mixiユーザー(id:5138718)

2021年01月25日00:29

41 view

1月24日が誕生日である人々

76年、第14代ローマ皇帝のハドリアヌス (Publius Aelius Trajanus Hadrianus)が生まれました。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換しました。五賢帝の一人。138年7月10日に62歳で没。
1619年(元和4年12月9日)、儒者、神道家の山崎闇斎が生まれました。朱子学者としては南学派に属します。朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られます。闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えました。天和2年12月9日(1682年1月24日)、死去。
1732年、フランスの劇作家、カロン・ド・ボーマルシェこと本名ピエール=オーギュスタン・カロンが生まれました。現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』からなる「フィガロ3部作」で名高いですが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評しています。劇壇での名声も『罪ある母』の再演によって回復していましたが、1799年5月18日、安らかに眠るように死んでいきました。死因は脳卒中であったらしいが、苦しんだ形跡は見られなかったということです。67歳没。
1927年、ロシア文学者の江川卓(えがわ たく)が生まれました。本名は「馬場 宏(ばば ひろし)」。フョードル・ドストエフスキーの翻訳・研究などで知られます。私も高校生の時分、ずいぶんお世話になりました。NHKのロシア語講座の講師も長く務め、多くの人に親しまれました。2001年7月4日午前9時13分、気管支炎のため74歳で逝去。
1936年、女優の市原悦子が生まれました。父親の薦めで富士銀行に就職が決まっていましたが演劇への思いが断ちがたく、俳優座養成所に6期生として入所。同期には近藤洋介、宮部昭夫、川口敦子、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清がいました。1957年に俳優座に入団し、『りこうなお嫁さん』でデビュー。同年に雑誌『新劇』の新人推賞を受賞し、1959年に『千鳥』で芸術祭奨励賞を受けました。さらに1963年には新劇演劇賞、1964年にゴールデン・アロー賞新人賞に輝き、新劇女優として高い評価を受けます。1975年に始まったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』では、すべての登場人物の声を常田富士男と2人のみで長年演じ続けて親しまれました。放映終了後から復活を望む声が多く、2005年にはゴールデンタイムで再放送されました。1983年からはテレビドラマ『家政婦は見た!』に主演し、四半世紀以上に渡って演じ続ける当たり役となります。土曜ワイド劇場を代表する高視聴率の人気シリーズとなりました。2018年12月下旬に盲腸のため入院。手術は行わず投薬治療開始。一時復調し正月を自宅で過ごしましたが再び体調を崩し1月5日から再び入院。一週間後の12日13時31分、心不全のため、東京都の病院で死去。82歳。テレビ朝日で放映されていた『翔べ! 必殺うらごろし』で、捨て台詞をはきながら悪党に刃物を突き立てていた「おばさん」役が私の心には残っています。
1936年、女優の野際陽子が生まれました。大学卒業後、1958年(昭和33年)にNHKにアナウンサーとして入局。1960年(昭和35年)にNHK東京放送局(現:NHK放送センター)に赴任。テレビ『おはようみなさん』の司会を週1回担当。以降の2年間は週3本のレギュラー番組を担当しました。1962年(昭和37年)3月にNHKを退職。15分の生放送番組である『女性専科』(TBS)の司会者に。1966年(昭和41年)2月にかねてから念願であったパリへ留学。ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受けながら、アリアンスフランセーズにも通い、1年を過ごしました。翌年帰国後『女性専科』に復帰し、パリで培ったファッションセンスを活かしました。ツイッギーよりも早くミニスカートを着用していました。1968年(昭和43年)にテレビドラマ『キイハンター』がスタートし、5年間放送され、視聴率30%以上を記録し一世を風靡しました。ディレクターにどうしても歌わせて欲しいと直談判して、主題歌の「非情のライセンス」も歌いました。1972年(昭和47年)には共演の千葉真一と婚約、翌年結婚。1992年(平成4年)、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子を溺愛するしたたかな姑を演じ、大ヒット。