登場人物らは奔走する。すべてがしあわせになってほしいとクソ青くも。
両親を失い秩父で暮す相生姉妹。
妹のあおいは秩父を抜け出し「東京いってバンドで天下とります」と人生に反抗。
一方、あかねは市役所づとめ。
あおいの母親がわりとなり地に足をつけて生きている。
その秩父へ当時あかねと東京へ行く約束を交し、
かつ、あおいを音楽にはめた慎之介が大物演歌歌手のバックバンドとなって帰郷。
同時にあおいは高校時代の慎之介 = しんのと不思議な形で再会する。
同一人物が別々に存在するすこし不思議。
だが、長井龍雪 × 岡田麿里の秩父シリーズ第3作目は、
やっぱり狭く濃いコミニュティの物語だ。*1
妹は18歳のしんのに恋を抱き、あかねと大人の慎之介はいまだに想い合う。
その二律背反と同時に若者も大人も一緒。
人生とは結局ふがいなさの連続で、
あおいは自身の母親がわりとなった姉の人生をうばったと思い込む。
慎之介は理想と違う人生へあがき、あかねとの約束を破る自分へ悩む。
あかねも前へ進めない。*2
この停滞を打ち破る存在は不思議の象徴しんのなのがズルいが、*3
以後のベクトルは非常に前向で爽快。
つまりだれもかれも愛する者や自身以外にしあわせになってほしいのだ。
それこそ自己愛だろうと、あおいたちは他者のしあわせのために走り出す。
周囲を想う人間性と人間味ある選択のために。*4
そのクソ青くも温かい青春の疾走を、秩父の空とあおいの最後の言葉が集約する。
※1 前2作品をふくめ「そう」。そもそも岡田麿里の脚本自体、世界がどけだけ広かろうが、結局、ミニマムに人間の感情へ焦点が集約していく。前期に放送していたテレビアニメの『荒ぶる季節の女どもよ』や監督映画の『さよならの朝に約束の花をかざろう』をふくめて――。
※2 ただ、その悩みは勝手な自身の思い込みでもある。
※3 物語の作法としては妥当なのだが、停滞を打ち破る存在が「現実の人物」ならよりよかった。あと本作の欠点を1つあげるならば映画が「あおいのための物語か?」「あかねのための物語か?」ぶれてしまうところだろう。別の言い方をすれば、途中で物語の視点が「若者」から「大人」の視点へと変ってしまうところ。
※4 勝手に世界/周囲を破壊する選択はしたりしません!
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