15.
「さ、着いたよ。……だけど、本当にいいの? まだ早いんじゃない」
「いいの、自分を信じてくれている人がいるから、止まれないの」
桃子は目の前にある建物の中に入った。建物の中は薄暗くどんよりとした空気を放っている。それでも前に進み目的を果たさなければならない。
手続きを済ませ看守に挨拶をする。いよいよこの世で最も一番会いたくて、会いたくない顔に面と向かなければならない。桃子は戦慄と恐怖を覚えながら指定された椅子に座った。
向かいの扉が開く。その扉は熱を持たず冷ややかで重たい空気を作っていた。まるで今から地獄からの死者を迎えいれるようだ。
扉が開いたことで彼女の全身に寒気が襲う。だがその扉から現れた人物が目に入ると内から来る鼓動は熱を持ち全身が火傷するようなエネルギーで満ちていった。
そこには自分の母親を殺した夏鳥皐月がいた。
「……久しぶり、だね」
「……そう、だな」
桃子は椅子についた後、自分の気持ちを落ち着かせるため深呼吸をした。心の中には冷静でいようとする自分と興奮の中で怒りに身を任せようとする自分が存在している。
そのどちらも本当の自分だ。だが数秒毎に気持ちが入れ替わるのは初めて味わうものだった。
皐月を見ると明らかに変貌を遂げていた。長い金髪は丸く散切り頭にされ一気に若返って見える。褐色のよかった肌も日に当たっておらず白くなっており絞まっていた胸板は見る影もなく細くなっていた。
「元気に、してる?」
「あ、ああ……」
「あのさ……皐月君に……」
ここに来るまでに何度も想定していた言葉がいつの間にか宙に消えていた。どうしてお母さんを殺したの? 私との付き合いは全部、嘘だったの? 病院で初めて会った時からこの計画を考えていたの?
訊きたいことは山ほどある。だが始めに確かめないといけないことがある。
「あなたに……訊きたいことがあるの」
「ああ、何でも正直に答えるよ」
「あ、あのさ……お母さんは本当に蘇鉄さんと不倫していなかったのかな?」
そういうと彼の顔が突然歪んだ。
「ど、どういうことだ?」
「私もね、実は蘇鉄さんとお母さんは付き合ってたんじゃないかなと考えたことがあったの」
ゆっくりと言葉を選んでいく。
「……でもそれでもいいと思ってた。お母さんからお父さんの話は聞いたことがなかったし家にはお父さんの物が全くなかったから」
父親が自分の家を建てたことは知っている。でもそれだけだ。父が何をして、どんなことをしているのか自分は全く何も知らない。
「だから、もし私が皐月君の立場だったとしたら、復讐を考えていたかもしれないと思ったら、話をちゃんと訊かなきゃいけないと思ったの」
蘇鉄は月に二回、桃子の家の庭を手入れしていた。それは本当に父親のことを思ってのことだったのだろうか。
皐月の母・桜が病死していることも知っている。その前日に庭の手入れに来たことも知っている。だが全ては蘇鉄から聞いたことだ。当の本人達はすでにこの世にはいない。いくらでもごまかそうとすればできることだ。
「桃子、何をいってるんだ……今更何をいってるんだよ……」
皐月の表情は強張ったままだ。それでも彼女は続けた。
「私はね、正直……皐月君に会いたくなかったよ。こんな現実を受け入れる力は私にはないからさ。きっと一生あなたのことを許すつもりもないし許さないとも思う。
だけど……真実が知りたいの。もし桜さんが生きている間からお母さんが蘇鉄さんと付き合っていたというのなら……私はどっちも軽蔑する」
皐月は頭を捻りしばらく沈黙した。やはりこの質問は想定になかったらしい。先ほどまで強張っていた表情が一変していつもの彼の表情に戻っていた。
「親父は庭を見ればわかるといっていた。俺はもちろんあれから見ていない。だがそれも親父の言い分だな」
その後、突然皐月は声を上げた。
「綾梅さんの日記がある。あれには俺たちが生まれた時のことが書かれてあった。それに一番後ろのページには何かの建物の写真があった」
「建物の写真?」
皐月は頷いて続けた。
「何か細長い建物だった。赤い色が混じっていたが写真全体が墨で塗りつぶされていてよくわからない状態だったが」
細長い建物。きっと楓が手掛けた建物に違いない。楓が大工をしていたことだけは知っている。
「なんで墨に塗りつぶされていたんだろう」
「わからない。だが真実を知るためには綾梅さんの気持ちを確かめるしかない。だから……」
「うん。その先は……いわなくてもいいよ」
皐月のいいたいことはわかる。楓のことを調べるしかないといっているのだ。
「そっか……。そうよね……。今まで見てない振りをしていたけどやっぱり調べるしかないか……」