以後、着物姿の姑役が定着し、『ダブル・キッチン』、『誰にも言えない』、『スウィート・ホーム』、『長男の嫁』などTBSドラマの常連になりました。1994年(平成6年)、千葉真一と離婚。2014年(平成26年)に初期の肺腺癌と診断され手術したが、2015年(平成27年)に再発したため再手術で腫瘍摘出手術を行っていた。2016年(平成28年)秋からはドラマ『やすらぎの郷』の撮影に参加していましたが、再び癌が再発。体調が日に日に悪化する中、野際はそれを周囲に隠しながら2017年(平成29年)5月7日まで撮影を続行し、代役の効かない重要なシーンをすべて撮り終えていました。しかし翌5月8日、肺炎を併発して入院。以降容態は回復することなく、1か月後の6月13日午前8時5分、娘・真瀬らと事務所スタッフに看取られ、肺腺癌のために東京都内の病院にて、81歳で死去。
1941年、元プロレスのレフェリーのミスター高橋が生まれました。ニックネームは「ピーター」。 1963年、プロレスラーに転向。山口利夫一派としてアジア各地を転戦。
1972年、山本小鉄の勧誘でレフェリーとして草創期の新日本プロレスに入団。以来25年余にわたりメインレフェリーとしてアントニオ猪木らの試合を2万試合以上裁き、審判部長、マッチメイカーも務めます。また、NWAの公認レフェリーだったこともあります。新日本プロレスに招聘される外国人レスラーの世話係も担当しました。レフェリー在任中に、『月刊デラックスプロレス』にプロレスラーのリング外のエピソードを題材にした連載「陽気な裸のギャングたち」を持ち、数々の外国人レスラーの陽気な素顔を紹介していました。平成に入ると、長州力の信任を受けたタイガー服部にメインレフェリーの座を譲り、1998年にレフェリーを引退。引退したレスラー達の受け皿として警備会社を企画しましたが会社の許可が最終的に下りず、東放学園高等専修学校の体育講師となります。
その恨みからか、2000年前後からプロレス界の裏話をまとめた本を執筆。初回作『プロレス 至近距離の真実』では、広く世間に知られた有名レスラーたちの素顔や意外な一面、そして著者自身の経験談などを綴りました。しかし次作の『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』で、一般には知られていないプロレス界の裏舞台に関する内容を赤裸々に記します。同書は暴露本とされることがありますが、高橋本人はそれを否定して「プロレス界への提言」だとしています。これには無理があるのは明白です。
近年は、プロレスの裏側を題材にした小説『東京デンジャラスボーイ』シリーズなどを執筆しています。また、別冊宝島のプロレスムック本に掲載された原田久仁信の劇画に原作を提供しています。
1943年、アメリカの女優、シャロン・テートが生まれました。1960年代にテレビの人気シリーズに出演し、その後、映画に進出した。映画『吸血鬼』で共演したのが縁で1968年1月20日に映画監督のロマン・ポランスキーと結婚しましたが、翌1969年8月9日、狂信的カルト指導者チャールズ・マンソンの信奉者達の一人、スーザン・アトキンスら3人組によって、一緒にいた他の3名の友人達と、たまたま通りがかって犯行グループに声を掛けた1名と共にロサンゼルスの自宅で殺害されました。26歳没。妊娠中でした。
1947年生まれのプロゴルファー、尾崎将司(ジャンボ尾崎)はパス。
1948年、漫画家の里中満智子が生まれました。16歳で第1回講談社新人漫画賞で1位入賞し、そのままデビュー。週刊誌が取材に来る一躍脚光を浴び、親や教師も漫画家になることを賛成するようになりました。人物描写力を磨くため、目をつぶって新聞で指さした記事の当事者になりきって考えるという独特のトレーニングを編み出しました。大学受験が近づくと、漫画業を一時休むことを勧められましたが、「学校は一生は行かないが、仕事は一生」と考えて、3年生で大阪市立桜宮高等学校を中退。その後、当時の少女漫画で描かれたような「恋」や「ときめき」だけでなく、激しい愛のあり方や、愛によって生まれる憎しみや苦しみ、道ならぬ恋愛などを描きました。それらはやがて少女漫画というジャンルを超えて、大人の女性も読む恋愛ドラマとしてその世界を広げていきました。近年では、『天上の虹』(2015年完結)やギリシア神話、名作オペラ、『旧約聖書』のコミカライズ等を出版しています。漫画『ドカベン』に登場する里中智の名前の元となった人でもあります。『野球狂の詩』の富樫平八郎が主人公である「〜10番」シリーズでは子供や女性の作画で協力していました。
1949年、アメリカの俳優、ジョン・ベルーシが生まれました。地元の大学を中退後、1971年にシカゴの即興コメディー劇団「ザ・セカンド・シティ」に出演し人気を博します。その後、ニューヨークのオフ・ブロードウェイのコメディショー「ナショナル・ランプーン・レミングス」に進出し、ウッドストック・フェスティバルをパロディ化した舞台でジョー・コッカーの歌真似を披露。また、1973年から1975年にかけて出演したラジオ番組「ナショナル・ランプーン・ラジオ・アワー」では、番組の構成や新人のスカウトも任されました。1975年に始まったNBCのコメディー番組『サタデー・ナイト・ライブ』に、チェビー・チェイスやビル・マーレイらとともにオリジナル・メンバーの1人として出演。マーロン・ブランド、エリザベス・テイラー、キッシンジャー国務長官などの物真似、『用心棒』をパロディにした「サムライ (Samurai Futaba) 」シリーズ[1]、「ギリシャ料理店のオーナー」などのアナーキーでハイテンションな芸風により人気を博した。
