23.
「こ、これは……」
リリーは目の前の風景を見て思わず息を呑んだ。
「綺麗……」
雪が降り積もった真っ白な景色の中、睡蓮の花が淡い光を灯していた。
「凄い……。このお風呂を亭主が入らないようにするため鑑賞用に変えたんですね」
温泉の中には絶妙なバランスで花が配置されておりひとつずつの睡蓮が輝いていた。
椿は頬を掻きながら答えた。
「リリーさんが時間を稼いでくれたからです。それがなければできませんでした」
「そんなことないですよ。この発想は誰もが思いつきません」
しかし、とリリーは疑問を持った。
「睡蓮が浮かんでいる温泉は塩分が含まれているので枯れてしまうのではないですか?」
「そのまま塩を残したら確かにまずいですね。でも今入っている樽湯の温泉は炭酸カルシウムが溶け込んでいますから、これに溶かしたんです」
「なるほど、温泉の成分を混ぜ合わせて中和したんですね」
「そういうことです」椿はゆっくりと頷いた。「本来ならそういう方法をとりたくなかったんですが、あまりにも時間がなかったので。今は単純温泉を使って貰ってますよ」
天井には眩いライトが点いている。きっと水槽にあったものを取ってきたのだろう。
「本当にいいですね、温泉に浸かりながらこんな光景が見れるなんて……」
リリーは顔を洗いもう一度眺めた。まるでモネの絵画の中に入ったようだ。温泉が池となり睡蓮の花が気持ちよさそうに伸びている。その色使いが自分の心を穏やかで暖かい気持ちにしてくれる。
目を閉じると瞳の奥から懐かしい光景が浮かび上がってきた。庭で戯れている母親の百合の姿だった。暗い闇に光が差し込むように一筋のスポットが彼女に当たる。
「リリー、こっちにいらっしゃい」
気がつくと、目の前にはいつもの庭があった。百合はお気に入りの水玉のワンピースを着ており、右手には新しい苗を左手にはスコップを握っていた。
……仕方がない、手伝ってあげよう。
二人は暑い日差しの中スコップで苗が植えられるだけのスペースを掘った。苗を優しく置いて丈夫に育ちますようにとおまじないをしながら土を被せる。
毎回のことだが母親は花の名前を教えてくれない。どんな花が咲くか自分でも訊かずに花屋さんから仕入れるらしい。
黄色の花が咲くか、紫の花が咲くか、いや、ピンクだ。暇な時はだいたいこの話題だった。花が咲かずに野菜が育った時もある。その時には二人して笑った。
季節を巡る毎に庭の色は豊かになっていった。冬にはほとんど枯れてしまうが、春がくるための準備をしているのだと考えると気持ちは沈まなかった。
「今年も春が来るまでお預けだね」
百合はそういうと紅茶のパックに温かいミルクを注いでくれた。
冬の楽しみ、ミルク紅茶の出番だ。普通のミルクティーはお湯に浸したパックにミルクを少量入れるが、これはミルクそのものにパックを入れて暖めるのだ。家族一同この飲み物の虜になっていた。
幼いリリーは父に反発してミルク紅茶の中にレモンのスライスを入れたりした。どんな味になるか試したかったのだ。だがストックは肩を竦めながらも叱りはしなかった。
「何でも挑戦してみるといい」
そういってリリーの頭を優しく撫でてくれた。
本当に暖かい家庭だった―――。
目を開けると、炭酸の音がやんわりと聞こえてきた。妄想は泡と一緒に消えていく。
ストックはこの景色を眺めながら風呂に浸かったのだ。彼の笑顔が蘇り、心が和らいでいく。あの笑顔はきっとこの景色を眺めたからに違いない。
「綺麗ですね」
「ええ、本当に」
……当たり前は当たり前じゃない。
椿の言葉と共に、心が軽くなっていく。今まで数字以外のものが怖かった。それは確定していないものに触れることを恐れていたからだ。
しかし今ならはっきりいえる。絶対なんてものは存在しない。生があれば死がある。楽しいことがあれば悲しいことがある。出会いがあるから別れがある。当たり前のことだ。そんな当たり前のことから逃げていたのだ、自分は――。
……今のこの気持ちは、当たり前じゃない。
目を閉じて胸の内に燻っている思いを確かめる。彼に対しての思いは確定している。これはもう変えることはできない。
……この気持ちの先を知ってもいいのだろうか。
両手を重ね再び自分の心に問う。きっと彼には届かないだろう。それでも自分の思いを知って欲しい。秋桜美のことを思っていたとしても、私はこの胸の高鳴りを表現せずにはいられない。
本日二回目の告白だ。
「……春花さん、伝えたいことがあります」
リリーは睡蓮の花を見つめながらいった。
「これからも、春花さんと色んな所に行きたいです。もっと春花さんのことが知りたいんです」
「それは……」
椿が急に真剣な表情になった。
「そういうことです」
一時の間が空いた後、椿は重々しく口を開いた。
「……僕も同じ気持ちですよ」
……えっ、まさか、ということは。
耳を疑いながら彼の声を待つ。お湯に浸かりすぎて鼓膜がおかしくなったのだろうか。
「……これからもよろしくお願いしますね、お友達として」
ぱりっと何かが崩れる音が聞こえた。
一世一代の告白はどうやらなかったことになるようだ。彼がこれほど無神経だとは……。
……それでも、伝えてよかった。
いえたことに意義がある、と彼女は思った。今回の気持ちは彼と付き合いたいというものではなく、ただ純粋に時間を共有したいという気持ちからだったのだ。桃子に話せばきっと詰めが甘いといわれるだろう、だが今回はこれでいい。
「はい、こちらこそ。これからもいいお友達でいましょうね」
24.