桃子の表情に気づいたのか皐月は声のトーンを落として告げた。
「質問はそれだけか?」
時間が迫っていた。別に日を改めればいくらでも話すことはできる。だが再びここを訪れる日はないだろう。
「じゃあ最後に一つだけ。最初からだったの? 私が秋風桃子だったから復讐の対象として近づいたの?」
皐月は首を横に振ろうとしたが、そのまま目を背けたまま桃子に告げた。
「……あ、ああ。そうだ。全部、最初から最後まで計画を手掛けるためにやったことだ。だから俺を恨んで貰って構わない」
「そう……そうなんだ」
看守が足を踏み出した。それに合わせて桃子は席を立ち部屋の扉を開けた。
「……お疲れ様」
菜乃香は車のエンジンを掛けながら無言でアクセルを踏んだ。
「訊きたいことは訊けました。ありがとう」
「……そっか。よかったね」
しばらく走っていると視界がぼやけているのに気づいた。それが自分の涙だと気づくのにしばらく掛かった。
「泣きたい時は泣いていいんだよ」
菜乃香はそっとハンカチを取り出した。だがここで泣いてしまっては理性を保つことができそうにない。
「……違うの。これはね、花粉」どうしようもなく溢れてくる感情に抗えない。彼女のように理性を保つことができればいいのにと思う。「私、花屋なのに花粉症なんだ……」
……きっとリリーさんも今頃、立ち向かっているのだろう。
居候先にあった古びたアルバムを思い出す。幾重にも重なった屋久島の写真、庭にあった隙間のない花写真、幸せそうな家族写真。
今の彼女には見られない面影がたくさんあった。そこには無邪気に感情を振りまく一人の少女が映っていた。
……彼女もきっと、ぎりぎりの状態で生きている。
アスファルトで埋め尽くされた庭を見ると、そう確信させる何かがあった。踏み込んではいけない領域だとも思う。しかしあの時の彼女の強い瞳を見て、送り出すことを決めたのだ。
……私も負けられない。
ここに来たのは自分の意思でありながらも、自分の意地だ。痩せ細っていた感情をリリーに見せたくなかった。彼女のためにも今まで泣くことを我慢していた。それは一重に彼女に純粋な献身を受けていたからだ。
先に進むことは確かに怖い。それでも身内でもなく信じてくれているリリーがいるから、私は前を向くことができる。
折れそうになりながらも懸命に生きている彼女がいるからこそ、私は前へ進むことができるのだ。
「辛かったよね、桃子。今は泣いていいよ。我慢しなくていいんだよ」
「我慢なんか……してない。涙なんか……涙なんか……」
……彼女と一緒にいるためなら、これくらい。
弱いままではいられない。共に潰れてしまうのが怖い。
きっとリリーはどんな私も優しく受け止めてくれるだろう。それが何より怖い。彼女の荷物になるのが怖いのだ。
「……これ貸してあげるから。今だけは泣いていいんだよ」
目薬と共にハンカチを受け取る。やはり菜乃香には敵わない。
桃子は目薬を差した後ハンカチで顔全体を覆った。そしてしばらく身を丸め彼女の前で泣き崩れた。
16.
「お疲れ様でした。それでは乾杯しましょうか」
鈴虫の鳴き声を聞きながらリリーはお互いのグラスにビールを注ぎ込んだ。勢いよく口に流し込むと、心の中は達成感で一杯になっていく。
屋久島の夜も今日で三日目。明日、帰ることを考えると、少しだけ寂しい気持ちになる。
椿の顔を見ると、すでに真っ赤になり高潮していた。普段飲まないというのは本当らしい。
「春花さん、顔が真っ赤になってますよ」
「そうですか? いや、まいったな」椿はグラスを空にしながら目の前にある唐揚げをほうばっている。「冬月さんも真っ赤に見えますよ。照明のせいかな、ぼんやりしてみえます」
手で確認してもほとんど熱を帯びていないし、近くの窓で見ても赤くなっていない。すでに彼は酔っ払っているらしい。
……たった一杯飲んだだけなのに。
「大丈夫ですか、春花さん。お酒は止めときましょうか」
「大丈夫ですよー、いざとなったら冬月さんがいるじゃないですか」
普段の椿からは想像がつかない姿だった。だが自分のことを頼りにしてくれるのは嬉しい。
「今頃訊くのもなんですけど彼氏とかいらっしゃらないんですか? 確かめもせず二人で来てる時点でおかしな話ですけど」
「もちろん、いませんよ」リリーは大きく首を振った。「いたら来るわけないじゃないですか。春花さんはいないんですよね?」
春の時、パン屋の店員が独身だということをいっていた。彼女がいないとはいっていなかったが多分いないのだろう。
椿はグラスを空にして頷いた。
「残念ながら……。でも独り身も楽でいいですよ」
