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2020年11月24日21:29

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作品を読む  『江戸の思想闘争』を読む 一

 小説のための歴史資料とかばかり読んでると、無性に理論的な本とか読みたくなる。資料は知識は増えるが思考は刺激されないので、思考を刺激する読書がしたくなるのだ。それで図書館に行って、適当に目についた本を借りてきた。それが『江戸の思想闘争』(山泰幸著 角川選書)だった。

 話は新井白石の『鬼神論』から始まる。最近人気の鬼滅は別として、ここの「鬼神」は、『論語』の一説に基づいたもので、意味合いとしては『神や死後の世界の論』というくらいのものだ。

 『論語』では孔子は、「死をどうお考えですか、先生?」とか訊ねられて、「生の事が判らぬのに、死が判ろうか」とか答える。ここから儒学の「現実的態度」というものが基本路線になって、儒学は宗教的な世界観からは意識的に一歩身を引く、というのが基本だ。

 それを引き合いにした上で新井白石は、「薬は毒の側面があり、藪医者は薬と思って毒を与えることがある」という、「薬=毒」論を展開する。その上で白石は、仏教に対して「薬と思って与えてるが、父子や君臣などを大事にせず、利己主義を勧める毒になっている」という。これが『鬼神論』だ。

 この作者はその前段階で、人類学者マルセル・モースの「贈与論」を展開する。それは「贈与」と思っていたものが「毒」であったり、あるいは「詐欺」だったりすることもある。または送る者を優位にし、送られる者を劣位に置く支配関係の元となる側面を持つという論だ。

 で、この贈与論を白石は先取りしていた、というわけだが、さらに話は続き、今度は本居宣長の批判を見せる。それは「人が死んだら何処へ行くのか? というような疑問は、自然の情だ。身内が死んだら悲しいのが自然なのに、仏教だとか儒学だとかの論は、その自然の情を戒める。しかしそれは『さかしら』だ」と批判なのである。

 で、宣長はそういう「さかしらな」理屈を排除して、「古来の日本の美しい心情」を重視するという態度を見せるのである。これが『日本書紀』に比べて重視されてなかった、『古事記』に着目し、その言葉使いから「漢意(からごころ)」を抜いて「やまとことば」を復権させようとするわけである。

 白石は仏教を「薬=毒」として批判した。しかし宣長は、その両方、大陸か輸入した漢字文化そのものを「薬=毒」、あるいは「贈与=詐欺」と見做す立場で批判している、というわけである。

 そもそも、宣長は何故そういう思考軌跡に至ったか。そこには儒学者荻生徂徠の「古文辞学」の影響がある、という。日本では漢文は、レ点等の訓読法で多言語という違和感を超えて文章を読む技法が開発された。そのおかげで相当の文献が輸入で来た側面があるのだが、徂徠はそこを批判した。それは「唐の国の言葉を、自国の言葉に置き換えて読むことの勘違いを無視している」というのである。

 徂徠以前は、そこに「勘違いがあるかも」という疑問すらなかった。そこに疑義を差し挟んだのが徂徠だったわけである。この徂徠の批判によって、ある意味、文献は「漢文/日本語」という分断があるという事が意識化された。徂徠はその分断を乗り越えようとしたが、宣長は逆にその分断がそもそも相いれない間違いの元だと論じたわけである。

 
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