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2017年09月24日23:38

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整備された「戦争」。整備された「画面」。もはやアートのごとし。そこへと内包する生存をかけた人々の人生を描く巨大映画 『ダンケルク』

ダンケルクの青みがかる浜が出現した瞬間、
誇張ではなく映像は巨大な絵画と化す。*1

うつくしく巨大な映画だ。
30万人の兵士を救出したダイナモ作戦。
その歴史的撤退戦を描く本作をクリストファー・ノーランは、
戦争映画ではなくてサスペンスだと説明する。

作品は従来の戦争映画とはまったくことなる。
血は出ず、敵軍の兵士は描写されない。
ことさら悲劇や憎悪や戦意や敵意も意識されない。
壮大な描写を整理し、抑制し、無機質なほどに理性的に展開していく。*2

監督は「自身が戦争を体験をしておらず」
また「戦争が翻弄したすべての人々を意識した」と語る。
戦争は巨大な“事象”。その“事象”のなかの人々の生き残りを描写した。
なら主義、特定の国家へ傾倒した瞬間、映画の“もくろみ”は崩壊する。*3

その“もくろみ”をふくめ、
監督は徹底的に場面や空気をコントロールする。
ストイックなほどうつくしく巨大な「戦争」の構図を作り上げ、
そのなかへ人々の人生を落し込み対比する。

陸、海、空、すべてで画面を広く取る俯瞰や鳥瞰を多用。
人々と風景のコントラストを強調。
まさしく巨大な「戦争」が人々の人生を飲み込む。

スピットファイアに乗る兵士が自己犠牲を覚悟に友軍を救い、
国の違いで命の優先順位を決め、
一方、勇敢な市民は小舟を漕ぎ出し兵士を救いに向かう。*4

戦争の大波に打ち勝ち生き残るために。
あらがう人々の人生すべてを「巨大な映画」が冷静に映し出す。


※1 ノーランは常に巨大なものに信仰を抱き自作を構築してきた。この映画も例外ではない。ならより大きなスクリーンや、より精細・高度なスクリーンで見た方が価値がある。劇場の一番巨大なスクリーン、TCXやIMAXで見る本作はスケールがぜんぜん違うはずだ。監督の意図を完全に汲み取る場合、劇場での鑑賞が必要だ。

※2 ノーランは有名な『プライベート・ライアン』のオマハ・ビーチの場面を賞賛しながら、それとはことなる文法で戦場を描写したのを説明している。結果、本作の戦場は硬質的で人工的な色合いをおびる。ただ、その戦場が、ひどく作り物めいて見える人も多い。賛否両論はありそうだ。

※3 この映画は連合国側と枢軸国側どちらにもよってない。そもそも、ほとんどの人々は「最後の世界大戦」以来、戦争を経験してない人々だ。なら一部の紛争地域やジェノサイドを体験した以外の人々が、描く/語る戦争はすべてフィクションにすぎない。その意味において監督の姿勢と発言は謙虚で敬虔だ。

※4 抑制と冷静、完全にコントロールされる本作。ではサビはないか? といえばそうでもない。たとえばダイナモ作戦で民間徴発をされた漁船や客船が浜辺に到着した瞬間だ。音楽は鳴り響き「無辜の市民こそ英雄」と当時の勇気ある軍人以外の人々を賞賛する。史実への敬意だろうし、映画にサビは必要だ。監督は、そこは忘れない。
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