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2016年10月30日10:45

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作品を読む  鉄腕アトムとピカチュウは憲法9条である

 『ポケットモンスター』の初期メインライターだった首藤剛志さんの、本来考えていた最終回プロット案というものを目にした。http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%B2%A1%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88
 ここでは最終回のプロットを次のように紹介している。

『ポケモンと人間との共存は不可能という結論に達したポケモンと人間たちは争いを始める。
最強のポケモンとなったピカチュウはポケモンのリーダーに祭り上げられ、ピカチュウとサトシは争いを止めるのに苦悩する。 』

 ソースは首藤さんのコラムからで、実際にそういうストーリーを構想していたことが書かれている。http://www.style.fm/as/05_column/shudo184.shtml

 ここで僕はふと既視感に襲われた。あれ、こういうストーリー、どこかで目にしたような……。で、はたと気づいた。これは手塚治虫先生の『鉄腕アトム』! 他ならぬ「青騎士」の物語ではないか。それで「青騎士」を読み返した。

 青騎士と名乗るロボットが現れ、ロボットを虐待してる人間を見つけては襲撃し、殺害したりするという事件が起きた。本来、ロボットには人間を傷つけることはできないはずなのに、青騎士にはそれができる。青騎士はロボット法でがんじがらめに拘束され、人間から虐げられてるロボットの救済と自立を目的に現れたのだった。

 人間たちは戦々恐々となり、青騎士の残した剣を「持てる/持てない」という二種類のロボットがいることに気づき、それを元に「青騎士型ロボット」の選別を始める。そして「青騎士型」と認定されたロボットを収容所に送り分解することを決定した。

 この「青騎士型」にアトムの父と母が認定されてしまい、ロボット嫌いの人間にひどい侮辱と屈従を強いられ分解されそうになる。我慢できなくなったアトムは人間に反旗を翻し、父と母を助けてしまう。そしてアトムはロボットの国ロボタニアの建設を宣言した青騎士の下に集うロボットたちと合流する。そこへ反ロボット派の急先鋒ブルグ伯爵が率いる軍隊が襲来し、人間vsロボットの戦争が始まる……

 というストーリーである。合法的なやり口で差別を制度化していたりして、為政者側の傲慢と横暴がよく描かれている先見性に満ちた一篇である。まさに今、読み返すべき作品だ。しかし、この「青騎士」と幻のポケモン最終回との物語を考えた時、ふと根本的な疑問がわいてきた。

 何故、アトムはロボット側に完全につかないのだろうか?

 何故、ピカチュウはポケモン側に完全につかないのだろうか?

 「国益」をやたら強調するような、自身を含む自集団の利益が最優先されるべき最大の善、と考える者ならば、迷いなく自集団につくだろう。だがアトムとピカチュウは、そこで敢えて自集団の自己肯定を選ばずに、『他者』との間に生まれる軋轢のなかで苦悩する。どうしてなのか?

 このような類似性にも関わらず、首藤さんは手塚先生に対する言及が全くない。だとすればそれは、戦後日本というものが潜在的に与えた影響と観るべきではないだろうか。

 答えは考えるまでもなく、そのような自集団埋没主義こそが、あの戦争に没入した惨禍を生んだからだ。そしてそのような自己肯定だけ尊重するような言論社会が、それ以外の価値観を『合法的に』取り締まるような、差別と偏見を制度化した圧力社会だということを知ってるからだ。

 そのような自集団肯定主義には『他者』が存在しない。それは過去の話ではなく、現在までも続く問題である。一部の利権取得者のために多くの者が損益を受けたり、企業の内部不祥事が「内向き」の論理で隠蔽される。そのような『他者性』を欠いた社会は、反戦を唱えた小林多喜二を留置所で撲殺するような隠蔽社会の同質の悪質さを持っている。

 同質性だけを重んじる集団は必ず『他者』を排除しようと攻撃する。オウムや赤軍がそうだったように。ナチス政権下のドイツや大本営下の日本がそうだったように。そこで排撃されるのは、その同質性から零れた者、入れない者、意を唱えた者。そこでなされる迫害から受ける痛みを知るからこそ、アトムは、ピカチュウは完全に片方に肩入れできないのである。

 「青騎士」ではアトムは、捉えた人間を斬殺しようとする青騎士に反対し、人間を守るために戦う。そして自ら犠牲となってしまうのだ。『ミュウツーの逆襲』では、オリジナルとコピーの不毛な争いを止めようとしたサトシは命を落とす。それを泣きながら甦らせようとするピカチュウの心が、ミュウツーをはじめとする他のポケモンたちの心をうつ。

 ここでもう一つの疑問をあげてみよう。そもそも、何故、アトムやミュウツーは「コピー」として語られたのだろうか?

