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2021年01月24日05:00

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仏陀と孔子

仏陀と孔子

【理念の現実化を探求、運命と戦う】プラトンは、知恵を探求し邪知暴虐な王と対峙。孔子は仁義礼智信を追求、遍歴の果て74歳で果てる。空海は即身成仏を追求、金剛峯寺と東寺構築。嵯峨天皇は平城上皇の乱と戦い810年坂上田村麻呂を大納言に任じて鎮圧、弘仁文化を築く。

仏陀の思想
【釈迦、一切皆苦】釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタ瞿曇悉達多。父、浄飯王、母、摩耶夫人の下に生まれ、16歳で妃、耶輸陀羅を娶り羅睺羅(子)を得た。四門出遊。カピラ城市の四方の門から郊外に出て、東門を出て老人に、南門を出て病人に、西門を出て死人に、北門を出て出家修行者に、それぞれ出会った、老・病・死・出家の四事実に出会う。それにより釈迦(太子)自ら出家を決意した。29歳で出家し、6年間苦行を積み、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想に入り坐禅を続け、35歳のとき悟りを得る。紀元前463年-紀元前383年、80歳で入滅。
【初転法輪の仏陀】仏陀は、人生を苦とみた。四苦八苦。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。苦から救うものは何か。四諦は仏陀が最初の説法で説いた。『阿含経』四諦、苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す。五蘊皆空『般若心経』
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孔子の悲劇
【孔子、人生は悲劇】「吾少くして賤し。故に鄙事ひじに多能なり(中略)吾試もちいられず。故に芸あり。」『論語』子罕第九。「孔子貧しく且つ賎し」『史記』。孔子は三歳で父と死に別れた後、母のもとで極貧の日々を送った。幼い孔子は巫女たちの間で育ち、お供え物の俎豆そとうを遊び道具として育つ。年を重ねるうちに葬式の礼などに雇われて、葬儀の事を学んだ。『史記』
孔子は不幸な家庭に生まれ、不幸な家族に生きた。周王朝が滅亡、人の心が荒れすさんだ春秋戦国時代。「乱世に人はいかに生きるべきか」この問いに対する答えを求めて、生きた。
紀元前552年、孔子は山東省、魯の国 昌平郷の陬邑という小さな村に生まれた。姓は「孔」、名は「丘」。孔子が「孔丘」と呼ばれるようになったのは、孔子が孔家から認知された17歳頃。
「紇*1、顔氏の女*2と野合して、孔子を生む。」 “野合”−孔子は結婚を許されぬ男女から産まれた子。『史記』は、「徴在ちょうざいは尼山にある巫祠ふし*3の巫女である。それは顔氏の巫児ふじ*4である」と記す。つまり、彼女は家祀かし*5に奉仕するために家に残ったため、男女関係を持つことは禁じられていた。

【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても下落せず、最下の愚者は 、どんなによい境遇にあっても向上しない。どんなに地位と肩書が高くて富裕でも、知性の貧困は隠せない。地位と肩書が高く高度な職業でも、魂の貧困は隠せない。「論語」陽貨篇。
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【理念の現実化を探求、運命と戦う】プラトンは、知恵を探求し邪知暴虐な王と対峙。孔子は仁義礼智信を追求、遍歴の果て74歳で果てる。空海は即身成仏を追求、金剛峯寺と東寺構築。嵯峨天皇は平城上皇の乱と戦い810年坂上田村麻呂を大納言に任じて鎮圧、弘仁文化を築く。

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旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
https://bit.ly/2H2diKc
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