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2021年01月25日00:40

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1月25日が忌日である人々

1212年(建暦2年)、浄土宗の開祖、法然(源空上人)が京都東山大谷(京都市東山区)で死去。享年80(満78歳没)。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、浄土宗を開きました。『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称されます。浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めています。浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付けています。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとしました。
1701年、江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)の契沖が、摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)の円珠庵にて62歳で入寂。和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行いました。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受けました。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となると、以後亡くなるまで古典の研究に勤しみました。『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾い、分類した『和字正濫抄』を著しています。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えています。
1821年(文政3年12月22日)、数学者、経世家(経済思想家)の本多利明が78歳で死去。18歳で江戸に出て、千葉歳胤に天文学を、今井兼庭に関流和算などを学びました。諸国の物産を調査し、1766年(明和2年)24歳の時、江戸に算学・天文の私塾を開き、以後晩年にいたるまで、浪人として門弟の教育に当たるとともに著述に専心しました。一時は加賀藩の前田家に出仕しています。1781年(天明元年)39歳の頃から北方問題へ関心を強め、危機意識を持ちます。1787年(天明7年)奥羽地方を旅し、天明の大飢饉に苦しむ会津藩・仙台藩などの農村の悲惨さを目のあたりにしました。これらが主な動機となって、彼の関心は経世論に向かいました。1789年(寛政元年)に『蝦夷拾遺』や江戸開発論を発表しました。1801年(享和元)には幕命で江戸から蝦夷間の航路を調査しています。漢字を放棄して能率的なアルファベットを導入せよと説いた他、ロンドンと同じ緯度に遷都すれば日本の首都もロンドン同様に繁栄するであろうとの理由から、カムチャツカ半島への遷都を説くなど、その主張には矯激な部分もありました。私が哲学科の学生だった時代、一般教養で日本思想史を受講したとき、一年間講義を受けたのが、この本多利明についてでした。
1947年、アメリカのギャング、アル・カポネがアルは脳卒中に伴う肺炎により死亡。彼については1月17日の「誕生日」で取り上げていますので、そちらをご参照ください。
1957年、細菌学者の志賀潔が1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、家財を失い、仙台に疎開しました。終戦後の1949年(昭和24年)からは、宮城県亘理郡坂元村磯浜の別荘(貴洋翠荘)に居住。1957年(昭和32年)、同地で老衰により死去。享年86。1897年(明治30年)に赤痢菌を発見し、「細菌学雑誌」に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表。1898年(明治31年)、要約論文をドイツ語で発表。これにより、赤痢菌の属名は志賀に因んでShigellaとされました。
1957年、実業家の小林一三(こばやし いちぞう)が大阪府池田市の自邸にて急性心臓性喘息で死去。84歳没。阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。日露戦争後に大阪に出て、鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げました。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道をはじめ、交通、住宅地経営の不動産業、阪急百貨店の小売業、東宝・宝塚歌劇団・阪急ブレーブスの興行業など、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られます。小林は「乗客は電車が創造する」との言葉を遺しており、沿線の地域開発により人口が増加し、その住民の需要を満たすことに商機を見出していました。彼が起こした事業は多岐に及びますがいずれもこの動線を捉えたものであり、これは日本の私鉄経営モデルの祖として後に他が倣うところとなりました。また小林は事業に取り組むに当たっては実に細かい点にまで顧客志向の注意と配慮を行っており、商品開発に独特の才覚があったことが著作や評伝から窺われます。小林は阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きをなすに至り、グループ以外にも東京電燈の経営に参画、日本軽金属の初代社長などを務め、国政で商工大臣、無任所の国務大臣を務めるなど、財界の重鎮としても活躍しました。実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれています。これらを集めた「逸翁美術館」が、彼の旧邸・雅俗山荘があった大阪府池田市にあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていました。雅俗山荘は小林一三記念館として一般公開されています。
