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2022年12月04日09:51

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静かの力2

読者の皆様は今までも既に、日常の色々な場面で「静かの力」を
はっきりと、又は何となく感じてこられたと思います。それを更に
自然に使いこなすように成るには、意味の確認と実践継続が必要です。

騒がしく慌ただしい、そして危険な物事も多い今の時代であるからこそ、
益々「静」を大切にし、できる限り「静かな時間を楽しむ」ようにする事が、
全ての物事をプラスに向かわせる基本となります。先天炁に繋がる故ですね。

現実に、何か問題を解決したい時、じっと静かに答えが来るのを待つ感じで
心坐または形坐をしますと、どんな難問であろうと必ず明解が閃きます。又は
ヒントや糸口が浮かんできます。「静」が坐の頼もしい効果をもたらします。

また、静坐をしていますと、身体の微妙な状態や変化も感じられてきます。
時には、どうしても手足を動かしたくなって形坐の型のまま動かしてみると、
ボキッと関節が整い、身体の違和感が消え去っているような事も起こります。

或いは、自身に必要な物や行動が感じられてきます。補うべき食物や補助食品、
為すべきケアの方法、相談すべき友人や専門家など具体的に思い付いてきます。
それらが不適当な場合、健康状態の改善どころか大変な事態にもなり得ますね。

そのような「静」の効用を、特に教育関係者や指導的立場の人が学習し実感して、
後輩や子供たちに伝えてゆけば、有形無形の様々な効果が広がってゆくでしょう。
この世界の悪事や混乱、争い等もだんだん減少して終息に向かってゆく筈です。

ところで、修養の重要キーワードでもあります「静」の文字の右側(つくり)は
「争」になっていますね。何故?と私は中学生の頃、疑問に感じていましたが、
そのまま長年月が経ちました。その問題をこの機会に解決させたく思います。

藤堂明保氏の名著、漢字語源辞典に由りますと、甲骨文字や金文の「争」は
二人の人が左右から手を出して引っ張り合う形←→で表わされているそうです。
それが取り合う意味として、日本ではあらそうと訓読みするようになりました。

諍や競うも仲間です。また「争」は不善を諫める、訴える意味にも通じますが、
その辞典では「静」は青声の系列に属し、澄み切って溜まっているとの義であり、
浄、靖、精の仲間。「静」の「争」は争の基本義とは無関係と記されています。

私の感覚では、初期の←→の解釈が一義ではなく、平坦に伸ばす義とすれば、
「静」は絡まっている糸玉を一直線に伸ばすような操作が物事を平静にする、
道語で申せば「静黙」に通じる形を表現しているとも見えるように感じます。

ついでに、「戦」の文字は單と戈でできています。單は平面的なウチワの形。
転じて単純、ウチワの振動から震える、戦慄にもイメージが繋がってきます。
殫は邪悪なものを殺し尽くして平らげる、平定するような意味となります。

戈はホコですね。討つに通じます。概して「戦」は闘う、勝負を較する、
そして争の派生義と同様な振動、慄く、懼れる、奮えるにも通じています。
「戦う」の訓読みは「たたかう」、「戦く」は「おののく」と読まれます。

現実の争いや戦いには通常、不安や懼れ、戦慄、震えなどが観察されます。
元々人は、素朴で善良な性質で、争いや戦いなどを望んではいませんから、
そのような事象に対して自然に違和感を持つのは当然でもありましょう。

さて、修養法の最お奨めはやはり静坐です。関わっている争い事から離れて
安寧を得られます。また合理的な解決策を自然に得ることも可能でしょう。
一朝一夕にはまいりませんけれど、一歩一歩進まねば何も変わりません。

その際、お持ちの咒や鎮心経などを併用しますと効果は倍増するでしょう。
常に「静」の力で先天炁を味方にすれば、水にも溺れず火にも焼かれません。
大道と同調して自身の天命を生きる以上の幸運福徳が他にあるでしょうか?

この世界の目先の幸福は儚いものです。十分な地位や名誉、理想的な衣食住、
好みの珍しい物や風景を堪能でき、最新の医療や美容サポートが得られても、
自身の真霊が消耗疲弊し続ければ、真に安寧な生活とは言えないでしょう。

地位や名誉、立派な家や美しい環境、自身の美・・・などは有れば有るで、
それを失う悲しみや苦しみ、それを失う事への心配や恐れも起こります。
いわゆる執着が募ります。後天の理想は苦しみの原因にもなるわけです。

それに対して修養は、表面は地味でも、必ず善い結果に繋がるはずです。
とりあえずは「足るを知る」ことが、どなたにも有益であると思います。
知足は平静と結びついています。私慾をリセットすれば平静になれます。

究極の理想を設定して努力するのも一つの生き方でしょう。けれども、
自己の健康状態や容姿、生活環境や社会的立場などなど、追求すれば
際限がありません。このくらいで十分、と満足すると楽になれます。

「足る事を知れば、天地は結構広いよ!」という、老祖様のお言葉、
「足る事を知らないと孝子とは言えない!」という孚聖様のお言葉を
思い出しますと私は、ほっと楽になり、平静な気持ちになれます。

そうして、自分自身をいたわりながら、善い事でも頑張り過ぎず、
楽しみながら反復するうちに力が自然に発揮されてくるように、
少しの暇にも自身の心舎を感じて「静」を楽しみましょう。
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