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2020年07月18日21:12

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キリスト教史〈2〉教父時代 (平凡社ライブラリー) アンリ・イレネ マルー 平凡社 1996年10月

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p.276
「指導者を欠いた一派」(アケファロイakephaloi)の人びとは(内部の分裂で彼ら自身も三つの小派に分かれたが)、ペトロス・モンゴスとその後継者たちを、彼らが『ヘノーティコン』を受け入れたかどで容赦していなかった。…それは教義の面では、初期にはエウテュケス派が数人いたが、その後、過激な傾向に走り、五一七年から五一八年からはハリカスナッソスのユリアヌス学派となった。この派の支持者たちは反対派から「非腐敗のユリアヌス派」(アフタルトドケータイaphtartodoketai)と呼ばれている(それは彼らが受肉した御言葉のからだの〈非腐敗性〉を主張したからである)。また(御言葉のからだは観念的な外観、すなわち〈幻影〉にすぎないと主張したため)、〈幻影派〉とも呼ばれた。この派から相反する二つの流れが分かれていく。一方は中庸な立場をとるが、アンティオケイアのセウェロスによって禁じられた(キリストのからだは御言葉の力によって腐敗から守られているとする説である)。もう一方は真の新エウテュケス派で、キリストのからだは、それ自体、そのままにしておいても腐敗しないとするだけでなく、厳密に言えば「創造されないで」存在しているとする(そこから彼らの〈非創造派〉〔アクティステータイaktistetai〕という呼び名が起っている)。
セウェロス派の人びとも(「腐敗するものを礼拝しているから」との理由で)その反対派から侮蔑的に「腐敗者礼拝派」(フタルトラトロイphtartolatroi)と呼ばれた。
p.277
やがて彼らのうちに「無知派」(アグノエータイagnoetai)が生まれる。…
…すなわち、解決済みの結論は、受肉した御言葉の中には唯一の〈本性〉があるということであった。しかし(キュリロス派の人びとの用語が曖昧なところがらみると)三位の中に三つの位格があるのだから、そこに三つの本性、三つの本質を区別してはならないであろうか。この考えは、後に三神論という汚名を着せられ、異端となる。それは五五七年頃に現れ、ヨアンネス・フィロポノス(Ioannes Philoponos五六五年以降没)と呼ばれる著名な人物によって有名となり、五六〇年には重要視された(このフィロポノスは「疲れを知らぬ」というあだ名の人物か、あるいは当時、教会への奉仕に「検診していた」信心深い一般信徒で構成されていた「フィロポノス会」という信心会のメンバーかどちらかわからない)。…三神論に対する批判は、また〈四神論〉という奇妙な異端を起こさせることになる(神性は三つのペルソナ〔位格〕と同列に並ぶから三位は四位になる)。
p.279
ビュザンティオンのレオンティオス(Leontios四世紀末ー五四三年以降)も同様である。彼は他方では〈位格〉(hypostasis自ら〔kath' heauto〕存在するもの)の概念の定義を明確にし、受肉した御言葉の神学にこれを適用することに努めて、発展を示している。…
…彼らは、プロクロスによって改訂され、あるいは巧みに適用された〈神難説〉(theopaschites)すなわち「三位の中の一位がわれわれのために肉体を受けて苦しんだ」(Unus de Trinitate...)という決まり文句のうちにすべてを解決する鍵を見出したと信じた。
p.284
彼自身はカルケドン信条の信奉者であることを主張しながら、極左単性説派の教義で、最も反対されている説、すなわちキリストの人間としてのからだの〈非腐敗性〉すなわちキリスト受難不可能論を教会が受け入れるように押しつけようとしていた。
p.285
 五四二年から五四三年のあいだに、誠実なキリスト教徒であるが、単性説派のアラビア・ガッサーン王国(Ghassanides)の君主と皇妃テオドラとの願いにより、ヤコブ・バラダイオスはアレクサンドレイアの総大司教テオドシオス(Theodosios五六六年没)によって司教に叙階された。
p.290
ネストリオス派のキリスト論は四八六年セレウケイアで開催されたペルシア帝国の諸教会の司教会議で公式に、決定的に承認されることになる。
p.294
すなわちペルシアの教会は四二〇年においても四一〇年の教会会議の規定を守り続けており、その教会の規定を四世紀のいくつかの教会会議がギリシアでつくりあげた規則に合わせる努力を続け、四二四年以後は、西方の教会に対して教会法的に独立を宣言している。…ニシビスの学校の教師たちの一人、ヘナーナー(Henana 六世紀後半)は、カトリック正統派に近い、もっと弾力性のある説を採り入れようと考えたが、結局、五八五年に破門され、その一味は仮借なく追放された。
p.300
ブレンミー(Blemmyes)、アロード(Alodes)、ノバード(Nobades)などと呼ばれるこの民族は好戦的で二つの隣国から恐れられていたが、長いあいだ異教徒であった。
p.311
西方では一般にひろく認められている原罪と肉欲との区別を、メッサリア派はもたないために、この傾きを悪魔が人間の魂に住んでいるために起こるものと表現している。そして悪魔を追放し、情欲に完全に打ち勝って至福の境地〈アパテイア〉(apatheia不動心)に達するためには厳格な禁欲生活に、時に祈りに、聖パウロが勧めている〈絶えまない祈り〉〔一テサ五:一七〕に頼らなければならないとする。悪が情欲において感覚的に体験されると同様に、聖霊が魂の中に入り、それを燃え立たせ、清めて神化する事実も彼らには同じように感覚を通して感じられ、それは光の現象、また恍惚の状態をともなうのである。そこからこの派に対して〈狂信者〉、〈歌う人〉(あるいは〈踊る人〉)という侮蔑的な呼称が起こっている。
p.332
 当初これらの教会は、ほぼ司教に匹敵する権限をもつ〈村司教〉の管轄下に置かれていた。しかし彼らは司教の権限を蚕食する向きがあったため、五ー六世紀には〈巡察者〉(periodeutes)という――呼称からして従属的性格を示す――単なる司祭によって代替されていた。
p.370
 ローマ人住民がいわば蛮族の保護下に入るという〈共存手段〉(モドゥス・ウィウェンディmodus vivendi)を見出すや否や、新たな敵が姿を現した。



■ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が建設!トルコ・イスタンブールの教会「アヤイリニ教会」
(GOTRIP! - 05月18日 06:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=206&from=diary&id=6085655

イスタンブールは、かつてローマ、ビザンツ、オスマンという三帝国の首都が置かれたトルコ最大の都市です。

1453年にオスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール旧市街)を攻略するまで、この街は東ローマ帝国の支配下にあり、多くの教会や修道院がありました。しかしこの街がオスマン帝国の領土になってからは、このような教会や修道院はイスラム寺院(モスク)に改修されていったのです。

イスタンブールを代表する観光名所であるアヤソフィア博物館やカーリエ博物館、ゼイレック・モスクも元は聖堂、修道院でしたが、オスマン帝国時代にイスラムの宗教施設に転用されたことは有名です。

このように、ほとんどのキリスト教会がモスクに転用される中で、わずかではありますが教会のまま残された建物も現存しています。その数少ない例の一つ、アヤイリニ教会をご紹介しましょう。

アヤイリニ教会は、世界遺産に登録されているイスタンブール歴史地域にあるトプカプ宮殿の敷地内にあります。宮殿へ続く一つ目の門で、1478年に建てられた皇帝の門をくぐった先の第一庭園にあるレンガ造りの建物です。



アヤイリニとは「聖なる平和」を意味し、その歴史は4世紀、コンスタンティヌス1世の時代にまで遡ります。

コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物として知られています。彼が自らの名前を付けて建設した都市がまさにこの「コンスタンティノープル」であり、アヤイリニ教会は彼の命によって建設された、コンスタンティノープルで最初に完成した教会なのです。

教会が完成したのは337年で、360年に最初のアヤソフィア寺院が完成するまでは、東方正教の祈りの場として人々の信仰を集めていました。教会の天井を見上げてみると、金色の背景に黒い十字架が描かれているのがわかります。これは東ローマ時代の教会にみられる典型的な十字架の例です。



その後、532年のニカの反乱で損傷、740年の地震、度重なる火災などで損傷するたびに、当時の皇帝たちの指示によって改修されてきました。コンスタンティヌス5世の時代に改修されたときのモザイクやフレスコ画は、現在もわずかながら残されています。



その後、1453年にコンスタンティノープルが陥落して以来、アヤイリニ教会はモスクに改修されはしなかったものの、教会として使用されることはありませんでした。1826年まで、オスマン帝国の常備軍歩兵イェニチェリによって武器などの軍需品を製造する工場として使われていたのです。

日中でも薄暗い内部は、おそらくローマ時代に建てられて修復が間に合わなかったような古びれた箇所がいくつもあります。イェニチェリたちも、自分たちにとっては他宗教の建物だったのでそこまで丁寧には扱わなかったのかもしれません。美しい装飾はほとんど残っておらず、石とレンガで造られた内装は、どこか寒々しい雰囲気すら感じさせます。





19世紀には武器などを展示する博物館として使用されていましたが、20世紀になって軍事博物館が新市街のハルビイェ地区に移されると、教会はしばらく放置されたままでした。

現在は修復も済まされ、2014年には博物館として一般公開されて、またその音響の良さを活かしてコンサートホールとしても利用されています。

アヤイリニ教会は、東ローマ帝国の教会、オスマン帝国の軍隊の武器製造所、軍事博物館、そして無宗教の博物館兼コンサートホール、という類稀なる歴史を歩み、現在もトプカプ宮殿の一部を成す建物として、日々世界中からの観光客を迎え入れているのです。



トプカプ宮殿の敷地に入ると、つい華やかな宮殿のほうに目を向けがちですが、ぜひ一見地味なこの教会にも足を運んでみてください。コンスタンティノープル建都の祖であるコンスタンティヌス1世によってつくられた歴史ある教会で、何世紀にも渡って首都として栄えたイスタンブールの歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。



Post:GoTrip!http://gotrip.jp/ 旅に行きたくなるメディア

名前 アヤイリニ教会(Aya İrini)
所在地 Cankurtaran, Topkapı Sarayı No:1, 34122 Fatih/İstanbul


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