どうやら椿は酔うと笑い上戸になるらしい。
普段から笑顔を絶やしていなかったがそれは接客から来る作り笑いのようだ。今の笑みは完全にいやらしい目つきそのものになっている。
……正直いって気持ち悪い。
「冬月さんは結婚など考えていますか?」
「相手がいたら考えますが……今の所は」
「そうなんですね。なんだか冬月さんには似合わない気がします」
淡々と述べる彼に怒りを覚える。普通、お世辞でもフォローするのではないかと思うが、彼にはそんな考えが浮かばないようだ。
リリーが睨むと、彼は慌ててフォローしてきた。
「あ、すいません。リリーさんには結婚相手がいないという意味ではなくて、家庭生活が似合わないというか……料理などしている姿が全く浮かばなくて……子育てしているイメージが全く沸かないんです」
フォローになっておらず、余計に腹が立っていく。酔うと本性が出るというが、普段の姿は全て嘘で固めているのではないかと疑ってしまう。
「それ、フォローのつもりですか?」彼女が強い口調でいうと、彼は再び頭を下げてきた。
「すいません、よく気遣いが足りないと怒られるんですよ。次は気をつけます」
「お楽しみの所、すいませんね。ここは二十一時までになっているんです。もしよろしかったら売店でお酒が売っていますので、お部屋で飲んで頂いてもよろしいでしょうか?」
食堂の女将が声を掛けて来た。時計を見るとすでに二十一時半を過ぎていた。
「すいません、すぐに出て行きますね」
ぐでんぐでんの椿と一緒にエレベーターに向かう。まだ飲み足りないが、彼の様子を考えると飲める状態にはなさそうだ。
シャッターの閉める音が聞こえ振り返ると、オーナーが見えた。
「お連れの方、大分酔っ払っていますな。今日は縄文杉でしたね。途中から雨が降っていましたが大丈夫でしたか」
「ええ、山頂に辿り着いてからだったので。とても素晴らしい所でした」リリーは携帯を開いて小さな花を尋ねてみた。
「そういえば見て欲しいものがあるのです。この花を見たことありますか? とっても小さかったんですけど」
「すいません、ちょっと失礼」彼は首に掛けてある眼鏡を掛け画面を覗き見た。「んーこれは先日あなたが気にいっていた写真の花ですよ。オオゴカヨウゴレンという花です」
「えっ?」
改めて照らし合わせてみる。写真の映りからしてかなり巨大な花だと思っていたが、よく見ると同じ特徴をしている。
「でも冬の花じゃないんですか? 今日咲いていたのを見たんです」
二人の様子を見て女将が会話に加わってきた。
「ああ、珍しい。今の時期に咲いていたんですか?」
リリーの携帯を目の前にし顔を綻ばせている。
「ええ、そうなんです。洞窟の中に咲いてました」
「綺麗ですね。あなたもこれくらい綺麗な写真が撮れればいいのにね」
「何をいってるんだ、これは俺が撮ったんじゃないか」
オーナーはそういって額縁に掛かった写真を指差した。
「違うわよ。これは現像を頼まれていた写真でしょう? 結局、その方は帰って来なかったから、うちで飾ることにしたんじゃない」
心臓がドクンと高鳴る。
まさか、この写真は……。
「それはもしかして二十年くらい前の話じゃないでしょうか?」
リリーが尋ねると女将は首を振って頷いた。
「そうそう。確かそれくらいです。女性の写真家でした。ご家族が見えていたんですが、結局ここに飾って欲しいということだったので飾っていたんです」
もう一度写真を見る。その時の記憶はなかったが、この情熱は百合から来るものだったのだ。それが言葉を通さずとも自分の心に伝わった。
母親と今、時間を越えて繋がることができたのだ、一枚の写真を通して―――。
「すいません。この写真を私に譲ってくれないでしょうか?」
「え、もしかして……」女将とオーナーはお互いに顔を見て頷いた。
「そういえば父親は外国人だったな……そうか、あなたが……」オーナーは鼻を擦りながらいった。「もちろん構いませんよ。この写真はあなたが来ることをずっと待っていたのかもしれないね」
写真を受け取ると百合の思いまで胸の中に入り込んできた気がした。花を見つけた時に感じた温もりが再び舞い込んでくる。
「それにしてもよく雨の中、こんな小さな花を見つけることができましたね。本当にお花が好きなんですね」
女将の言葉を受けて首を振る。
「本当にたまたまです、でも……」
リリーは胸に手を当てて本心を告げた。
「私にとっては一番の思い出になりそうです」
続きへ(7/7)完結→
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