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2020年11月25日06:22

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作品を読む  『江戸の思想闘争』を読む 二

 荻生徂徠は、何故、古文辞学を起こしたのか? それは伊藤仁斎に対する批判意識から起きたものだと指摘している。ここで重要なのは、伊藤仁斎が町人出身だったことである。

 それまでの儒学は士大夫層の思想であり、日本では武士階級にそれがあたった。しかし仁斎は京都の商人の出で、支配階級である武士層とは異なる形で儒学を読み始めたのである。仁斎の始めたのを古義学といい、徂徠の古文辞学と合わせて古学という。

 それまでの儒学の体系のなかでは、中国においては孔子以前の経書である詩・書・礼・楽・易・春秋の六経が正当な経書とされていた。朱子はそれを再構成し、失われていた楽書を除いた五経と、孔子以降に書かれた『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書をもって四書五経としたわけである。

 で、そのなかで『論語』『孟子』は低い位置づけにあった。仁斎はそれをひっくり返し、「『論語』こそ宇宙第一の書」と論じたわけである。そして「『大学』は孔子の書ではない」とも論じた。長い間、ありがたい「贈与物」であった朱子学が、薬から毒の位置へと非難されたわけである。

 仁斎は、ではどうしたら「道」を見出せるかと言う問いに、「平常」や「人倫日用」という言葉を持ち出す。つまり日常のなかに、既に「道」は実現されていた、というのが仁斎の意見だった。

 これは後の宣長の「儒学以前の日本」に「まこと」を見出す論旨に近いこと判るだろう。そして徂徠はこういう仁斎の論に対し、孔子以前の「先王の道」こそが本当の道だと論じた。そのための手がかりが、中国の読み通りに古典を読む原点回帰の方法、つまり古文辞学だったわけである。

 徂徠の弟子である太宰春台は中国から儒学が来る以前は、「道」というものがない荒れた「自然状態」だったとさらに論を先鋭化させる。そこでは仁義礼楽孝悌などの人倫がなく、戦と乱婚にあけくれていた。実際、過去の歴史においては兄妹や叔父と姪などの血痕が許されていた、などと例証していくのである。

 これに強く反発したのが賀茂真淵で、儒学者はなんでも良いものは中国から来たと言いたがるが、古代中国においては母を姦する者もいたではないか、と批判するのである。そもそも仁義礼智などには和訓がないのは、それがなかったという事ではなく、当たり前に存在したがためにそれを区分すりょうな言語化が行われなかったためだ、と春台を批判したのである。

 過去においては婚姻にも厳密ルールがあり、同父兄弟とは結婚しないあが、同母兄弟とは結婚できる、という決まりだっただけだと論じている。つまりそれは文化的な違いであって、人倫の有無の差ではない、と論じたのである。

 このような文化相対主義的視点は、19世紀になってからアメリカの人類学者ボアズが提唱したものであるが、賀茂真淵はずっとそれ以前にそういう視点を持っていた、と作者は指摘している。そしてこの賀茂真淵の後に本居宣長が続くわけで、これが「国学」となていくのである。
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