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2021年08月22日11:27

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「銹釉 富士山文 六角形皿」

 今回は、「銹釉 富士山文 六角形皿」の紹介です。

 なお、写真では、なかなか本来の色が出せないのですが、実物は、もう少し茶色が濃く、チョコレート色をしています。


写真1: 表面


写真2: 側面
     かなり厳しい造形で、先端は鋭く、角に触れると「イタッ!」という感じです。
     当時の土は違うのでしょうか、、、?

写真3: 裏面



生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期
サ イ ズ : 最大口径;16.6cm 高さ;3.5cm 底径;8.7cm



 ところで、この「銹釉 富士山文 六角形皿」につきましても、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しておりますので、次に、その時の紹介文を再度掲載し、この「銹釉 富士山文 六角形皿」の紹介とさせていただきます。





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             <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー166 伊万里銹釉富士山文六角形皿     (平成24年1月1日登載)


 伊万里金銀彩は、明暦の初め頃から作られるようになり、万治、寛文前半期頃にかけて多く作られ、その後は急速に終息に向かったようである。

 銀彩については、

 万治2年(1659)12月10日、オランダ商館長ワーヘルナールの本国向報告に「私は自分の創意で祖国向け見本としてバタビアに持参するため瑠璃地に銀彩唐草文の磁器200点をある人に注文した。云々」と云う文書が残されていることは広く知られている。
 この報告をみると、万治2年には銀彩が市場に溢れる状態となったが、その前年万治元年頃は銀彩作品はまだ少なく、商品化企画の価値があるとワーヘルナールは考えたようである。
 これからみると、銀彩が開発されたのは万治元年に近い時期、明暦時代であったと考えられよう。

『〔伊万里〕誕生と展開─創成からその発展の跡をみる─』(小木一良・村上伸之共著 創樹社美術出版 平成10年刊)P.230〜231
 

とあるので、金銀彩と同じような時期に登場し、同じような時期にすたれていったものと思われる。  

 ただ、金色はいつまでも輝きを失わなかったためにその後にも使用されたが、銀色は酸化して輝きを失ってしまうためか、その後は使用されなかったようである。

 この六角形皿が銀彩なのかどうかは、すっかり輝きを失ってしまっているのではっきりとはしないが、厳しい造形、銹釉の色等から判断し、万治、寛文頃に作られたと思われるので、銀彩であると思っている。



    江戸時代前期     最大口径:16.6cm   高台径:8.7cm





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*古伊万里随想42 瞼の富士山 (平成24年1月1日登載)   (平成23年12月筆)


 この富士山文の皿を手に入れたのは、はぼ一昔前の平成14年の夏の「古美術品交換会」に於いてであった。

 発句(ホック)が告げられ、次々と槍が入る(買いたい値段が告げられる)。しかし、なんか盛り上がりに欠ける。物は良いのに!

 思うに、見込みの文様がパットしないからだろう。文様が銀彩で描かれているため、その銀が酸化して黒ズンでしまい、一見、何が描いてあるかわからないからだ。華やかさが失われてしまっている。むしろ、銀彩で文様など描かずに鉄釉だけのほうがよかったのかもしれない。伊万里が作られて初期の頃の一時期、金銀彩というものがさかんに作られたようだが、それも短期間で消滅してしまったこともうなずける。

 それはともかく、結局、私が一番の高額を提示したにもかかわらず、私の所には落ちなかった。競り不成立である。売り主が、そんなに安い額では売れないということで引っ込めることにしたからだ。

 私としても、「やっぱりな。華やかさがないものな。皆さんそれ以上に追っかけないよな。」と思い、その場は納得し、あきらめることにした。でも、時間が経つに従い、なんか気になる。「釣り逃した魚は大きい!」の心境。瞼を閉じれば、現物では銀が酸化してハッキリしていなかったその富士山がクッキリと蘇る! かくなるうえは、「あの富士山文の皿は、是非とも連れ帰らなければならないだろう!」と、心境は変転した。

 それで、交換会終了後、くだんの売り主と直接個別に交渉し、かなりの額を積み増すことでやっと結着をみた。従って、この富士山文の皿を手に入れたのは、厳密に言えば、「古美術品交換会」に於いてではなかったことになる。

 以上が、私がこの富士山文の皿を手に入れる際の経緯であるが、人はどうして富士山にこれほどまでにこだわり、あこがれるのだろうか。

 言うまでもなく、富士山は日本最高峰の独立峰で、その優美さは日本国内のみならず国外にまでも広く知れわたっており、芸術作品のさまざまな分野で題材とされ、芸術面に大きな影響を与えてきた。文学においては、万葉集以来取り上げられ、絵画においては、古来より多くの画家達によって描かれてきた。

 また、芸術面で大きな影響を与えてきたばかりではなく、富士山そのものは信仰の対象にもされてきている。その神々しいばかりの美しさは、人々の心をも虜にしてしまうのであろう。信仰心を抱くほどまでには至らないまでも、山頂に登り、そこから御来光を拝みたいと願う者は後を絶たない。かく言う私自身も、富士山に信仰心を抱くほどの者ではないが、一度は山頂から御来光を拝んでみたいと願う者の一人ではある。

 あれこれ考えてくると、どうも、富士山は、日本人の心の「ふるさと」となっているのかもしれない。だから、特に日本人は富士山にこだわり、あこがれるのかもしれない。

 ところで、一度は山頂から御来光を拝んでみたいとは願うものの、どうも、積極的に富士山に登りたいとは思わないので、これまでにそれが実現していないし、これからも実現しそうにもない。どうやら、私は生来のものぐさであり、体を激しく動かしたりするのが嫌いなようで、積極的に山登りなどしてみたいとは思わないからだ。ヘリコプターにでも乗って山頂に至り、そこから御来光を拝めればな〜などという極めて不遜な考えの持ち主なのである。

 もっとも、かなり前になるが、富士山には一度だけ登ったことがある。と言っても、バスで五合目まで行ったことがあるという話だから、とてもとても「登った」などと言える代物ではない。その際だって、ここから山頂まで足で登って行くのは大変だろうな〜、と思ったほどである。

 また、私が一度は山頂から御来光を拝んでみたいと思っているのは元旦の初日の出のことである。それだって、漠然と考えているからそんなことを思えるのであって、少し真剣に考えてみれば、普通の人が富士山頂まで登れるのは、7月1日の「お山開き」から8月26日の「お山じまい」までの約2ヶ月間の夏場に限られるのであって、真冬の正月になど登れるわけがないから、山頂から初日の出などを拝めるわけがないのである。

 かように考えてくると、私は、富士山にあこがれを抱いてはいるが、富士山そのものの中に身を置いていたいとは思っていないようだ。

 ここで、私は、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」の詩を思い浮かべる。富士山は私にとっても心の「ふるさと」となっているかもしれないが、やはり「遠きにありて思ふ」存在なのかもしれない。遠くから見る神々しくも美しい姿にあこがれを抱き、それが心の「ふるさと」となっているのかもしれない。

 だから、現実には何が描いてあるかもわからないようなこの皿が、瞼を閉じればクッキリと富士山を蘇らせることを感じ、是非入手したいと思ったのかもしれない。



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