1978年に公開された『アニマル・ハウス』は低予算作品ながら大ヒットを記録し、主演のベルーシは「ニューズウィーク」の表紙に登場するなど映画スターとしても名を上げます。以後も『1941』や『Oh!ベルーシ絶体絶命』など複数のコメディ作品に主役や重要な脇役として出演し、アクが強く個性的な役柄を演じられる俳優として高い人気を誇りました。ダン・エイクロイドと結成したバンド、ブルース・ブラザーズでは、兄の"ジョリエット"・ジェイク役でメインボーカルを担当。本人は元々ハードロックやヘヴィメタルの愛好家でしたが、ブルースシンガーとして味わいのある歌声を聞かせました。バンドは「サタデー・ナイト・ライブ」への出演、ファーストアルバム『ブルースは絆』の全米ナンバー1ヒット、映画『ブルース・ブラザース』(1980年)の公開などにより、世界的な知名度を獲得。1981年には『ブルース・ブラザース』のプロモーションのためエイクロイドと共に来日し、吉祥寺にあるライブハウスを訪れて日本人バンドとのセッションも行いました。人気絶頂期の1982年3月5日に、薬物の過剰摂取により、ロサンゼルス、ハリウッドの高級ホテル「シャトー・マーモント・ホテル・アンド・バンガローズ 」の客室内で死去。33歳没。スピードボール(コカインとヘロインの混合物)の乱用が原因とされます。
1950年、台湾出身の女優、歌手のジュディ・オング(翁倩玉) が生まれました。版画家としてはジュディ・オング倩玉という雅号を使っています。語学が得意で、母語である台湾語のほか、日本語、英語、中国語、スペイン語、広東語の6言語を話すことができます。1970年代、『おしどり右京捕物車』、『賞金稼ぎ』、『必殺からくり人』、『新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅』、『江戸を斬るIV』など多くの時代劇に出演しています。1979年に「エーゲ海のテーマ〜魅せられて」が200万枚の大ヒット。第21回日本レコード大賞を受賞。第30回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たしまます。彼女自身のデザインによる、扇状に広がる袖がついた優雅な衣装も話題になりました。
1951年、シンガーソングライターの五輪真弓が生まれました。1972年10月、CBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックレコーズ)より、アルバム『五輪真弓/少女』とシングル「少女」の同時発売でデビュー。最初のアルバム『五輪真弓/少女』はアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスのクリスタル・サウンド・スタジオでレコーディングされました。このレコーディングには五輪のデモテープを聴いて感銘を受けたキャロル・キング、チャールズ・ラーキーも参加し、ストリングスの中ではデヴィッド・キャンベルがヴィオラを弾いています。アルバムはオリコンでは最高6位にランク。いわゆる海外レコーディングを商業的に成功させた先駆者としても日本の音楽界に大きな影響を与え、その後さまざまな歌手やミュージシャンたちがそれに追随しました。マスメディアでは「和製キャロル・キング」と謳われ、日本女性シンガーソングライターの草分けと呼ばれました。1980年にリリースされたシングル「恋人よ」は当初はB面(カップリング)用の曲でしたが、歌入れの後にその出来の素晴らしさにA面として発売されることになりました。「恋人よ」は大ヒット、彼女の代表曲となり、同年の第22回日本レコード大賞金賞を受賞。その後美空ひばりや淡谷のり子の重要なステージ・レパートリーにもなり、後世へと伝えられる曲となりました。
1956年、タレントの渡辺正行が生まれました。明治大学時代は落語研究会に所属し、同会に受け継がれた名跡である「紫紺亭志い朝」(6代目)を当時の5代目・立川志の輔から襲名しました。大学在学中の1977年、劇団テアトル・エコー養成所に入所。ここで一級上のラサール石井、同期の小宮孝泰とともにコントグループ「コント赤信号」を結成しました。1980年に関西テレビ制作の『花王名人劇場』でデビューし、暴走族コントなどで人気を博します。コント赤信号時代に披露した暴走族やチンピラなどをネタにしたコントが好評を博し、そのコントの役柄である「リーダー」がいつしか渡辺の愛称として定着するようになりました。2005年からは「伊東四朗一座」及び「熱海五郎一座」(伊東四朗抜きの場合)の舞台公演にレギュラーメンバーとして参加し、明治大学落語研究会の先輩でもある三宅裕司とともに東京喜劇の継承と発展に取り組んでいます。
