えてしまうのは本当に良くない。別に男を勘違いさせるためにボディタッチをしているだとか、そういうわけではないのだから。氷夊さんの気遣いを俺が捻じ曲げてしまうわけにはいかない。その時その時伝えようとしてくれている感情そのものに対しての感謝。俺が抱くべき感情はそれだけ。俺は平静を装い、目を閉じて必死に意識をその体温から遠ざけた。

 三春高校はさほど極端に入試何度の高い高校でもなかったし、受験勉強それ自体はそんなに追い込まれる事もなく、その後受験までの間、常にある程度の余裕を持ったままで居られた。そのお陰で、中学三年生の一年間、二人で遊んだ思い出が沢山手に入った。



 夏祭りにも一緒に行った。氷夊さんは昔金魚すくいが得意だったけど、今では飼うのが億劫だからできないらしい。俺はその話を聞いて、もしかしたら響君の事があったから生き物の死を見るのが嫌になって、それでやれなくなったのではと考えもしたが、そんな事は当然本人に訊けるわけがなかった。俺は射的が得意だったので、良いところを見せようと思って何度か挑戦したものの、その時は一つもまともに取れなくて情けない思いをした。

 夏休みの最後の方、泥見園(なづみえん)に行った事もあった。氷夊さんは泥見園の入り口から左に入って少しのところからの景色がとても気に入ったようで、3時間も長椅子に腰かけてずっと池や林を眺めていた。入場料が一人三千五百円もするから気軽に何度も通える場所ではなかったけど、氷夊さんも好きだと言っていたし、俺も氷夊さんの好きなところに行きたかったから、二人でお金を工面して中学生の間に合計四回、泥見園に行っては一緒にその景色を眺めた。時々通りかかった高齢の方に「小さいのにここの良さが分かるなんて偉いね」というような事を言われたけど、確かに、氷夊さんはともかく俺は、氷夊さんの好きな景色だからと思ったからこそ、その景色を何度も眺める事になって、そうして何度も眺めていたからこそ、その良さも感じるようになっていったけど、もし氷夊さんが居なかったら、その景色を眺める事も、その景色の良さを感じる事も、無かったのだと思う。氷夊さんは俺の心の中に、綺麗な景色を広げてくれた。

 一緒に居てなんとなく分かっていった。氷夊さんはどうやら足を止めて景色を眺めるのが好きらしい。そして、温かいお茶やお茶菓子。多分、特にほうじ茶ともなかが好きなのだと思う。景色を眺めながらゆっくりとそれらを口にする事が度々あった。そしてよく、俺にもお茶菓子を分けてくれた。そうして一緒に夕焼けを見たり、紅葉を見たり、星を見たり。その季節ごとの綺麗な景色を、沢山一緒に眺めた。もしかしてと思って猫カフェに誘ってみた時も、相変わらず表情にこそ出ていなかったけど、黒猫を膝に乗せて静かに撫でたりなどしていて、結構楽しんでくれてたと思う。



 氷夊さんと一緒に見た事で、池や林、夕焼けや屋根に止まったカラス、色んな景色が好きになった。氷夊さんから分けてもらった事で、俺も温かいほうじ茶ともなかが好きになった。氷夊さんが教えてくれた事で、道端の花や草、それに鳥や星の名前をいくらか憶えられた。俺の中に好きなものがどんどんと増えていくのを感じたし、氷夊さんの欠片を見せてもらっているような気がして、単純に嬉しかった。

 どれだけ一緒の時間を過ごしても一度も、氷夊さんは笑ってはくれなかった。だけど俺が何か、笑ってほしくて贈り物をしたりだとか、覚えた鳥の名前を披露したりだとかした時は「ありがとう」と言いながら、手を軽く握ってくれた。それに家の事だとかで俺が落ち込んだ時は、より強く、手を掴んでくれた。俺はそれだけで嬉しかった。いつかは笑ってほしいなんていうのも、俺の価値観の押しつけなのかもしれない。笑えないより笑える方が良いなんて、氷夊さんがそう思っていないのだとしたら、別に笑えなくても良いじゃないか。俺が抱いた、氷夊さんに恥ずかしくないように生きていたいという気持ちを忘れなければ、それで良いじゃないか。

