メタルを聴くと血圧が下がることが証明されたなんていうニュース記事を読んだんだけど、んなことわざわざ言われなくともみんな体験的に知ってるのだ。頭に血が上ってイラついた人がメタル聴けば気分が発散されて血圧だって下がるだろう。ウエスタン・ラリアート見て気分がスッキリするのと一緒で、要は暴力的衝動の発散だ。内側に持つ暴力的衝動と同質の暴力的な音によって衝動が消化されるのだ。マイナスにマイマスをかけるとプラスになるみたいなもの。
で、血圧なんてどうでもいいのだが、アタマの中の魔物をなんとかする音楽の方がよっぽど必要だ。みんなこれをなかなか見つけることが出来ずに苦労している。血圧と同じようにアタマの中の魔物も放っておくと死に至る。人それぞれ種類は違うだろうが、これを探していく過程で音楽通になってしまった人というのが結構な割合でいるのではなかろうか。
最近MERZBOWばかりずっと聴いててそんなことを思った次第。
ところでMERZBOWのノイズもいいのだが、もっともっとあっちに行っちゃったような音を聴きたい。聴いたとたんにアタマが吹っ飛んで馬鹿になるくらいの音。
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夜、自転車をノロノロと乗りながら「はぁ〜」と大きくため息をついたら、すぐ横から「ニャー」という声が聞え、驚いて見てみたら猫がこちらを見ていた。景気の悪い溜息なんかつくなと怒られたのだろうか。その二日後の夜、同じところを自転車で通ったら同じ猫がこちらを見て「ニャー」と鳴くので僕も「ニャー」と返したら、猫は短く「ニャ」と返事をした。まあ、それだけのことなんだが。
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僕のホームページなんてもはや誰も見てないだろうが、古い記事はもう25年くらい前のものなので、自分で読んでも内容に違和感があるものが多い。もしこれが本だったら、昔の文章だし記録みたいなものだと思えばまあいいかって感じで許せるのだろう。本というのは年月とともに紙が劣化してそれなりに変色などもしたりして、その劣化ぶりが昔のものであることを主張している。だから内容が古くなっても、昔書いたものだからってことで納得できる。古い本に書かれた文章はその内容如何に関わらず紙が劣化してるぶんだけ時間の経過を感じるものだ。
だけどインターネットの場合、文章がどんなに古くても見た目は最新記事と変わらない。フォントがどんどん劣化して変色していくなんてこともない。そこに時間の経過を表すものなど何もない。インターネットには時間など無い。
それで困るのは、ホームページに古い記事と新しい記事が混在するってことだ。25年前に書いたもののすぐ下に最新の文章があったりするってのはどうにも落ち着かない。ホームページの性質上しょうがないのだが、はじめはそんなことになるとは思いもしなかった。まあ、記事に全部日付をつけとけば問題なかったのかもしれないけど。
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気が付けば本屋に売ってないような絶版本ばかり読んでるわけだが、絶版本というのは要するに生き残れなかった本ということだ。年月の経過によって振り落とされて歴史の中に埋もれてしまった本。そんなものばかりを掘り起こして読んでいる。掘り起こされた方にとっては黒歴史を暴く墓堀り人に見えるかもしれない。絶版本の中には文章よりも挿絵の方に値打ちがあるなんてのもあって、挿絵のせいでプレミアがつくことがあるのが面白い。
小説の挿絵というのは時代とともに変わっていくもので、ジュニア小説などは60年代と70年代と80年代それぞれに絵柄のパターンがある。僕は70年代の挿絵イラストがツボだけど、80年代も懐かしさがあって面白い。ところが、90年代の絵柄になると突然つまらなく思えてしまう。2000年代になるともっとつまらない。自分の持つ価値観の位置関係がよく分かる事例かもしれない。
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