1957年、俳優の段田安則が生まれました。立命館大学文学部日本文学専攻を中退後、劇団青年座附属の青年座研究所に入所し、第5期生として1981年に卒業。同年、野田秀樹主宰の劇団「夢の遊眠社」へ入団し、1992年の劇団解散まで主力俳優として活躍。その後も多くの舞台に出演し、2009年の『夜の来訪者(英語版)』では演出にも挑戦しています。シリアスもコミカルも巧みにこなす俳優として活動しています。テレビドラマでは『スウィート・ホーム』や『長男の嫁』などでの温和な役柄や、『ふたりっ子』や『オードリー』などの主人公の父親役で知られますが、『聖者の行進』で魅せた迫真の悪役ぶりも話題となりました。NHKの大河ドラマでは、1996年の『秀吉』と2016年の『真田丸』の二度、滝川一益を演じています。
1959年、元プロレスラーの前田日明が生まれています。プロレス界にキックボクシングやサンボの要素を持ち込み、格闘技を日本人にとって身近なものにしました。また、プロモーターとして格闘技の大規模興行を成功させました。リングスCEO、THE OUTSIDERプロデューサー。リングスではエメリヤーエンコ・ヒョードル、THE OUTSIDERでは朝倉未来、朝倉海を発掘しました。かつては在日韓国人で、韓国名は高 日明(コ・イルミョン、고일명)。1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われていますが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わりました。1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」における異種格闘技戦で、ドン・中矢・ニールセンを逆片エビ固めでギブアップさせて勝利。この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになりました。1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチにおいて、木戸にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、長州の顔面をキック(敵の固め技から味方を救う同様の攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせました(長州vs前田 顔面蹴撃事件。前田本人は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き ”今から蹴りますよ” と合図を送ったが肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っています)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下します。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されましたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇されました。その後UWFを復活させますが、参加した日本人選手全員にそっぽを向かれ、「リングス」を立ち上げました。ここでは他の選手に真剣勝負をさせ、自分だけがストーリーありの試合を行っていました。1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。リングスは解散し、前田は現在はいわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」を主宰しています。
1961年生まれのドイツの女優、ナスターシャ・キンスキーについては名前だけしか知りません。
1964年生まれの女優、タレントの渡辺めぐみについても同様。松金よね子、KINYAとともに“よめきんトリオ”を結成していたのだけをかろうじて覚えています。
1968年、将棋の元女流棋士、小説家、エッセイスト、漫画原作者、占い師の林葉直子が生まれています。1979年、女流アマ名人戦に小学校6年生で優勝するなど福岡の天才少女と騒がれました。将棋の実力があるだけでなく、ルックスの良さもあいまって、テレビのドラマやCMなどにも出演。1994年5月29日に林葉は、心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、保持していた倉敷藤花のタイトルも返上した上で、棋士としての処遇は理事会の決定に従うという旨の休養願いを理事の勝浦修を通じて日本将棋連盟理事会に提出し、姿を消します。連絡がつかなかったことから、疾走騒ぎになりました。

次は忌日。
9 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年01月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31