タモリさんが唯一聴く邦楽ポップスがオザケンだとか。で、そのオザケンのニューアルバムが出るそうな。ボーカル入りのアルバムとしては17年ぶりだとか。シングル曲の歌詞だけ発表されているので早速見てみたのだが、歌詞のこの部分を見て「あのオザケン」が終ってしまったことを悟る。→ ”今遠くにいるあのひとを ときに思い出すよ 笑い声と音楽の青春の日々を”(
http://amass.jp/126708/ )
オザケンが過去を懐かしむ側へと行ってしまった。人は歳を取るものだし、いつまで経っても浮かれた時代を生きるわけには行かないものだが、オザケンだけは「LIFE」でいて欲しかった。がしかし、オザケンも子供が二人出来て、すっかりお父さんだ。やはりもうあのオザケンは無理だろうか。
「LIFE」が完全にフィクションであれば、また同じようなフィクションを作ることも出来るだろう(阿久悠や松本隆のように)。だけど、その後のオザケン(特に「Eclectic」以降)をみると、オザケンの作るものはフィクションというよりも私小説のようなものであることが分かる。なので、近年は父親的になってしまい、「LIFE」至上主義者にとっては何も面白くないのだ。そしてついに、”今遠くにいるあのひとを ときに思い出すよ 笑い声と音楽の青春の日々を” なんてことになってしまった。「青春の日々を思い出す」なんて歌って欲しくなかったなあ。視点はいつまでも当事者でいて欲しかった。
大衆に求められることをやるのが大衆音楽(ポップス)で、自分のやりたいことをやるのが芸術音楽であるという原則からすると、2010年に復活して以降のオザケンは芸術の方へとベクトル修正したように見えるんだけど、実はそうではなく、オザケンはあくまで大衆音楽のつもりだけどちょっとずつズレてきてしまったということなんじゃないか。
2010年、オザケンが復活したときのライブで最初やった曲が「流れ星ビバップ」。あのときのほとんど悲鳴のような歓声は、皆が求めていたオザケンは「あのオザケン」であって、「Eclectic」以降のクールでシニカルなオザケンではないことの証拠だ。その2年後の東京オペラシティでのライブでも最も会場が盛り上がったのはバックのスクリーンに「LIFE」当時のオザケンの映像が流れた「愛し愛されて生きるのさ」だった。
とはいえまだそのニューアルバムを聴いていない。そのシングル曲は諦めて、他のものはなんとなく「LIFE」的だったらいいな〜、と今でも未練がましく思ってるわけだが。はたしてお父さんとなったオザケンに「LIFE」が出来るのだろうか。いや、東大出てるし!(関係ないか)小澤征爾の甥だし!(もっと関係ないか)やってくれるんじゃないか(切なる願望)。
ところで今ごろ知ったのだが、オザケンの「LIFE」は、ミュージックマガジン誌が発表した「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」で1位に選ばれたそうだ。僕も好きな邦楽アルバムのベスト3を選ぶとしたら「LIFE」は絶対入っている。この異常なアルバムとそのすぐあとの異常なシングル群(「痛快ウキウキ通り」など)をもう一度。と願うファンは多いだろうなあ。
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