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2019年12月29日09:54

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2019年を振り返る 世相篇

 その年を象徴するようなコンテンツ、というものがあり、2017年は欅坂46の『不協和音』、2018年はDA PUMPの『U・S・A』お、米津玄師の『Lemon』だと僕は以前に書いた。今年は何だったか?
 
 今年は個人的には、『ガンダム』と『鬼滅の刃』だった、と思っている。

 2018年の年末の日記を読み返してみると、「『大きな力』が自壊した年」と書いている。その意味では今年は、もはや『大きな力』の幻想ももはや残ってない、という感じであろうか。組閣直後に大臣は二人辞めるわ、桜の会をめぐる弁明は二転三転し、嘘に嘘を重ねる子供だましの方針をごり押ししようとしている。そこにあるのは『力』などではなく、ただみっともない『利権にすがる者』の姿だけだ。

 結果的には保守の論の基盤である「国のため」という理屈が、上位構造にある者の利権維持に過ぎないということが、今さらながら明るみに出てしまった格好だと思う。萩生田大臣の「身の丈に合わせて頑張れ」発言は、一部の受験生ならびにその親世帯の問題にとどまっていた受験制度の問題を、大きな格差問題へと進展させてしまった。結果的には、その保守勢力の『本音』を口にしたことで、受験制度改革は振り出しにまで戻されることになった。

 「上級国民/下級国民」言葉も流行した年であったが、これは社会格差が構造化されているという意識を言い表した言葉だ。富裕層の子息はそのまま富裕層になり、利権に結びつき社会的特権を保持するようになる。これはある意味、『自己責任』という言葉では済まされない社会構造に、ようやく一般の意識が届いたことの表れでもあると捉えることができる。

 「自己責任」という言葉は、今年大きく後退することになった。それはよくも悪くもだが、大きな災害が続いたせいだ。千葉沖に来た台風15号、そしてその被害も冷めやらぬまま消費税が上がり、長野を襲った台風19号が来た。その中でよく判ったことは、台風災害のような局面においては「自己責任」だけでは到底済まされない事態になる、ということだ。

 個人的な実感であるが、長野に越してきった段階で「自己責任」などという言葉は到底迷妄だと実感するようになった。というのも、雪が降ったら雪かきをする。集合住宅に住んでいた去年までは、住人が協力して駐車場の雪かきをするのが当たり前だったし、道路の雪かきは行政に頼らなければ到底いかんともしがたいものだからだ。

 台風19号がもたらした土砂災害は、ボランティアのパンマワーに頼らなければ中々排出できないほどの量となった。行政の力も必要だし、ボランティアという『ヒト』の「無償の善意」がなければ、生活再建の道が立たないのである。長野では以前の豪雪の際に、車に閉じ込められた人が地元住人に助けてもらった話などが少なくない。そんな「困った時はお互いさま」の心が生きている長野だからだろうか、県内外から多くの人が災害支援に来てもらったようである。

 「自己責任」と言う言葉は、本来的には欧米的な個人主義に結びついた概念であった。しかし日本では、それはむしろ反個人主義的なものであり、『全体のために』個人を切り捨てる時の慣用句になってしまった。だがこの『全体のために』という理屈が、利権所有者のエゴの隠れ蓑でしかないと知れた時、「自己責任」は単なる利権保持のための虚言でしかないことが明るみになる。

 それどころか、元官僚の自動車事故で、「車が悪い」と言い出した元官僚の「責任逃れ」は、「自己責任」と口にしたがる階層がむしろ、己の責任は取ろうとしない醜悪な姿と表裏であることがあからさまになった。そして最初は「息子が他人を殺さないために」手にかけたと言っていた息子殺しの元事務次官は、自分が暴力にさらされたことから息子を手にかけたに過ぎないことも後から判った。「皆のために」と虚言を吐くのが、恐らくこの官僚の習慣になっていたのだろう。

 だがこの二つの事件は、「上級国民」でも、必ずしもそれで幸せとイコールではない、という事もよく判らせてくれる。 そこで取り戻すべき価値観は何か? それは「個人」と「優しさ」だったのではないか、と僕は『ガンダム』と『鬼滅の刃』の流行から分析する。

 『ガンダム』は今年も色々な商品として流通したが、直接的なきっかけは『ガンダムORIGIN』のアニメ化にあることは間違いない。これは端的に言うと、「赤い彗星のシャア」の物語だ。ここで「シャア・アズナブル」とは何者だったのか?

 シャアはザビ家への復讐を腹に持ちながら、敢えてジオン軍に身を投じる青年将校として描かれる。容姿、頭脳、身体、運転等すべてにおいて類稀な能力を持つシャアは、ザビ家の御曹司ガルマと近づきになり、その頭角を現していく。「シャア」とはそもそも『ガンダム」における主人公アムロのライバルであり「敵」だ。このシャアは、ある種の「悪漢」である。

 つまり『ガンダムORIGIN』は悪漢物語(ピカレスクロマン)だったわけだが、この悪漢たるシャアは、ジオン軍にいながらも、「ジーク・ジオン!」と叫んで全体主義に酔いしれるようなメンタリティとは全く無縁の、野心を隠し持った『個人』主義そのものである。この「特別な個人」の「特別な活躍」が見たかったのだ。

 レースの最期に皆で手をつないでゴールするというような、嘘臭い平等主義を圧倒的な速度で振り切り、また生まれついての特権によって上級国民の地位にすがるような「坊や」を嘲笑って、シャアは宇宙を駆ける。そこにあるのは、真の『個人の力』、真の「実力主義」だ。『赤い彗星』として恐れられた、あの「一番格好良かった頃の」シャアを、皆見たかったのだ。

 『個人の力』を描写しつつ、そこに「優しさ」という要素を持っていたのが『鬼滅の刃』という作品の支持の基盤になっていると僕は思う。主人公の炭次郎は、親兄弟が死に妹が鬼になってしまった境遇で、まだなお明るさと優しさを失うことなく戦い続ける。そのひたむき、その真面目、その思いやり。主人公の炭次郎の魅力は、他にも面白い要素を持つこの作品のなかで、それでもやはり特筆すべき圧倒的な要素である。

 興味深いのは、炭次郎は「それほど才能があるわけではない」剣士として描かれていること。炭次郎は、友人二人(善逸と伊之介)と比べても、特別優れていると言えるわけではない。それに、炭次郎よりはるかに実力のある先輩剣士(柱と呼ばれる集団)が、さらに上にいる。その中で、炭次郎は居合わせた状況において、最大限に努力をする。その自分を奮い立たせ、諦めない内心の声が描写されるのが、実は意外に新しい。

 その炭次郎は最終的には敵である鬼を斬るが、その斬る相手に対しても思いやりを持っている。いや、その相手のことを考える力がある、というべきか。「相手のことを考えない→斬る」/「相手のことを考える→斬れない」の二項対立から離れ、敵を想いつつも自分の果たすべき使命を果たす。その炭次郎の毅然とした姿が清々しい。

 この炭次郎の「優しさ」は、長らく少年漫画の主人公が失っていたものかもしれない。そして、このような作品がヒットしたことを、ある意味ではよい事だと思っている。しかし『鬼滅の刃』は、炭次郎の優しさとは裏腹に、その世界観はとてつもなく厳しく残酷である。つまり社会や世界は、依然として厳く残酷なのだが、そのなかでどれだけ優しさを持って生きていけるか。『鬼滅の刃』を読んで、そんな事を考えた2019年であった。


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