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2017年05月23日19:59

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 「大坂誕生」

 「大坂誕生」(片山洋一著 朝日新聞出版 2015年3月30日第1刷発行)を読みました。

 この本は、大坂の陣により、豊臣家は滅び、大坂は灰燼に帰しますが、その直後、家康に命じられて大坂復興に取り組んだ松平下総守忠明(ただあきら)の奮闘の様子を題材とした歴史小説でした。

 松平忠明は、家康と築山御前との間に生まれた家康の長女の亀姫の子供です。つまり、家康の外孫に当たります。

 亀姫は、美濃加納城主奥平信昌に嫁ぎ、松平忠明は、亀姫とその奥平信昌とのi間に生まれた四男ですから、本来は、奥平忠明ですが、家康に可愛がられ、6歳の時に家康の養子となったために松平姓が許され、松平忠明と名乗っているわけです。

 その松平忠明は、家康に見込まれ、伊勢亀山城主から大坂城主に転封を命じられ、豊臣家滅亡後の大坂再興に取り組んだわけですね。

 大坂は、豊臣秀吉を愛する人々が多く、その豊臣家を滅亡させた徳川家に反感を抱く者が多いため、当初は、その復興事業もなかなか軌道に乗りませんでしたが、だんだんと人心を掌握し、今で言う、「民活」を利用し、大坂再興を軌道に乗せてゆきます。

 その過程で、今の大阪にある、道頓堀とか中之島とか心斎橋というような名前が付けられたようで、道頓堀とか中之島とか心斎橋というような名称の由来が書かれていました。

 大坂再興には約4年ほど携わりますが、彼は、その後、その実績を買われて2万石加増されて大和国郡山城主に転封となります。
 と同時に、その後の大坂は幕府直轄地となり、大阪城主は置かれず、城代が置かれるのみになります。

 松平忠明が大坂を去った後の経歴については、次のように書かれていました。

 



「元和5年(1619)7月22日。
 松平忠明は大坂を去った。
 その後、大和郡山、播磨姫路へと転封され、それぞれの町造りに奔走する。
 大坂再興の手腕は幕府内で高く評価され、秀忠薨去の際は三代将軍・家光の補佐を委任された。
 その家光も忠明を深く信頼し、姫路転封時には「西国探題」と称するよう老中以下に通達した。
 「南蛮人襲来時は西国探題として大名たちを統括せよ」
 と、家光から直々に申し渡されたのである。
 さらに晩年、宿老として最高顧問に任じられ、没するまで幕府において重きをなした。
 正保元年(1644)3月25日。
 江戸上屋敷にて死去。
 その遺骸は駒込養源寺にて荼毘に付せられ、高野山金剛三昧寺に葬られた。 
 享年62。   
                                             (P..275〜276) 」












 

 

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