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2021年01月22日21:02

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★新撰組顛末記★

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★新撰組顛末記★
☆新撰組隊士/永倉新八の証言☆

そもそもこの書物は大正2年に永倉新八からの聞き書きを、小樽新聞に連載されたものを1971年に編纂し発行されたものですが、幹部であった永倉新八の新撰組隊士達の日常や事件がなど生々しい話が満載されている。

子供の頃より新撰組の時代劇を映画やテレビでいろいろ観てきたが、一番印象に残っているのは1973年の春頃からフジテレビで放送された鶴田浩二主演の連続ドラマでした♬

プロデューサーから監督、脚本家まで東映の映画制作カチンコに携わっている方々のテレビドラマだったので見応えのある作品だったと思う♪
また配役も近藤勇に鶴田浩二、土方歳三に栗塚旭、沖田総司には有川博、そして、この顛末記を著した永倉新八には伊吹吾郎と納得のいく配役だった記憶がありました♪

永倉新八は、浪人ではなく松前藩の武士であったが、清川八郎なる尊王攘夷派の者がその主旨を隠して江戸で浪士を募集し、230名程が応募して京都に上洛したが、清川八郎の主旨と異にする芹沢鴨や近藤勇達は清川八郎グループとは袂を分け、芹沢鴨を中心に京都にて壬生浪士隊を結成し、後に新撰組となり、会津藩お擁となったが、永倉新八も近藤勇と行動を共にした。
元々近藤勇とは江戸の道場で永倉が客分で友人でもあったのだ。

この「新撰組顛末記」に書かれている事柄の新撰組の事件や出来事は、細部は異なるものの小説やテレビや映画で周知されている事柄と大した違いは無い、友達であった近藤勇との確執や芹沢鴨の話やあの池田屋騒動は当事者の証言として興味深い♪

芹沢鴨は初代新撰組の隊長であったが、周知の如く近藤勇や土方歳三、沖田総司、東堂平八、御蔵伊勢らによって暗殺されたが、短気と酒乱さえなければ本当に逸材だったと語っている、、、
豪放磊落、大勢を纏めるリーダーシップ、資金の調達能力、判断力、腹の座ったカリスマ性など誰にも負けない能力があり惜しい人材であった、と。
その日、文久三年九月十八日(1863年)夜、芹沢鴨とその近しい部下の平山、平間、愛妾の小梅の四名を斬殺した。
近藤勇達は暗殺とは勿論報告せず、「賊のため芹沢鴨横死にそうろう」と会津藩に報告した、と云う。

池田屋騒動は長州の者達が京都市中を放火し、それに乗じて騒動を起こすとの噂、そしてある日倒幕派として有名な志士、古高俊太郎を捕らえた、過酷な拷問、木刀に等により背中が割れる程の過酷な責めと五寸釘を足に刺して白状させたのが、上記を物語る計画だった。
それにより市中を警戒している時、夜、たまたま暗い中に池田屋だけ灯りが灯っていたので近藤勇達が怪しんで乗り込んだのだった、、、
その時新撰組は、近藤勇と沖田総司、永倉新八、東堂平助、谷三十郎、原田左之助のたったの6名、相手は20数名、、、
近藤勇が一人で二階に上がり大きな声で「無礼すまいぞ!!」と一喝し、志士達にを睨みつけると、その迫力で志士達は抜刀したものの浮き足立ち、向かってくるどころか皆屋根から中庭に飛び降り逃げ出した、、、
下では谷や原田が待ち受け、窮鼠猫を噛むの状態になり、乱闘斬り合いになった。

後に会津藩なども応援も駆けつけたが、終わってみると、池田屋は家屋のていをなさず、辺りは血の海、チョンマゲの付いた頭部や斬られた腕や足が散乱する地獄絵図の如きであったと、、、
この池田屋騒動のあと壬生の屯所に引き揚げる際には沿道が数万の人垣になっていた、と云う。
新撰組は東堂が眉間を切られたが大事には至らず、永倉新八は左手親指の根元に深い傷を負ったとある。
ちなみに、東堂平助は美男子だった様だ。
しかし、6名で誰も死人が出ないとは、相当な手練れ、凄い剣術の使い手達だ、、、。


この著作の中にあるエピソードは数多くありますが、一つ一つ挙げていると限りないので、この辺りにしておきますが、近藤勇はしだいに専政を敷き同士達を家来の如きに扱う様になって行く。
それに反発して永倉新八達数名は会津藩に近藤勇の横暴さを報告し、脱隊を覚悟するが、会津藩に説得され思い止まるが、以来近藤勇と確執が出来る。

そして時代は内戦状態に、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍と共に戦うが、この頃から新撰組も近藤勇も威力を失くし、新撰組隊士もバラバラになって行き、江戸の板橋にて近藤勇は捕らえられ首を斬首された。
官軍は近藤勇に降伏を訴えたが、降伏すれば斬首されなかったはずだ。

時代は明治に変わり侍は失くなり、勝てば官軍負ければ賊軍で、新撰組も新しい時代の中で賊軍扱いされていた。
永倉新八はそれらを愁い、この書のによって世間に問うた事により、新撰組の再評価されるキッカケとなったのだ。
また、近藤勇との確執もあったが、永倉新八は北区滝野川に近藤勇と土方歳三の墓を建立した。

新撰組と云うと幕末の武勇伝で有名ですが、新撰組として対外的に勤皇の志士達を倒した数は池田屋の七名だけで、芹沢鴨をはじめ油小路事件など暗殺や切腹や斬殺で内部の粛清で隊士を斬り殺した数の方が多く、その数は40名にもなる。

考えてみると、幕末、新撰組の
話はそお遠い話ではない、ひいお爺さんの時代だ、永倉新八のひ孫のかたもこの書に関わっているが、こーした時代を経て現在の平和がある事に感謝しなければなりませんが、、、
永倉新八も大正四年まで存命されてたし、やはり隊士の稗田利八は昭和13年迄存命されていたのだ、ちなみにその稗田利八の口述により、子母沢寛の「新撰組始末記」が著作され、映画などはこれを元に制作されたが、後に司馬遼太郎等の小説も映画やテレビの現在になっている様だ。
余談だが、同時代、同時期、会津の白虎隊の唯一の生き残り飯沼貞吉はやはり昭和6年迄存命されていた。


結局、薩長による明治政府は徳川幕府に取って変わっただけで、文明開化どころか文明退化させ、江戸時代の内戦から日清日露、太平洋戦争とその思想を繋いで数百万人の犠牲者を出し、天皇陛下に戦犯の汚名まで、、、
個人的には明治維新は失敗だと思っている。
昔、鞍馬天狗の映画の中で、勤皇派の鞍馬天狗が杉作に「杉作、日本の夜明けは近いぞ!」と、投げ掛けたが、むしろ時代は暗黒の時代に突入して行ったのだ。

pic3、は当時大阪随一の豪商、”鴻池”に面識も無いのに、芹沢鴨が談判に行き金子200両を用立てた借用書、後に会津藩が返済している。









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