こういうことを書くのは、恥ずかしいことだという意識はある。
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作家に、絶対的な優劣があるとは思えない。
言葉による表現に、ノーベル賞があるなどとは笑止である。
アンドレイ・ゴルチャコフの言うように、すべての芸術は翻訳することができない。
ノーベル文学賞は、言葉で語られた思想に与えられる。そんなものをありがたがるのは、言葉そのものに興味を持たない人間である。
カンヌ映画祭と同様、ある種のキナ臭い連中だろう。
川端康成の 『雪国』 は何度も挑戦したが、読了しなかった。
全然、面白くなかった。
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エッセイの名手と言われる米原万里の作品も、あたしには響かなかった。
言語に関するエッセイであるにもかかわらず。
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要は、人間の友人のように、友となれる文体というのがある。
あたしの場合は、言葉そのもののサーカスを垣間見せてくれる作家だ。
小3のとき、江戸川乱歩に出会い、小6で太宰治に出会った。
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寺山修司の読書遍歴が、江戸川乱歩→太宰治→芥川龍之介→石川啄木だったと記憶しているのだが、昭和中期の人間は、同じようなものなのかもしれない。
江戸川乱歩のエログロに興味があったわけではないし、太宰治のデカダンに憧れたこともない。
ただ、ただ、この人たちの言葉遣いに惚れ込んだのである。
それは、夢路いとし・喜味こいし、昭和のいる・こいる、ナイツの漫才が好きだというのと何も変わらない。
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この感覚は、その作家と友人になれるか、というのに似ている。
おそらく、三島由紀夫とは友達になれないし、むこうから願い下げだろう。
江戸川乱歩と話をしたら面白かろうし、井伏鱒二と一日過ごしたら、のほほんとした時間を味わえそうだ。
だが、そうとも言えないのは、太宰治と友達になったら、とんでもない目に遭いそうだ、という点である。
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年間300冊、本を読みます、などと、自慢げに発表するゴジンがいるが、気の毒としか思わない。
「わたしは、ユトリロの回顧展を10分で回ってきました!」
本は、意味を読むものではなかろ。
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言葉の名手であるのに、意味の方が重要なのだ、と当人が思い込んでいる例もある。
たとえば、井伏鱒二でいうなら、『黒い雨』 は面白くない。言いたいことが、表現を超越してしまっている。
同じような例は、映画にもあって、タルコフスキイの 『鏡』 は面白いが、『サクリファイス』 は、とにかく、言いたいことが渋滞していて、表現で遊ぶのを忘れている。
アンジェイ・ワイダも、ポーランドが自由化されて、何を言ってもよくなった途端に、表現の面白さがなくなってしまった。
『灰とダイヤモンド』 はポーランド統一労働者党のおかげで生まれた。
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高校生の頃、遠藤周作の怪談に嵌まっていたことがある。とにかく面白かった。
寿司屋なのに、客がラーメンばっかり注文する店、なんてのがあるが、おおかた、あたしはそういう客だった。
思えば、遠藤周作の怪談は、今、どうすれば読めるのだろう。
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大江健三郎は 『万延元年のフットボール』 だけ読了した。面白かった。
ただ、大江健三郎が招いてくれたのは、立派なフレンチの店で、たぶん、肩が凝ったんだな。
一回で十分だ。
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太宰治でも、『斜陽』 は面白くない。『畜犬談』 が好きである。
安部公房は、ほぼ、ハズレなく、すべて面白い。
井伏鱒二で、いちばんすばらしいと思うのは、『寒山拾得』 である。
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こんな読み方をしているので、自分の趣味に読書を挙げたことがない。
食と同じなのである。
西瓜、玉蜀黍、梨、カツ丼。
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立派な読書人なんぞに、なりたくない。
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