 相変わらず家庭の問題は家庭の問題としてずっと抱えたままで、父親と俺の関係は親子というよりかはまるで冷え切った夫婦のよう。それでも氷夊さんとの時間があれば人生が楽しかったし、氷夊さんに恥じないようにと思えば少しくらいの苦しさは耐えられた。むしろこれに耐えれば少しは氷夊さんに恥じない人間に近付けると思えば、苦痛にすら嬉しさを感じられた。



 時が過ぎ、特に危なげもなく二人とも無事高校に受かり、そのお祝いで氷夊さんと一緒に泥見園(なづみえん)に来た。そう、4回目の泥見園。いつも座る長椅子に一緒に座って景色を見ていると、しばらくして氷夊さんは俺の手を握ってきた。驚いて氷夊さんの方を見ると、氷夊さんはじっとこちらを見つめていた。そして表情を変えないまま

「ねえ、紫雨(しう)君。私達って付き合ってるのかな」

 考えた事は何度もあった。周りからしたら付き合っているように見えるのかも、なんて。でもその度に、おこがましい、今以上の幸せを願うな、そう思って、それ以上考えないようにしていた。氷夊さんは格好良い人で、俺の憧れで、この人の近くに置いてもらえているのが幸せで幸せで、付き合うなんて事。恋人になるだなんんて事。そんなの、贅沢すぎる。そんな贅沢を望むのは、今ある幸せを軽視しているからだ。ずっとそう思っていた。

「今は付き合ってるって思ってはいなかった。俺が氷夊さんと付き合うなんておこがましいって思ってて。けど、もし……氷夊さんが良いのなら、俺は氷夊さんと付き合いたい」

 本当はそんな普通に言えてなどいなかったと思う。ろくに声が出てもいなかったし、変にあれこれと不必要に修飾語を付けすぎて、そのせいでまともに意図を伝えられていたかどうかも分からない。ただ、この時の氷夊さんが返してくれた言葉は一言一句、正確に覚えている。

「そっか。私の事、好き?」

 そしてそれに「うん、好きだし、誰より尊敬してる」と答えると

「私も紫雨君の事、好きだよ。付き合おう?」

 付き合おう。ではなくて、付き合おう? 覚えてる。この、付き合おう?という言い方が可愛くて可愛くて。自分にこんな現実が訪れて良いのだろうか、今日は何日だろう。この日を毎年祝おう。今なら駅前の募金に小銭全額入れても良いかもしれない。いやそんな事するくらいなら何かプレゼントしよう。何が良いかな、そうだ緑色のブレスレットなんてどうだろう。とにかく浮かれ放題で、自分の脳がまるで制御できなかった。

 ともあれ、その日。与永(よなが)20年の3月7日から俺と氷夊さんは付き合う事となった。



 春休みを終え、高校に入学するも、俺と氷夊さんはいきなり違うクラスになってしまった。一緒に登校はしながらも、下駄箱の前でそれぞれのクラスへ向けて解散する日々。それでも俺はめげずに、すべき事をした。そう。まず、友達と呼べそうな人間を数人確保する事だ。いくら晴れて氷夊さんと付き合う事になったからと言って、孤独から遠ざかる事の全てを氷夊さんに頼ってしまうのは良くない。俺は一人で居るのが楽で、その方が楽しいなんて言える人間ではない。一人になると寂しくて心が荒んでしまう。ならば一人にならずに済む手段を確立する。それが友達、あるいは友達と胸を張って言えずとも、とりあえずゆるく繋がっている相手を作る事。

