言葉で何かを伝えるということは取捨選択なんだろう。
あるバラの花を誰かに伝えるには
一番いいのは、そのバラそのものをあげること
それができない時
言葉を選んで形、色、香り等を伝える。
しかし、あるバラの情報を全て伝えるには、言葉だけでは無理がある。
極端な話、あるばらのDNAの一つ一つや、触感等それが持つすべての情報を伝えるには、言葉、数字、記号、絵画、写真どんな手段で伝えようとしても無理である。
一番いいのは、そのバラそのものをあげること。
それでは、言葉というのはいつも物足りないとおもうかもしれない。
但し、言葉には言葉の力がある。
ただ、漠然とバラと発した言葉だとしても
受け手がバラに対しもの凄い情報をもっていて、そのバラという言葉の一語でその情報が彼のイメージの中に広がる。
この力を私は言葉の鍵と呼ぶ。
そう、まるで閉ざされた空間を広げるかのような鍵・・・
例えば、俳句や詩を例にとると
名句や良い詩といっても情報量としては決して多くはない、むしろ少ないくらいである。
しかし、言葉の鍵を使って、読み手は脳内で次々と空間を広げていく。
少ない情報である言葉から大きな感動を得るのである。
でも、この鍵は誰に対してもあうわけではない
その言葉に対し共感できるものに対してあうのである。
例えば、バラを一度も見たことも聞いたこともない人にとってはばらといっても何もイメージできない。
また、その鍵で開かれる空間の大きさも受け手の器量によるのである。
更に、言葉の鍵は多ければ多いほど良いのかと言えばそうでもない。
言葉を尽くして、相手に伝えようと言葉を重ねても、最初に述べたようにその全てを伝えることはできないし、逆に受け手のイメージする空間を狭めてしまう。
それならば、言葉の鍵の力を最大限に生かす為に、相手の力量を信じ限られた言葉の鍵で伝えるのがよいのである。
取捨選択された言葉の鍵、それこそが文学なんだと思う。
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