春風亭小朝の弟子、春風亭ぴっかり☆が、今年3月、蝶花楼桃花(ちょうかろうももか)に改名して真打に昇進した。
24歳のときに、年齢を7歳サバ読んで、AKB48 1期生のオーディションを受けて、最終審査まで残ったが、さすがにバレて失格。
…………………………
なぜか、この人の噺は、「ぽっぽ」 時代に一度、「ぴっかり☆」 時代に一度、生で見ている。
要は、小朝を見に行っていた、ということらしい。その小朝も67。最後の弟子である。
小朝の弟子は、こう言っちゃ失礼だが、なぜか、ビッグにならなかった。桃花は名を成すだろうか?
ちょうど小朝の子どもの年齢といってもいい、童顔の41歳。このアイドルなり損ないは、【蝶と花の御殿の桃の花】 という 「花とゆめ」 の花園のような名を戴いて、噺家のスタートラインについたのである。
…………………………
【蝶花楼】 というケッタイな亭号を最初に名乗ったのは、
初代 蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく
である。この名跡で、代々、意味があるのは 【馬】 である。
初代 金原亭馬生(きんげんていばしょう)を祖とする 【馬派】 という。
鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)もこの流れであり、鈴々舎は 【馬派】 と言うことができる。隅田川馬石(すみだがわばせき)も馬派である。
…………………………
千葉県北部の土壌は、関東ローム層である。農作には適さない。現在、落花生の名産地となっている地域である。
古来、この地域は無人の荒れた原野であった。
近隣の村から脱走した農馬が、ここに逃げ込み、自然繁殖をするようになった。
江戸転封(てんぽう)を命じられた徳川家康は、これに目をつけ、江戸における軍馬確保のために 【牧】(まき)というものを置いた。
牧というのは、人によって完全に管理された牧場のようなものでなく、土手などで放牧地を囲い、自然の中で放し飼いにするもので、幕府の要求に応じて、軍馬を供給した。
牧の周辺の村の有力者を 「牧士」(まきし)に任命し、牧の管理にあたらせた。
…………………………
【小金牧】(こがねまき)は、野田から南へ、柏、鎌ヶ谷、習志野、八千代台(現在の地名による)、そして、東は印西に点在していた牧の総称で、【小金原】 (こがねはら)とも言った。
初代 金原亭馬生は、【小金原で馬が生ず】 を漢語で言い換えたものらしいのだが、なぜ小金原にことさら言及したのか不明である。
…………………………
この初代馬生の弟子にいたのが、小金屋馬六(こがねやばろく)である。
馬六というのは、馬勒(ばろく)、すなわち、「はみ」 を簡単な字で書き換えたものかもしれない。
この人が改名するときに、【蝶花楼】 という亭号をこしらえた。
…………………………
唐の八仙に、【張果老】(ちょうかろう)という仙人がいる。乗用の馬を瓢箪に納めて持ち歩いた、という。
瓢箪から駒、というのは、この張果老の逸話である。
ところから、文字を装飾的に変えた 【蝶花楼】 の亭号ができあがった。
…………………………
【蝶花楼桃花】。「花とゆめ」 の世界と思いきや、実は、馬が一頭かくれてたのである。
ログインしてコメントを確認・投稿する