 そしてこの学校は中学と同様、部活動が強制ではなかったので、俺は買い物の時間を確保すべく、部活動へは入らなかった。氷夊さんも部活動には入らなかったとの事で、よくその買い物に付き合ってくれるようになった。

 本当に良い?つまらなくない?不安に思ってそう訊くと、氷夊さんはまっすぐこちらを見て「付き合ってるんだから。一緒に居て楽しいよ」と小さな声で、でもはっきりと答えた。俺は改めて、やっぱり氷夊さんは格好良い人だなと再確認した。

 その辺りまでは良い事だらけだった。いや、この後の事も、それ自体は別に悪い事ではなかった。むしろ良い事だった筈だ。



 高校一年生の7月。もうすぐ夏休みに入ろうかという時、父親が女性を紹介してきた。今日から俺の母親になる人、との事だった。それまで全くその女性の事は知らされていなかったが、どうやら半年ほど前に友人の紹介で知り合い、程なくして付き合い始めていたらしい。そしてその日、婚姻届けが受理されたとの事だった。俺はその日までその話は一切何も知らされていなかった。

 こういう場合に再婚相手の女性、澪(みお)さんが俺の母親に当たるのかと問われれば、わざわざ養子縁組でもしない限りはそういう扱いにはならないらしい。気になって調べてみた。何せ俺の何も知らないところで勝手に二人が結婚しただけ。そんなので勝手に俺の母親が、本当のお母さんからその日初めて見た女性に変わるなんてのはおかしい。澪さんは澪さんであり、俺の母親は一人だけだ。ろくに覚えていなくても関係ない。

 その日以来、俺の家事の負担は減った。買い物も食事作りも澪さんがする事となり、残った俺の仕事は風呂掃除や部屋の掃除、ごみ出し、洗濯くらい。必然的に家のお金の管理も澪さんの手に渡った。お弁当作りも基本的には澪さんがしてくれる事になったけど、氷夊さんの手前格好つけたいから、たまには俺にも作らせてもらう事にした。

 唐突過ぎて驚きはしたものの、あの何を考えていて、何を大事に思っているのか分からない父親に、大事に思う相手ができたのは喜ばしい事。澪さんはいきなり母親ですと言われても俺は急にそんな気になれなかったものの、それはそれとして良い人だと思う。いつも穏やかだし、いつも俺の事を気遣ってくれた。ただ、澪さんが俺の事を「紫雨君」と呼ぶのだけは、嫌だった。

 俺は我儘を言って、氷夊さんに俺の事を呼び捨てで呼んでくれないかとお願いをしたけど、いざ呼んでもらってもお互いにとって違和感が強く、やっぱりすぐに「紫雨君」という呼び名に戻してもらった。



 俺はその後も暫くは、どうしても澪さんに対して馴染めなくて「澪さん」と呼んで、敬語で話していた。それでも澪さんは俺に「お母さんはずっと一緒に居るから、いつでも頼ってくれて良いんだよ」と何度も言ってくれた。俺は申し訳ない気持ちになり、やはりこの人を悲しませてはならない。別にこの人が何か悪い事をしたわけでもない。そう思い、夏休みが明ける頃には「お母さん」と呼び、敬語も使わずに話すようになった。ただ、そう呼ぶ度に顔も覚えていない本当のお母さんに対しての罪悪感で心が削られる感覚に陥っていた。

 家族が父親一人だった頃とはまた違った意味で、家の居心地が悪く感じるようになってしまい、俺は氷夊さんとの時間をより大事にしようと考えた。高校生になり、買い物もしなくて良くなって自由な時間も増えたお陰で、中学生の頃よりかは行動範囲が広がった。休日や、時には学校の帰りにそのまま電車やバスにも乗って、博物館だとかお城だとか、色んな場所へ行って、一緒に沢山のものを見た。ただ、いくら行動範囲が広がっても、やっぱり俺にとって一番特別な場所は、泥見園(なづみえん)。氷夊さんが一番楽しそうにしてくれた場所で、氷夊さんと付き合う事になった思い出の場所。

