昔々、幼稚園に入る前にその幼稚園の説明会だか何だかに行ったら、校庭で仮面ライダー・ショーがあった。そこで、ライダーとショッカーたちが戦い、ショッカーたちはピラニアのいる池に投げ落とされて全員ピラニアに食べられて全滅した。当時それを見た僕は本気でショッカーたちがピアニアに食べられたと思って物凄いショックを受け、ただただ怖かったのを覚えている。
今から思えば、池というのは砂場だったし、ピラニアなんかいるわけないし、そもそもショッカーは池に落ちたあとコソコソと退場してるしと、いろいろ雑なわけだが、これから幼稚園に入ろうという僕の頭にはショッカーがピラニアに食べられて死んだということなっているのだ。
小さい子供の時期というのは、フィクションと現実の境界線が曖昧で、ほとんど繋がっているような感覚がある。また、そもそも矛盾なんていう発想もないので、矛盾だとか非合理的なものでさえも自然なのだ。現実に対しては「そういうもんだ」と思っている(なんか変だなとは思わない)。そして、なんだかよく分からないことが多い。そしてまた、どうにもならないことがあるようだとなんとなく気付いているのだ。こういう感覚は、僕は少しだけ覚えている。
フィクションと現実とが同じ価値を持っているので、テレビやマンガや絵本などは娯楽ではなく生活の延長線上としてある。それらを作り事(空想)として対象化するわけではなくて、その中に生きることが出来る。マンガの中のキャラクターはみんな友達のようなものなのだ。
やがて理性が発達して、混沌としていた世界は理屈、論理、秩序、科学的な思考というような道具によって整理され、だんだん明確に見えてくるようになる。そして、この世界を正しく見ているような気になっている。
だけど、克服したはずのあの混沌とした世界は、ふとした拍子に突然また顔を出す。芸術とか音楽とか小説とか、ひたすら垂直に掘っていくと、論理など通用しない地平に出ることがある。ふりだしに戻ったような、そんな感覚。
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