大晦日。
リリーは椿の店を訪ねていた。彼の店はいつもより薄暗い、きっと店自体は閉めているのだろう。
扉をコンコンと叩くと、椿が顔を見せた。
「どうぞ」
彼に案内され店を一瞥する。商品の花はほとんどなくなっており閑散としている。何でも今日でやっと仕事納めとのことだ。
「後一人、お客さんが来たら終わりなんですけどね」
椿は椅子に座り直してテーブルを指差した。どうやら桃子はもう帰っているらしい。
「何でも今日が誕生日の方に送るみたいですよ」
テーブルの上には白薔薇をメインに緑のヒペリカムの実、淡いモスグリーンのトルコキキョウ、アクセントにオリーブが入っている花束が載っていた。
「それは大変な日に生まれましたね」
「ですね。ああ、まだ冬月さんにお渡しする分が出来ていなかったんですよ」
リリーは慌ててかぶりを振った。
「いいですよ、残りものを譲ってもらうということだったので」
「そうはいってもです。お客さんには違いありません」
椿はキーパーの中から花を取り出し始めた。今日から三日間店を閉めるため、商品に使えなくなる花を譲ってもらいに来たのだ。
「あ、そうそう。春花さんにお土産があります」
そっとクロヤの紙袋を差し出す。彼はその紙袋を見て嬉しそうに微笑んだ。
「クロヤの袋、ということは餡パンですか?」
「食べて見たらわかりますよ」
椿は袋から取り出しぱくりとかぶりついた。「ん、これは肉まん?」
「そう、冬限定クロヤの肉まんパンです。韮がたっぷりと効いているやつを選びました。春花さんは旅館で食べれなかったみたいですから」
「いや、あの時は酔っ払っていて、匂いがわか……」
「っていますよ。水仙の葉が二枚しかなかったことは」リリーは椿の唇を指で塞いだ。
「そうでしたか、さすが冬月さん。勘が鋭い」椿は溜息をついて降参のポーズをとった。
しかしまだ彼の表情には余裕がある。それがなぜか腹立たしい。
「春花さんは知っていたんですよね? 私が女将さんと話をする前から……」
椿の上に座り込み首に手を回す。彼はたじろいで手の置き場に困っているようだが知ったことではない。
「さも途中から入ってきたようにしてましたが、私が行かなければあなたが行くつもりだった。違いますか?」
「なぜ、そう思ったんです?」
……また惚ける気か。
リリーは首に回した手をそのまま絞める形にした。
「簡単です。温泉カルテを見ていないあなたが三番目の温泉が塩化物泉だと知ることはできないからです。私が行く前にあなたは貸切風呂を観察していた。違いますか?」
「……残念ながら違います。僕は冬月さんのお父さんと社長さんの会話からそれを知りました」
「ということは……春花さん、英語、話せるんです?」
「少しだけなら、ですが」椿は二本の指を細めていった。「格好よかったですよ、冬月さん。大切な人を侮辱するな、なんて案外熱い所があるんですね」
体全身が熱を帯びる。すでに火の車状態だ。
「味噌鍋にしても、そうです。まさか友人のせいにするなんてらしくないですよ。正直な方だと思っていたのに、残念です」
「春花さん、最初から知っていて食べてたんですね?」
「ええ。僕は冬月さんみたいな人を苛めるのが結構好きなんです」
彼の笑顔に自分の心が脅える。体中が熱を帯び、煙を噴き出していく。主導権を握ったと思って彼の上に座った自分がひどく惨めだ。
「やめて、それ以上いわないで下さい」
「……時計ですよ」
「え? 何がです?」
「その、女将さんをなぜ疑ったのかという話です」
……ああその話か。
すでに頭の中から飛んでいたが催促することにした。
「あれだけ和装が似合う人です。あの人に腕時計は似合わない。本来着物には時計などのアクセサリーは不必要なものですからね。身につけておくにしても着物の中に隠せる懐中時計など、一目に触れないものを用意すべきです」
彼の言葉に思わず息を呑む。では最初に女将に会った時点で何らかの疑いを持っていたのだろうか。
「最初から女将さんを疑っていたんですか? 時計を身につけているだけで?」
「まさか。それだけで殺人をするとは思ってませんよ」椿は首を振った。「冬月さんの様子に気づいたからです」
「私の様子?」
「ええ、いつもの刑事の眼になっていましたよ」
大きく溜息をつかざるを得ない。酔っ払っていた椿にさえ自分の様子がわかったのだ。どれだけ顔に表情が出ていたというのだ。
……でも、ちょっとだけ……嬉しい。
「……春花さん」リリーは再び椿の首に腕を絡めていう。「これは罰で上げる予定でしたけど……ご褒美で上げます」