 高校に入ると流石に勉強も中学時代ほど簡単には行かなくなり、それなりに苦労もした。だけど、テスト前に二人で学校の図書室に籠って勉強したり、わざわざカラオケやらネットカフェやらに行って、中でろくに遊びせずに勉強したり。そんなのもまた、一つ一つがかけがえのない時間だった。



 新しいお母さんにも、少しずつ心を開けるようになっていって、二年生になった辺りの頃には義務感からではなく、自然と「お母さん」と呼べるようになっていた。そうなった後は家の中にさほど居心地の悪さを感じる事もなくなり、家の中でも外でも、あるがままの気持ちで過ごせるようになった。多分、あれこそがいわゆる充実した日々というものだったのだと思う。

 それなのに、二年生の9月。二学期が始まって少しした土曜日。お母さんは久しぶりに会うお友達とお昼ご飯を食べにいくと言い、大きな荷物を持って出ていくと、そのまま帰らなかった。俺は律儀にずっと待っていた。バレットで連絡を取ってみても、返事は帰ってこない。いくら電話をかけても繋がらない。お腹が空いたけど、お母さんが帰ってきてご飯を作ってくれる筈だから。そう思ってその日の夜ご飯は何も食べなかった。

 次の日もずっと待っていた。その日も何も作らなかったし、食べなかった。父親は放っておいても勝手に何か買って食べるだろうから、どうでも良い。

 更にその次の日。月曜日だから仕方なく学校に行った。お弁当は作れなかった。氷夊さんにその事を訊かれて、今日はお母さんも都合悪かったみたいで、俺も体調悪かったから、お弁当用意できなかった。そう答えた。詭弁だ。嘘になる言葉を使わなければそれで良いなんてあまりに形式的で空虚だ。氷夊さんは自分のお弁当を半分、俺に分けてくれた。箸もこんな時のためにと、いつも予備の割りばしを用意しているとの事だった。

 氷夊さんの作ったお弁当。分けてもらうのは何もこの日が初めてではなかった。たまにおかずを一部交換するのも、日常的に行っていた。その度俺は、こういうのいかにも恋人同士って感じがして嬉しい、などと呑気に思っていた。だけどこの日のお弁当は。氷夊さんの味だ。何度も食べてきたから、なんとなく分かる。氷夊さんの味付け。基本的に薄めの味付けなのに、玉子焼きの砂糖味だけは少し濃いめ。氷夊さんの手料理。食べながら、静かに涙が零れた。

 そしてその日の帰り。交差点の前で氷夊さんと解散した後、バレットの通知を見ると、澪さんから返信が来ていた。

「ごめんなさい、私はもうあの人と離婚して、あなたのお母さんじゃなくなったの。あなたの幸せを陰からずっと願っています」



 言ってしまえば最初から最後まで、別に澪さんは俺のお母さんであった事など無かった。法律上、あくまで父親の妻。それだけの事で、俺にとっては別に母親ではなかった。でも澪さんが「お母さんだよ」って。「お母さんはずっと紫雨君の味方だよ」「お母さんはあなた達とずっと一緒に居るからね」って。だから俺は澪さんを「お母さん」って。本当は最初から、本当のお母さん以外をお母さんと呼ぶ事自体抵抗があったのに。自分がお母さんお母さんって言うから、俺はそれを汲んだって言うのに。それを今更。

 嘘ばっかり。嘘しか吐かない。全部嘘。嘘吐き。でもきっと本人は嘘を吐いたつもりですらいない。言ったそばでは本音だったんだろう。本音で、それなりに大事な気持ちを込めて言った言葉だったのだろう。だけどそれを自分で嘘にする。気味が悪い。信じない事に罪悪感を覚えていた事も、信じ始めていた事も、その言葉に嬉しさを覚えつつあった事も、どれもが……どれもが、気味が悪い。



