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2016年07月20日13:32

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大橋巨泉ついに・・・

大橋巨泉氏が12日に亡くなっていたという訃報。
12日というのは参院選終了の翌々日。結果を待つ執念があったか。
遺言にまで安倍晋三を糾弾していたが、結果はかろうじて自民党の
勝利。しかし安倍晋三の評価低下には少なからず寄与しただろうから、
故人にもいささかの焦燥感の治まりはあったろうか。

追悼の意味か『徹子の部屋』は大橋巨泉と永六輔出演の再放送。
先般亡くなった永六輔の車いす姿も強烈なものがあったが、巨泉の
やせ衰えた姿も壮絶な印象があった。
この映像が撮られた時期のふたりには衰え感がありありとあるものの、
妙な力があり、死期の近づいた存在感の薄さは感じられない。
ある意味たいしたもんである。

鬼籍に入られた人物をとやかくいうは礼に失するが、亡くなられた
ふたりの御仁のことは昔からどうも好感が持てなかった。
しかしテレビ・ラジオの高度成長期、このふたりが大衆文化を荷った
という事実は誰も否定できない。たいした存在だった。
好むと好まざる関係なくこういうひとたちはなかなか出てこない。
あらためて合掌。

『上を向いて歩こう』は世界的名曲である。
永六輔、中村八大、坂本九の689トリオが生み出した傑作だが、
その三人も永六輔を最後に歴史上の人物になってしまった。
坂本九が亡くなったのは1985年8月12日。43歳だった。
未曾有の日航機御巣鷹墜落事故による死であった。
あの日、アタシも事故機の2時間位前の便に羽田から乗った。
旅先で墜落の臨時ニュースを見ながら、羽田空港ですれちがった
見ず知らずの誰かが乗っていたのかもとおもったりし、複雑な
気持ちでいたのをおぼえている。

当時、東京大阪間を新幹線は3時間半くらいで走った。
飛行機で伊丹まで4〜50分だったろうか。ゆえに現在よりも
飛行機移動のほうが仕事には便利だった。
夕刻羽田を発ち余裕で大阪に降り立つ。そんなビジネス便感覚で
当該便は満席だったのだろう。バブルが始まった時期の勤め人で
いっぱいだったのである。

あれから30年。永六輔、大橋巨泉が逝き、昭和なのかなになのか
よくわからないが喪失感はある。
かたや「ポケモンGO」の話題を、凄い世の中になったと感心しながら
汗をかく夏の日。梅雨はまだ明けないらしい。。。。
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