鮮卑と烏桓。この2つは秦王朝の時代には東胡と言われる一つの国だったとされる。しか
し冒頓単于が登場して強大になった匈奴によって東胡は攻め滅ぼされ、生き残りが東方の
鮮卑山に逃れたのが鮮卑になり、南方の烏桓山に逃れたのが烏桓になったとされる
鮮卑と烏桓ともにテュルク系またはモンゴル系の民族とされる。匈奴と同じという事にな
るな。匈奴が強大だった時代は鮮卑も烏桓も匈奴に隷属する形であった。特に烏桓は匈奴
の一部であったと言っても良い。しかし徐々に勢力を回復していく
やがて匈奴が漢との戦いで押されるようになると、匈奴から離れて独自に動くようになっ
た。烏桓は匈奴とも漢とも直接接しており、匈奴にも手を出し漢にも手を出したりしてい
た。その度に反撃されて逃げているようで、まあ大規模な山賊といったところだろうか
しかし新になると王莽が周辺民族蔑視政策を取ったので匈奴と手を組んで新と戦った。し
かししかし。今度は光武帝が後漢王朝を成立させる。光武帝は王莽から打って変わって、
周辺民族をちやほやする宥和政策をとった
周辺民族のリーダーに対して「貴方は〇〇の王でございます〜」と持ち上げ、印璽を送り
これに応じて周辺民族が貢物を送って「アンタは中華皇帝や!」と崇めてくれれば、何倍
もの貢物を送り返した。周辺民族側もおべんちゃら使えば何倍もの金品が返ってくるのだ
からこんなオイシイ話は無かった。みんなこぞってこれに応じていった
そんな中応じなかったのが匈奴だった。後漢側からしてみれば許し難い。現代であればア
メリカとイランのような関係であろうか。匈奴潰したる!という事になったのである
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