 日本の戦後民主主義は、アメリカ民主主義を「模倣」したものである。それはフランスで王妃をギロチンにかけて勝ち取った革命や、アメリカで行われた独立戦争のような「自ら勝ち取った」民主主義のオリジナリティはない。学ぶべきものとして勝者から与えられたものである。この戦後民主主義の象徴ともいうべきものが永久平和を掲げた9条を内包する日本国憲法であると言っていいいだろう。これをもってして、日本国憲法を「押しつけられた」ものとするべきだろうか?

 現在では憲法9条に関しては、当時の幣原外相が深く関わったことが判っている。http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html また、この9条は日本国の軍備をアメリカが阻害する意図も含まれていたにも関わらず、アメリカは日本をソ連の盾とするためにすぐに邪魔になり、憲法改正を迫るようになった。実際、60年安保でも70年安保でも憲法改正は迫られた。憲法改正は『アメリカの悲願』なのである。

 9条がなかった韓国ではベトナム戦争に参戦させられ、現地にいった兵士は死傷し、現地の女性に暴行をはたらいた。この時の問題は、現在まで尾を引いている。このアメリカの圧力に抗したのは、他ならぬ9条であった。事実だけを端的に言って、米兵は日本を傷つけただけだが、9条は日本をアメリカの暴虐から守っている。

 ムルアカ氏の話では、アフリカでは50ヵ国以上の国が指導者をCIAに暗殺されている。またアメリカは国際司法裁判所に、唯一、国家的犯罪を指摘され軍を撤退させるように命じられた国でもある。戦後、アメリカの民主主義は、他の国の民主的運動の目をつむ先制者の暴力と化していった。だが、戦後直後のアメリカには、まだ『真の民主主義』という理想が生きていたのである。

 SF作家としても有名なH・G・ウェルズは、国際連盟の発足にも関わる平和主義の提案者としても有名だが、その思想は日本国憲法の作成にも深く影響を与えたと言われている。「軍備を持たない国家」という極端な平和主義は、ある意味では敗戦国だからこそ引き受けることのできた極端な『理想』だと言ってもいい。

 ミュウツーは「コピーはオリジナルより強い」と言っている。それは人為的に、理想を強化しているからだ。このような理想主義を、アトムもピカチュウも引き受けている。ピカチュウはそもそも首藤さんの案では、「モンスターボールに入りたがらない変わったポケモン」である。またポケモンと人間の共生の見本となるはずだったニャースは、「人間の言葉を話せるようになった変わったポケモン」である。

 ピカチュウにしろニャースにしろ、もし同質性だけが尊重されるような戦時体制においては、明らかに「異質」なものとして排除されるだろう。それがそもそも首藤さんが彼らに与えたキャラクターだった。だがその異質さを内包することこそ、他者の痛みを知り、自集団埋没主義から逃れる強固な『理想』の礎なのである。

 自集団埋没主義は、迷いを伴わない。自集団の利益を「善」だと妄信し、自集団からの肯定感をたっぷり得られる。「御国のために」尽くすことは、自己犠牲的な満足感も得られるし、周囲からの称賛も得られる。不満は「敵」と称された外部や、内部の異質なものに対する攻撃で満足できるだろう。

 だが、アトムもピカチュウも、そういう道は選ばない。敢えて自集団に埋没することなく、他者との共生という不可能に近い理想を掲げて苦悩する。だがその安易さを捨てた苦悩のなかにこそ、本当の倫理というものが存在する。手塚先生はそれを教えてくれた。首藤さんも、恐らくそれを語るつもりだったのではないだろうか? 少なくともその要素は多分に、『ミュウツーの逆襲』をはじめとする作品に残されている。僕は今は、彼らの残した作品を読み返し、考える…のである。



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