そっと顔を近づけ唇を重ねようとすると、突然ドアが開いた。どうやらお客が来たようだ。彼から慌てて飛び降り一歩退くと、l彼は顔を真っ赤にし万歳したままだった。
「あら、お邪魔でしたか?」
綺麗に着飾った女性が申し訳なさそうにドアを少しだけ開けてこちらを眺める。
「とんでもございません。ご、ご来店誠にありがとうございます」椿は座ったまま頭を下げている。
「春花さん、その挨拶はお店が違いますよ」
黒髪の女性は小さく笑って花束を見た。「まあ、とっても綺麗。オリーブを入れて下さったんですね」
「ええ、今日が誕生日だと聞いてちょうど庭に生えていたのでアクセントで入れてみました。メッセージカードは柊(ひいらぎ)でよかったですか」
「ええ、そうです。ありがとうございます。あの人もきっと喜んでくれますわ」
勘定を済ませお客が笑顔で店を出ていく。彼を見ると、思考回路がまだ止まっているように見えた。
「お、終わりましたね」
「そ、そうですね」
椿はぎこちない動きをしながらも戸締りに入り、自分もそれに合わせて片付けを手伝う。
「お客さん、嬉しそうでしたね」
「そ、そうですね、やっぱり喜んで貰えたら嬉しいですよ」
椿はテーブルを閉じたり開いたりしながら答えた。
「何をしてるんですか?」リリーは目を細めていった。「続き、して欲しいんですか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」彼の頬はさらに高潮した。
……少し攻めすぎたかもしれない。
だが惚け続けた彼の方が悪いのだ。これからは迷わず彼の心を手に入れるまでアプローチを続けるつもりだ。
店の片付けも終わりに近づいていた。最後に『瞬花終灯』と書かれた暖簾を納めてリリーは呟いた。
「今頃ですけど、お店の名前の意味がやっとわかりましたよ、春花さん」
「といいますと?」
一瞬、間を置いて椿の瞳を見つめていう。
「『花』は一『瞬』で『終』わるけど心を『灯』す、という意味なんですね」
「……その通りです、冬月さん」
そういった後、椿は優しく微笑んだ。その笑顔を見て自分の心も満たされていく。
……あなたと出会えて本当によかった。
リリーは心の底からそう思った。素直になるということがこんなに素晴らしいことだなんて思いもしなかった。
この感情は椿が教えてくれたのだ。彼の純粋な心が自分のガラス玉を溶かしてくれた。
不意にこの一年間が走馬灯のように過ぎていく。
『
春』にサクラの一瞬の輝きを見た時には『喜』びで胸が溢れ、
『
夏』に花火の閃きを見た時には椿の天然過ぎる言動に『怒』りを覚え、
『
秋』に秋桜美の話を聞いている時には、いいようのない『哀』しみを感じた。
でも『
冬』にはまた新たな感情を一つ覚えた。それは好きな人と一緒にいると『楽』しくて心がほっとすること。
目を閉じれば母親が愛した庭が蘇った。そこには小さくなったガラス玉が落ちており父親の姿が映っていた。
――リリー、俺は一足先に行っている。今すぐにでも彼女の声を聞きたいんだ。
ガラス玉は、『喜怒哀楽』の感情で包まれた液体を吸い込んで苔を生やしていた。屋久島で見た苔のようにふんわりと全てを包み込んでいる。
――俺は感情を押し殺すことで百合の存在を掻き消していた。そうしなければ俺自身を保てなかったからだ。本当にすまない。お前の心の声を聞いて様々な感情が生き返ったよ。
『春夏秋冬』を経て、たっぷりと光を受けた苔から、今、一つの花が閃いた。コスモスのように憂いを秘めながらも終わることのない連鎖を受け継いでいる。
――お前が見せてくれた花は季節を通した中でも一番好きな花だった。俺と百合の中でな。お前も好きになってくれて嬉しい。
だから俺は今から行ってくるよ、百合が好きだったあの場所へ。今の季節にしか咲かないあの花を見に行ってくる。
その花は眩いばかりの光を放ち始めた。沈んだ心の底まで全てを照らす光だ。睡蓮の花のように暖かい灯火を点けている。
――ありがとう、リリー。帰って来たら再び報告をさせて貰う。
その時は熱い『ミルク』紅茶を飲みながら語り合おう――。
目を開くと、椿が一輪の赤い花を持って佇んでいた。
その花は線香『
花』火のように淡く光りながら、サクラのように一『
瞬』の輝きを放っている。
気がつけばリリーの心の中にも、ツバキの花と同じように暖かい光が『
灯』っていた。
『
終』わり
ログインしてコメントを確認・投稿する