 別に元々、俺に母親なんて要らなかった。覚えてなかったし。別に居ないなら居ないで。父親も顔合わせないなら合わせないで。一人なら一人の楽しみがあったし、やるべき事さえきちんとやっていれば、口うるさく何を言われる事も無い。家の中で誰とも接する事なく一人で自由な時間を過ごせた。それで良かったんだ。

 なのに、中途半端に。愛着が湧いてきて、お母さんが居るという生活も良いもんだなって思ってきたところで。氷夊さん、それでも俺は澪さんや父親に恨み言を思ったりなんてしないで、前向きに、ただひたすらやるべき事。黙って家事と勉強を日々頑張る。そうであるべきなのかな。きっとそう。氷夊さんが、いつも愚痴も弱音も零さないように。氷夊さんが、今年の夏に俺が怪我をした際にも、決して騒ぎ立てず冷静に処置をしてくれたように。俺だって。俺は氷夊さんの彼氏なんだ。氷夊さんと共に並び立つ存在なんだ。だから俺だって。

 それでも、どうしても恨み言ばかりを考えてしまう。俺は俺のありたい俺で居られない。嫌悪感。それより更に最悪なのは、俺自身が、失われた母親を、氷夊さんの中に見出そうとしてしまっている事。認めたくなかった。当たり前だ。そんな事、認めたくなんかない。だけどあの出来事以来、氷夊さんの腕に抱かれて、良い子良い子なんて言われている夢を事が何度もあった。今日だってそうだ。氷夊さんの前で、本当は明るく振舞いたいのに、それができなくて。俺が一人でうつむいてしまっていた時、見かねた氷夊さんが静かに俺を抱きかかえ、頭を撫でてくれた。俺はその時、お母さん……澪さんを思い出してしまった。違うのに。何に思い悩んでいるのかも分からないのに、俺の様子を見かねて氷夊さんが俺を。彼女が弱った彼氏を、励まそうとしてくれたのに。



 最悪にも程がある。氷夊さんの気持ちを俺が捻じ曲げたらいけない。ずっと思っていた事なのに。俺が氷夊さんの事を想う時、氷夊さんの顔より先に氷夊さんの体温ばかりを思い出してしまう。氷夊さんへの憧れや尊敬が、失った母性を求める気持ちにどんどん浸食されていく。いくら否定しても、心の奥底から湧き上がってきてしまう。

 そんなもの、俺が俺の中で全部処理しないといけない事なのに。ひとえに俺の弱さなのだから、俺が自分で乗り越えて、氷夊さんに顔向けできる俺にならないといけないのに。もう澪さんが出ていってから3か月が経っているのに。もう12月。気持ちなんてさっさと切り替えて、とっくに本格的に受験勉強に身を入れていないといけないのに。俺は俺の気持ちを、俺のありたい形に整備する事ができないままだった。

 それに、ああ。本当にだめだ。言ってしまった。俺の中に留め続けておけなかった。母親が居なくなって以来、どうしても失った母性を求める気持ちが強くて、その気持ちはどんどん強くなっていって、元々あった氷夊さんへの思いがどんどんその気持ちに浸食されてしまって、こんなのでは自分が恥ずかしくて、氷夊さんの顔が見られない。自分の事が嫌すぎて、どんな顔したら良いか分からない。それを口に出してしまった。それだけは言ってはいけなかったのに。最悪だ。もう最悪だ。本当に、どうしようもない。女性にとって、男に母親代わりにされる事ほど嫌な事は無い。そんなのいくらでも聞いてきた話なのに。当たり前だ。一番言われたくない事だって分かってるのに。なんでそんな馬鹿な事を口に出してしまった。なんで自分の中で解決させられなかったんだ。



 ごめんなさい、氷夊さん。どうにかするから。ちゃんとするから。ちゃんと俺の中でどうにか解決するから。だからどうか、嫌いにならないで。氷夊さんの事、ちゃんと見るから。お願いだから。

 ああ、情けない。



――以上――
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