1970年、特撮映画監督の円谷英二が静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去(68歳)。株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様と呼ばれます。1940年(昭和15年)、39歳。5月に『皇道日本』で撮影を担当。同じく5月の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊撮影」のクレジットがつきました。1942年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒット。1954年(昭和29年)、53歳。11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲みました。1955年(昭和30年)、54歳。『ゴジラの逆襲』で、晴れて世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられます。その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどでした。1963年(昭和38年)、62歳。東宝との専属契約解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、「株式会社円谷特技プロダクション」を設立、社長に就任。1966年(昭和41年)、65歳。1月2日より、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組作りもあり、同番組は大ヒット。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすこととなりました。 続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターはさらに怪獣ブームを煽ります。これらのヒットによって「円谷英二」の名はお茶の間の隅々にまで知れ渡ることとなり、特撮の神様とまで呼ばれるようになりました。1969年(昭和44年)、68歳。『緯度0大作戦』『日本海大海戦』が最後の特撮劇場作品となりました。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影のため多忙で実際には関わっていません。このサークロマ撮影のため鳴門の渦潮をロケし、さらに特撮プールに自ら入り演出。これがたたって体調を崩しますが撮影を強行し、一時入院。12月に静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移しました。
1973年には天才プロボクサー、大場政夫が、愛車シボレー・コルベットを運転中に、首都高速5号池袋線・大曲カーブ(飯田橋出入口-早稲田出口間)を曲がり切れず中央分離帯を乗り越えて反対車線に出たところで大型トラックと正面衝突。現場はトラックの下に車がめり込んだ状態でつぶれており、駆けつけた救急隊も生存の可能性がないものと判断せざるをえないほどの状況でした。この事故で現役世界王者のまま死亡。23歳没。
1999年、喜劇俳優の三木のり平が肝腫瘍のため死去。満74歳没(享年76)。日本喜劇人協会第5代会長。本名、田沼 則子(たぬま ただし)。この名前のため、都電で通学していた小学生時代、「坊や、お姉ちゃんの定期券を使っちゃ駄目だよ」としばしば言われたそうです。NHKラジオの『日曜娯楽版』に出演する傍ら、日本劇場の舞台に立つ。1950年、清水金一主演の喜劇『無敵競輪王』で映画デビュー。1954年には森繁久彌、三木鮎郎らと虻鉢座を結成し、注目を浴び、1957年からは、有島一郎とのコンビによる「東宝ミュージカルズ」で活躍。1956年、東宝と専属契約し、『のり平の三等亭主』で映画初主演。以後、森繁と共演した『社長シリーズ』や、森繁、伴淳三郎、フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博しました。『社長シリーズ』での「パァーッといきましょう」は流行語になりました。キャラクターのモデルおよび声優をつとめ続けた桃屋のアニメーションCMは、1958年の『助六篇』から1998年の『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、お茶の間に親しまれました。1999年の『大根の運命篇』より、実子で長男の小林のり一が声を担当しています。 演出家としての顔も持ち、大衆演劇を多く手がけた。特に森光子主演の舞台『放浪記』を1981年から担当したことがよく知られています。晩年には若い時に挫折して諦めた新劇に出演。その喜びを綴ったことから、作家の小林信彦から「喜劇役者は本意でなく、ただの新劇かぶれだった」と非難されています。
2016年、アメリカのコンピューター学者、認知科学者のマービン・ミンスキーが脳出血のため死去。88歳没。専門は人工知能 (AI) であり、マサチューセッツ工科大学の人工知能研究所の創設者の1人。初期の人工知能研究を行い、AIや哲学に関する著書でも知られ、「人工知能の父」と呼ばれます。
2017年、俳優、声優、タレント、振付師、実業家の藤村俊二が心不全のため静岡県御殿場市内の病院で死去。82歳没。愛称は「おヒョイ(さん)」。日劇ダンシングチーム12期生として1960年に渡欧し、イギリスやフランスを巡ります。このとき本場の芸の水準に驚いて舞踊家の道を断念し、帰国後、振付師に転向。ザ・ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)やレナウン「イエイエ」のCFの振り付けも担当しました。『8時だョ! 全員集合』では、ギャグアドバイザーだったこともあり、「ヒゲダンス」の振り付けを担当したとされます。しかし藤村自身が2008年4月18日放送のNHK-FM『邦楽ジョッキー』や『おしゃれカンケイ』でこれを否定し、『8時だョ! 全員集合』で振り付けたのはオープニング(民謡「北海盆唄」の替歌)の「エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャン コーラヤ」の部分であり、「腕・肩を順番に触るだけの単純な動作だが、忙しく踊っているように見える振り付け」と語っています。役者として長らく細身に黒髪のアフロヘアーがトレードマークでしたが、56歳のときに胃癌で胃を全摘出してからは毛染めをやめ、白髪と白い口ひげがトレードマークとなりました。これを消しゴム版画家のナンシー関からは、「意図的に老け役に回っている」と評されました。芸能界で活躍する一方、東京・南青山でバー「O'hyoi's」(オヒョイズ)を経営していました。店のロゴマークにはオーナーの藤村のシルエットがあしらわれていました。芸能人が経営する飲食店は、いわゆる名義貸しオーナーの形が多いのですが、藤村は仕事の合間を縫って店に立つなど、実際に現場での経営を行っていました。また、この店では「お客様にサービスするのが当たり前だから」という理由でサービス料は設定していませんでした。2010年12月に閉店。1934年生まれの同い年であった長門裕之、愛川欽也、大橋巨泉、財津一郎、森山周一郎らと1976年に親睦団体「昭和九年会」を結成していました。

本日の忌日もこれきりぃ〜!
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