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2020年03月08日06:55

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精神で撃墜する

昭和16(1941)年12月8日未明、日本軍は真珠湾奇襲攻撃に成功します。この日の夕方、東條英機は陸海軍の軍人、さらには統師部の幕僚などの側近を集めて、官邸の食堂で小宴会を開きます。その折の発言です。「戦果は予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」

さらには赤松氏によれば、この奇襲攻撃はほとんどの者に伏せられていて、東條英機は、「わが内閣だから秘密は保たれた」と自賛したという。赤松氏も夜勤を終えて朝早くに帰宅するために官邸を出ようとしていたら、海軍の鹿岡氏が駆け付けてきて、初めて真珠湾攻撃の成功を知らされたと言います。

それほどまでに秘密が守られたことに、東條英機は喜色を浮かべていた。しかし実際にはこうした事実がすべてアメリカ側に暗号解読されていて、筒抜けになっていたのは皮肉といえば皮肉です。昭和17年10月14日の靖国神社臨時大祭で、東條英機は遺族に挨拶したあと、奥村喜和男情報局次長のお追従の言に対し、次のような発言をしています。

「飛行機は飛行機が空を飛んでいるのではない。人が飛んでいるのだ。精神が動かしているのだ」飛行学校を訪ねた折に、君らは「敵機」を何で撃ち落すか。と問い、高射砲で撃墜するとの答えに、「違う。精神で撃墜するのだ」と訓示しています。

昭和18年6月2日の官邸での夕食の折に洩らした言葉です。「人は良く自分のことを政治家としても云々と云うが、自分は政治家と云はることは大嫌いだ。自分は戦術家と云はるならばともかく政治家ではない、只、多年陸軍で体得した戦略方式をそのままやっているだけだ」このことは、戦争のゆく末に対して、政治家としての判断は特にないのです。

軍人、しかも戦略家として戦い続けるとの告白です。東條英機が戦争には政治の判断は一切持ち込まないと宣言したに等しい言葉です。昭和18年9月9日の発言を見ると、前日に枢軸体制の一角であるイタリアが降伏したとのニュースが伝わってきます。

これに対して、かえって枢軸体制はすっきりしたと言い、イタリアについては今後「敵国」として扱えとも命じています。10日に次のような発言も行っています。「常々云っていることだが、御上は神格でいられる。御下問があって、存じませんが調べまして申し上げますと申し上げあげると、決して追及はされぬ。」

「いやしくもごまかそう等、かりそめにも思っては決していけない。有りの儘を申し上げてはならぬ。何事も鏡の如く御存じでいられる」東條英機は、自らの内閣の閣僚が「御上の御上格」に触れるよう、よく奏上せよ、とも命じています。

しかしすでに明らかになっているように、海相の嶋田繁太郎などは上奏時には各種の史料や文書を改竄して報告しています。東條とてこうまで話していながら、戦況の悪化については詳しくは報告していない。つまり天皇に対して、自らがもっとも近い立場にいるという、「自分にとって都合のいい天皇像」を自らの周辺で説いているということになります。

昭和19年(1944)年2月24日、マーシャル郡島方面でクェゼリン島などがアメリカ軍に制圧された後、東條はこの日の夕食の折に発言しています。「物事は考へようで、むしろ敵の背後に我が基地があると考へればよい。こうして機を見て両方より挟撃、反撃しなければならない」

アメリカ軍は飛び石作戦で日本本土に近づいてくるのだが、考え方を変えればそれは日本にとっては有利な状況だという言い方です。アメリカ軍との物量差によって、日本は反撃の軍事力もまったくなくなっているのに、このように戦況を常に楽観視するのが東條英機発言の特徴でした。次は、この年の4月6日の閣議後の発言です。

「最近東京市内では雑炊食堂が新設されつつあるので閣議後の午食にも雑炊を供した処、総理は『雑炊も結構だが閣議後の食事は充分御馳走をして、閣僚が楽しみに集まると云う様に心掛けよ』との御注意ありました。」庶民とは異なった待遇で、閣僚たちに奮起を促せという意味でありました。

昭和19年6月の「あ号作戦」の失敗により、日本はサイパンを失います。このときを境に重臣、天皇周辺の人たちの間で、東條を代えなければならないとの声が起こりました。東條は「サイパンが陥落したといっても、それは雨水がかかった程度のこと。恐るるには足らない」と豪語しています。

そして6月24日官邸食道での昼食の折に、秘書官たちに次のように語っています。「サイパンの戦況、昨今の中部太平洋の戦況は天の我々日本人に与えられた警示である。まだ本気にはならぬか、真剣にはならぬか、未だか未だかと云う天の警示だと思う。今後日本人が更に真剣に頑張らない時は、パチリパチリと更に天の警示があるだろう。」

「日本人が最後の場面に押しつめられた場合に、何くそと驚異的な頑張りを出すことは私は信じて疑はない」東條はこのような精神論を何度もくりかえしています。戦争とは精神力の勝負であり、五分五分というときには実は六分四分でわが方が有利、六分四分、あるいは七分三分で不利のときが五分五分なのだと何も根拠を示さずに口にしているのです。

東條にとっては、戦争に勝つこと自体が目的であり、それが自分の責任であり、そのために国民にどれだけの犠牲を強いてもかまわない、というのがその戦争観であったのです。まさに亡国の思想にとり憑かれ、判断力を失っていたというべきです。東條英機の周辺の軍人たちは、その異様さに気づいていなかったのが不思議でならないのです。


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